獣剣 月の牙 9
それを、人と呼んでも良いものか。
「熊」のネップは、御用猫の見立てで、身長三百二十センチ、体重三百キロはありそうだ。これ程の巨人を目測した事など無いので、彼も正確さには自信が持てないのだが。
御用猫にも、初見で受けた衝撃がある、多少大袈裟な数字かもしれぬが、明らかに、人としての範疇を超えているだろう。
(あんなもん、まともに動けるはずが無い、山エルフとの混血か)
ドワーフとも呼ばれる、山岳地帯に住まうエルフは、体格は同じでも、人間種を遥かに超える筋力と頑健さを誇る種族だ。すっぽりと被った、耳当て付きの皮帽子のせいで、尖った耳かは判別付かないが、だらりと下げた長い腕は、山エルフの特徴である。まず、間違いは無いだろう。
飛び出した下顎と、厳つい顔の割に小さな目をしたこの巨人は、背中から、やけに柄の太い、両刃の戦斧を取り出すと、玩具でも弄ぶように、くるくると、手の中で回してみせる。
「ブブロス、こりゃあ、どうなってんじゃ、説明せいよ、そこの黒い傷顔はだれじゃ、殺すんか」
少し、訛りのある話し方だ、片言だろうな、との御用猫の期待は裏切られたのだが。
(そんな予想が立てられるとは、俺も、なかなかに余裕があるではないか)
苦笑する御用猫をちらりと見たブブロスは、革手袋で鼻血を拭う。
「エルフの雇った傭兵だろう、いや、賞金稼ぎか、お前さんを探していたぞ」
「おん? なら殺すべ」
この様子、たまたま出会った訳でもあるまい、月狼を狙うネップの一味とブブロスは、間違いなく、協力関係にありそうだ。
のしのし、と、ネップは無造作に近づいてくる。会話で、もう少し時間を稼ぎたかったのだが、あまり話に乗ってきそうなタイプでは無いだろう。
とはいえ、逃げた二人を追われるのは面白く無い。御用猫は真横に走りながら、挑発の為の言葉を探す。
「俺が探してたのは、熊の子なんだよ、オーガの落し子は、家に帰ってくんないかなぁ! 」
「あー? オーガって何だ? 」
「馬鹿も帰ってくんないかなぁ! 」
(くそう、唯の馬鹿だったか、やり辛い)
心中で悪態をついた御用猫は、大きめの樹を盾にしながら移動する、ネップは後回しだ、周りの手下から減らして行かないと。
大方の予想はついている、慌てた風を装いながら、さり気なく、目的地に辿り着くと、振り向きざまに脇差しを投げ付けた。
短い悲鳴と共に、年若いエルフが倒れる。御用猫の側を通過した矢は、近くの樹幹に突き刺さる。
「ロレホドッ!」
今のはブブロスの声か。
喉元を突かれ、息絶えたエルフから脇差しを回収すると、もう一度、敵の配置に目を配る。
呪いで伏せていたエルフは倒した、後は見える範囲に七人。
御用猫は振り向くと、ウィンドビット達とは別方向に走り出す、野良猫の自慢は逃げ足だ、足場の悪い森の中ならば、少なくともネップは付いてこれまい。
そう思った矢先、足を取られ、転倒する。
(なんっ? 鋼線? )
確認する間は無い、転がりながら、続け様に撃ち込まれる矢を躱す。
ブブロスだ、弓の弦を口で引き、器用にも連射してくる。最初の投げ罠も、この弓で打ち出したものか。
流石に熟練の狩人である、この状況で、獲物を追い詰める術に長けている。野良猫には、些か相性の悪い手合いだ。
起き上がる勢いを利用して、足の速そうな、軽装の男を一人斬り倒し。振り返った御用猫の目に、勢いをつけて戦斧を振りかぶる、ネップの姿が映し出された。
(畜生、この馬鹿、真っ直ぐきやがって、少しは警戒しろよ! )
愚直にも、最短距離を突き進んできたのだろう、しかし、この大男には、有効な戦術だと言えなくも無い。
大振りな攻撃だ、一歩退がって躱し、踏み込んで首を刎ねる。だが、あの太い首を取るには、全力で撃ち込まねば。
仕留め損なえば、致命的な反撃を受けるだろう。
ぐっ、と身構えた御用猫の左側から、遅いかかる大斧であったのだが。
「伸びっ!?」
それは、一瞬の事であった、やけに太いと思っていた斧の柄が、振り回した遠心力で、二段ほど伸びる。
後ろに下がる御用猫を確実にとらえた一振りは。
ごうっ、と風切り音とも、衝撃音とも付かない、うなりを耳に残し。
御用猫の身体を、まるで紙人形の様に、高く舞わせたのだ。