獣剣 月の牙 10
何時からだったろうか、自分が泣かなくなったのは。
最後の記憶は、確か、父に尋ねた時だ。
母は、どうしたのかと。
その時に殴られ、大声で泣いたのが最後の筈だ。
父が死んだ時は、泣かなかった。
御用猫の耳の奥で、子供の泣き声が聞こえる。聞き覚えのある声。
最後に聞いた自らの泣き声は、我ながら、情けなくも、大きな声だと、何故か良く覚えている。
まるで他人事のように、その声を聞いていたのを覚えているのだ。
だから、この声が聞こえる時は、自らを慰める事にしている。
早く泣き止め、でないと。
(死ぬぞ)
御用猫は跳ね起きた、意識はあやふやだ。記憶は繋がらないが、今はどうでも良かった。
(生きろ、生きろ、今は足掻く時だ)
左腕は、完全に折れて動かない、痛みを遮断しろ。
剣はある、肋骨は折れたが、まだ振れる。
出血も無い、まだやれる、「浮島」で、上手く跳べたのだ、左から弓だ、ブブロスの仕業か、やはり狙いは正確だ、最小限の動きで避けられる、愛刀は右に、捻転、呼吸、最小限だ、最小限の動きで、最大限の力を、ネップは鈍重だ、大したことは無い、今も気付かないのだ、ブブロスの顔が見えないのか、ほら、早く打ち込め、そう、簡単だ、簡単に躱せる、これ以上は伸びないだろう、ほら、奴は気付かない、肩口を咬まれて、初めて叫ぶのだ、捻転、最小限の、最大限!
ぐるり、と、身体を捻った所で、御用猫の意識が、身体の動きに追い付いた。
足元にめり込むネップの斧を踏み付け、その太い首に斬撃を。
大木を打ち倒す木樵のように、振りかぶった渾身の一撃を叩き込む。
「応ッ!!」
カディバ一刀流「二輪咲き」
脇構えから振り切る瞬間、鍔から柄頭まで、握りをずらし、距離と破壊力を上げる技である。
本来ならば、完全に首を断てたであろうが、御用猫は片手で、手負いであった。
それでも、その太い首の、頸骨まで断たれたネップは、もはや生きてはいられぬ筈なのだが。
なんたる巨人の生命力か、だくだく、と、傷口から血を流しながらも、御用猫の首を両手で掴み、信じられぬ力で締め上げてくるのだ。
「ごうっ」
御用猫の両足が地面に別れを告げた。これでは腰が入らぬだろう。
傾いた首のまま、ネップが笑う。ごりごり、と、御用猫の耳の奥で、こもったような、嫌な音が聞こえ始める。
「男と、心中は、ごめんだな……」
再び薄れる意識の中で、それでも御用猫は足掻く、足掻いて、女神に餌を強請るのだ。
両脚でネップの腹を挟み込む、まずは土台を作れと、猫の本能が知っている。
「嚙み切り」では駄目だろう、腕が太過ぎる。御用猫は腰から脇差しを抜き取り、ぶくぶく、と、血を吐く食人鬼の胸に突き立てた。
(同じ鬼でも、餓鬼じゃないんだ、あの世には、ひとりで)
「……逝けぇッ! 」
肺に残る、僅かな空気を全て吐き出し、御用猫は脇差しを根元まで、巨人の心臓に、一気に押し込む。
その勢いで背を逸らし、ネップの指をきると。
おそらく、大陸一であろう大巨人は、御用猫を乗せたままに、巨木の如く、仰向けに倒れたのだった。