恋模様 15
「初めまして、辛島ジュート様、私、マリンルイゼと申します」
御用猫の前に現れた女性は、リリィアドーネと同年代だろうか、薄い茶金髪を一本に編み込み、草色の簡易なドレスを身に纏っている。
そばかすの残る顔立ちは、全体的に地味な印象ながら、造りの良さは伺える、磨けば光る、という事だろう。
御用猫は椅子を引いて席を勧め、対面に着席した。隣でフィオーレが、自慢の紅茶を淹れ始める。
ここは、以前に御用猫も訪れた事のある、フィオーレの別邸である。庭のテーブルには、幾つかの天幕が張られ、日除けになっていた。四本の柱に四角い布天井を張っただけの簡素な天幕であったが、柱間に冷風の呪い札が取り付けられ、照りつける日差しが嘘のように快適であったのだ。
「いや、ビュレッフェ殿も人が悪い、このように美しい女性と婚約しながら、私に紹介も無いとはね」
殺意にも似た視線を首筋に感じながらも、快活そうな笑顔を見せる御用猫、今日の彼は顔面に傷が無い、名誉騎士「辛島ジュート」の姿である。
この偽名に意味はない、ただ、御用猫の記憶の中に、何度か覚えがある、というだけで、それが彼自身の名前なのか、父のものか、それとも他人か、あるいは父が手にかけた首かもしれぬ。
ただ、聞き覚えがあるというだけで、何とは無しに、妙な愛着のようなものがある。それだけなのである。
ともかく、今の御用猫は、ビュレッフェの友人という立場で、この茶会に参加していた。
「いえ……あの方はお忙しいですから」
視線を落とすマリンルイゼは、ほぅ、と溜め息を零す。ばつが悪い、といった風ではない、寂しそうな、悲しい顔だ。
(この女、ビュレッフェを憎からず思っている、というのは、本当のようだな)
しかし、マリンとマリリン、似た様な名前の女だが、これも合縁奇縁というべきか。
(臥所で寝ぼけて、別の名前を呼んでも、うまく誤魔化せそうだな)
御用猫は、恐怖の記憶を呼び覚ますまいと首を振る。何か、天幕内部の温度が下がったような気がした。
「あやつめ、婚約者を放置するなど、無粋にも程がありますな、ふむ、マリンルイゼ嬢の為、この私が一肌脱ぎましょう、なに、心配は要りませんぞ、貴女の名前は出さずに、それとなく言い含めておきますゆえ」
御用猫は、からから、と笑う。我ながら気持ちの悪い演技だと思ったが、貴族の男、それも気性の荒そうなビュレッフェの友人なら、この方が、それらしい、かと考えたのだ。
幸い、彼女はビュレッフェと連絡を取るような、気安い仲では無さそうだ、御用猫が接触したからといって、伝わる事はあるまい。
後はビュレッフェに直接会い、彼女に誠実であれ、と上から説教でもしてやれば良い、何なら、アドルパス辺りの威を借りても良いだろう。
ビュレッフェが心を入れ替えて、マリリンと手を切れば良し、そうで無くても、心中穏やかでは居られないだろう。マリンルイゼにしても、これでなお、娼婦に熱をあげるような男ならば、破談になった方が、まし、かも知れないのだ。
ともかく、ビュレッフェに迷いを生み出すことが出来れば、それで良い。迷いあれば、剣は鈍するものなのだ。
御用猫はクロンに負けて欲しくはあるのだが、わざと負けさせるのは。
(すじ、が通らぬだろう)
と、考えている。
元々、ウォルレンとケインからの頼みでもある、勝つ可能性が上がるというのに、それをしないのは、彼らを裏切る事にもなるだろう。
しかし、その二人といえば、先程から、貴族の子女を口説くのに夢中であった。
フィオーレ経由で王女の力を借り、この二人を派遣して貰ったのは、茶会の為の人数合わせであったのだが、どうも、人選を間違えたか。
フィオーレの個人的な茶会という事で、同世代の女性のみ、少人数ではあったのだが、男が御用猫一人では不自然であろうと、ウォルレンとケイン、そして。
「申し訳ありません、僕は、この様な場所には、その、不慣れなもので」
リチャードが何か言葉を発するたびに、周りを囲む女性陣から嬌声が上がる。何とかリチャードを守ろうと、サクラは孤軍奮闘しているが、妙齢の女性の力を、彼女は甘く見ていた様だ。
