恋模様 9
翌日、サクラは早くからやってきた。
まだ寝床で、惰眠を貪る御用猫とチャムパグンを叩き起こし、店の裏まで引きずるように連れ出すと、顔を洗わせ、歯を磨かせる。
豚毛の歯ブラシを咥え、ぐずぐずと、いつまでも寝惚け眼の御用猫から、シャツを剥ぎ取り、頭から井戸水を被せるのだ
早く早くと、急かすサクラに、御用猫は余程、全裸になって黙らせてやろうかと思いもしたのだが、そんな事をすれば、恐るべき戦鬼共に言い付けられ、野良猫の短い人生は幕を閉じる事になるだろう。
なんたる理不尽だろうか、今もごしごし、と御用猫の背をタオルで擦るサクラは、時折、さり気無く、ぺたぺたと身体を触ってくる。
(逆の事をしたら、殺されるというのに)
まず、リリィアドーネ、それから田ノ上老とマイヨハルト、フィオーレも来るだろう。御用猫に加虐の限りを尽くし、土に埋めて桜の苗木を植え、存在を消し去るのだ。
「サクラって、結構、助平だよな」
「なぁっ!? 」
飛び上がった拍子に爪を立てられ、御用猫は顔を顰めた。
「なな、何を馬鹿な事、言ってるんですか! 私はただ、だらしないゴヨウさんの背中を拭いてあげただけです、男性の裸くらい、稽古の後に見慣れていますし、ただ、触る事なんて、昔に、父様と兄様のくらいでしたし、それに、ちょっと傷が多いなと、興味があったのは否めません、傷跡の手触りがぷにぷにしていて、何となく気持ち良いとも思っただけで、他意はありませんから! 」
喚き続けるサクラに、分かったから、と、適当に応え、御用猫は頭を拭きながら考える
とりあえずは、腹ごしらえをして、いのやに向かおう、そこで、みつばちをサクラにつけて、これからの段取りを伝え、日が落ちたら、ひとりでクロスルージュへ行こう、と
「何か食いたいものあるか? この時間なら、市場に屋台が出てるが」
「マグロの串がいいです! 衣つけて揚げたのもいいですが、タレ焼きもそそりますばい」
どこから現れたのか、全裸のチャムパグンが、ぴっ、と手を挙げる。
チャムパグンの隠形のわざを知らぬのだろうサクラは、一瞬惚けた後、タオルを持って、わたわた、と慌て始めた。
店の裏の井戸には、通りから見えぬように、衝立が有るとはいえ、呆れたものだ。
恥じらいの欠片も無いこの裸エルフに、御用猫は頭から、ざばり、と井戸水を掛けた。
「あれ、みつばちは居ないのか? 」
いのやの二階、廊下の突き当たりの部屋で、御用猫はカンナと対面していた。
チャムパグンは、マグロ串を両手に抱えると、何処へともなく消えて行った。腹が減ったら戻って来るだろう。
今はサクラと二人、カンナの私室を訪れていたのだ。
相変わらず光量を押さえた部屋は薄暗く、雪洞の仄かな灯火が、ゆらゆらと、三人の影を浮かび上がらせていた。物珍しいのか、サクラは、きょろきょろと、あちこちに視線を彷徨わせている。
「今は……ティーナさんの教育と、顔合わせだとか……」
カンナも、見知らぬ人物が居る事に落ち着かないのだろう、俯き加減に、もじもじと、袖を擦り合わせていた。
「あ、御免なさい、サクラ マイヨハルトと申します、今回は、ゴヨウさんがどうしてもと懇願するので、お手伝い、に……」
調子よく喋り始めたサクラは、しかし、御用猫が突っ込む前に、その言葉を失った。
「……ゴヨウさん、この方は……」
サクラは、カンナの火傷跡に気付くと、御用猫に詰め寄ってきた。
女性の顔に傷があるなど可哀想だと、チャムパグンなら治せるのではないのかと、本人を前に、些か配慮に欠けた発言だろう。
御用猫が窘めると、はっ、とした表情を見せ、すぐさまカンナに謝罪した。
その、あまりの潔さに、カンナは笑みを浮かべる。人物眼に優れた彼女の事だ、サクラの人となりを、何となく感じ取ったのかも知れない。
この少女は底抜けに正直で、真っ直ぐな人物なのだと。
「私なら、大丈夫です、この傷は、もちろん、好きではありませんが……」
もう、救われましたから、と笑うのだ。
笑えるようになったのだ。
御用猫も、少し、救われた気分であった。
奪うばかりの野良猫稼業で、たった一人でも、こうして笑えるようになったというのなら、自分がその助けになったというのならば。
それは、救いなのだろう。
何か、こころのうちに、温かいものを感じたが、それは、野良猫に似つかわしくは無いだろう。
カンナがこうして立ち直りつつあるのは、彼女自身の力である、所詮、野良猫は、そこに通りがかっただけなのだ。
そう、自分自身に言い聞かせる。
「とりあえず、みつばちで無くても構わない、誰かと繋ぎをとってくれ、ちょっとした仕事を頼みたいんだ」
「はい」
「サクラと一緒に動いてもらうからな、繋ぎは、お前達で適当にやってくれ、俺はこれから別行動するから」
「……ふひ? 」
気の抜けたような息を漏らし、カンナは御用猫を見つめる。
その表情は「ちょっと、何言ってるか分からない」と雄弁に語っていた。
「いや、この娘がな、情報屋ごっこに興味あるみたいでな」
「ごっこ、ではありません!いつも言っていますが、 ゴヨウさんは、もっと、何事も真剣に取り組むべきです」
二人のやり取りを、心ここに在らず、といった様子でカンナが見つめる
「あの、今日は……今夜は、猫の先生は……? 」
「いや、だから、別行動だって」
その時、サクラは見た、確かに見たのだ。
救われたはずの少女が、絶望の淵に堕ちる瞬間を
所詮この世は弱肉強食。
そこに慈悲など、ありはしないのだ。