たとえ身分が低かろうと、リチャード程の美少年だ、群がる女性達は餓狼の集団以上に恐ろしい。
まぁ、良い経験になるだろう、と、マリンルイゼに挨拶をしてから、御用猫は席を立つ。
さて、どうするか。
このまま、さり気なく消えてしまうのが一番ではあるのだが。問題は、どうやって逃げ切るのか。
「辛島、ジュート、殿」
「はい、ジュートです」
振り向いた先には、天使が居た。
屋外での茶会という事で、簡素なドレスではあったが、明るい薄黄色の膝丈のワンピースを、腰の辺りで同色の大きなリボンで緩く縛り、年相応の可愛らしさがある。
栗色の前髪は簡素な髪留めで押さえ、つるりとした額が半分ほど見えている。口紅以外は、殆んど化粧をしていない様子だったが、むしろ、下手な化粧は、彼女の美しさを損なう事になるだろう。
天幕を出た事で、明るい日差しに照らされた彼女は、まさに。
「おべっかはいい」
「うぐっ」
なんたる事か、これ程に褒めそやせば、普段の彼女ならば、一時間は時を止められるはずなのだが。
「殿下に請われて断れず、この様な場に出てきたが、まさか、わ、私の目の前で、女性をくど、くど」
これはいけない。リリィアドーネは、何やら盛大に勘違いをしているのだ。
身の危険を察知した御用猫は、助けを求めて視線を彷徨わせる。
その時、中庭に流麗な音楽が流れ始めた。ふと視線の合ったフィオーレが、唇に指を当てて、片目を瞑る。
(ありがとうフィオーレ! 助かった、お前の分類は「出来る女」「ゴリラ」に分け直しておくからな)
御用猫はリリィアドーネに下から手を差し出す。
「よろしければ、一曲、ご一緒にいかがですか? 」
しばし逡巡したリリィアドーネであったが、おずおず、と、御用猫の差し出した手に、その掌を重ねる。
御用猫は、ダンスが得意、などという事は決して無い。以前、仕事の都合で多少練習しただけなのだが、それは彼女も一緒だったようだ。やや、ぎこちないステップであったが、途中からは息も合い、リリィアドーネに笑顔が生まれた。
「リリィ、今日のは仕事だよ、ちょっとした調べ事でね、あの女性は、調査対象の婚約者なんだ」
「そう、なのか? 私は、わたしは、てっきり」
再びまゆを寄せたリリィアドーネを突然持ち上げてくるりと回した。流れに合わせて行った事ではあるが、流石、彼女は綺麗に着地する。
周囲から、小さく歓声が上がる、男性の数が少ない為、半分以上の女性は観戦していた。
はにかんだ笑顔を見せたリリィアドーネは、どうやら落ち着いた様子であった。
(今度、道場で座禅でもさせてみよう、もう少し精神修養すれば、落ち着きのある女になるかも知れない)
そうだ、そうしようと、御用猫は決断する。
ゆるりと、一曲が終わり、日差しのせいで多少汗をかいた御用猫は、リリィアドーネを連れて天幕に戻ろうとし。
「そういえば、今日は変装してたのに、よく俺だと分かったな」
御用猫は、今は見えない顔の傷をなぞる。
「そんなもの、分かるに決まっているだろう、少し驚いたのは確かだが、私は、別に、顔の傷を好きになった訳ではないのだから」
屈託のないリリィアドーネの笑顔は、空の太陽を束ねたようだ。
おそらく、今の発言は、半ば無意識であったのだろう。だからこそ彼女の本意であり、不覚にも御用猫の心に深く刺し込まれた。
少しだけ、クロンの気持ちが、分かった様な気がした。
これを抜き取るのは、どうも、容易い事ではなさそうだ。
しかし、リリィアドーネは、その輝く様な笑顔のままに、御用猫に告げる。
「猫よ、それは分かった、しかし、約束をしたはずだ、寂しいからたまには連絡が欲しいと……それなのに、手紙の一つも無く……そういえば、先ほど、恋人を放置するのは、無粋だとか言っていたな」
「あいたー」
どうやら、根本的な問題は解決していなかったようだ。
もう少し筆まめな男になるべきか、いや、リチャードあたりに代筆を頼もう、定期的に手紙を送れば、この娘も安穏たる日々を過ごせるだろう。
額に手を当てて空を仰いだ御用猫の目に、痛いほどの、夏の太陽が差し込んできた。