チルオレタチ ストレイト
三年、俺達が造られてから、壊れるまでの、最長の期間だ。
俺達はヒトではない。二十年もの記憶も俺達のものではない。
二〇五三年現在、軍を持つ日本では、公にされていない兵器を持つ。
あらゆる身体細胞に変わる事が出来る万能細胞を応用したアンドロイド、またはガンノロイドだ。
二十歳の男女から、健康診断の際に採取した血液を使い、遺伝子を抽出。その遺伝子を元に俺達の身体が造られる。
一定の遺伝子を組み込み、数十倍の筋力、脳へ電気信号を送る事で身体の制御能力、十分な軍事知識量を与えられる。
自己判断能力を持ち、ナイフだけで戦車、戦闘機と戦う事が出来る。名称は『戦術級人型有機物質兵器』。
遺伝子情報に含まれる二十年の記憶により俺達の人格は成り立つ。
冷房が利いたビルから出ると、俺の体は汗に包まれる。造られてから二ヶ月は経っていた。俺達は国が用意した施設で最低限の生活をしている。
施設とは言っても十数階建てのビルが二、三棟ある住宅街と大差ない。違いは高さ百メートルの塀に囲まれている事。
不幸中の幸い、空が見える。俺の記憶の中でこれほど空がきれいだと思った事がない。写真を撮りたいと何度も思った。
そんなささやかな願いも叶わない。
生活の保障は、兵器である俺達を保存するためだ。物として扱われる俺達に人間としての尊厳はない。
「今日もいい天気だね」
監視員の男が俺に話しかける。「そうですね」と言って、俺は礼をする。
彼は正真正銘のヒトだ。
監視員の腰に銃型の起爆装置がある。爆源は俺達の体の中。起爆装置は向けた先にある一つの爆源を起動させる。俺達の体内部は無残な姿だ。
俺達は『死にたくない』からここで暮らす。物である俺達には生存権はない。開発側の人間の勝手で俺達は処分される。
起きて、食って、寝るを繰り返す日々。感情はどこかへ置き忘れた気がする。
「パシャ」
女の子の高い声。カメラのシャッターの擬音。
いつも聞こえる音は、あいさつ程度の簡単な会話と動物の鳴き声だけ。
声がする方へ俺は顔を向ける。
そこにはハンティング帽を被る小柄な女の子が木陰にいた。女の子は両手の人差し指と親指で出来た長方形を、空へ向く目線の上に置いている。
俺は女の子のポーズに困惑する。
外部と連絡する手段となる機器は所持する事が俺達は出来ない。写真を撮る事は諦めるしかなく、写真を撮るフリもしない。
好奇心と親切心に背中を押され、俺は女の子との距離を縮める。女の子も俺の存在に気づく。
「あまり、それをやらない方がいいよ」
女の子はキョトンとする。俺を見つめる女の子の目は澄み、この施設で保存されている俺達は全員同じ年だが、女の子は幼く見えた。
「なんで? 禁止されているわけじゃないよね」
「いや、そりゃ、そうだけど」
カメラの所持は禁止されているが、何かのフリをする禁止事項はない。
「一応、気にした方がいいから。あんな事もあったし」
俺が示した例は、数日前に砂場で絵を描いていたために処分された事だ。俺達の保管に関する要項は曖昧で、監視員の判断次第で処分の対象になる。
女の子は思案顔を地面に向ける。女の子はハンティング帽を深くかぶり直す。
「三年後と今で違いなんてないよ」
彼女の言葉には絶望が含まれていた。
俺達はクローンとも言え、クローンは脆い。百年ほど前、初の哺乳類のクローン、ヒツジのドリーは通常のヒツジの寿命の半分しか生きる事が出来なかった。その後もクローンは生み出され、自然に生まれたものの寿命に遠く及ばず死んだ。
最初から成人の俺達の細胞は死滅の連鎖が早く、細胞の生成には限度があるため俺達が存在出来るのは三年だけになる。戦場に出ればさらに早い。
ヒトが普段使える筋力は三十パーセント。俺達は一パーセント程まで抑えられる。戦場の俺達が使える筋力は百パーセントだ。同時に俺達の体に多大な負荷を与えられ、戦闘が収まる頃には俺達の体は崩れ去る。
俺達には権利もなければ、未来もない。今だろうが、戦場であろうが、変わらない。女の子の頬で滴が光る。
「だったら、生きている間は、夢を追いかけたいから」
夢はバカが見るものだと俺は思っていた。
今の俺になってからは価値が変わった。自堕落に生きて来た俺は、夢を持たない事に後悔している。
「それで、なんでかな?」
「なんでって?」
「なんで、見ず知らずの私を助けようと思ったのかな?」
俺達は互いの接触を避けている。出会ってすぐに死別だ。
「あ、いや、そのさ、君がかわいいからかな?」
「へ? ナンパ?」
女の子は呆然と口を開け続けた。
女の子はハンティング帽を深くかぶり直し、リンゴのように赤くなった顔を隠す。何度も俺を見て、うつむき、自分のスカートを引っ張る。
「その、ナンパのつもりはないけど」
「ごめん、またね!」
女の子は俺に背を向け走り出した。
『ごめん』とはナンパに対してなのか? 『またね』って事はまた会うつもりなのか? もんもんと女の子の文句の意味を俺は考え続けた。
ユメと言うのは記憶の整理によって起こると言う。
俺が見ているユメは違うようだ。
ユメの中は透明で透き通っている。俺以外に色がない。
「気持ち悪いな。ここ」
色がないという事は線が存在しないという事。
線がなければ自分のいる位置も、どう動いているかも分からない。
時間感覚も失い始めた頃、自分以外の色を持つものに会う。
ヒトの形だ、平衡感覚を失った事で大きさは分からない。色を持つと言っても真黒。黒いヒトは大きくなる。近づくから大きくなって見えるのだろう。黒いヒトは二メートルの距離ならば、俺と同じ身長の大きさで止まる。
「だれ?」
「喋った! よかった黒いヒトに襲われるユメじゃなくて」
「黒い? 俺の事なのか?」
黒いヒトの返答が俺に疑問を起こす。俺が判別出来ている状況と矛盾する。
「その言い方だと、俺が黒く見えている事になるよな?」
「そうだけど」
「俺は、お前の事が黒っぽく見える」
うっすらだが、口の形は見えた。黒いヒトは笑う。
「つまりは、そういう事だろう」
「そういう事って、わかるけど」
つられて俺も笑う。二人とも透明な空間の中で、互いが黒く見えているのだ。
「名前聞いていいか?」
「ダメな理由はないだろ。俺の名前は生夢星斗」
俺は黒いヒトに答える。黒いヒトは驚く。
「偶然だな、俺も生夢星斗だよ」
「偶然過ぎる偶然だな」
もう一人の星斗は大笑いして「ホントだな」と言う。声も俺に似ている。
「ところで、ここ気持ち悪いから変えたいんだけど」
「変えれるのか?」
「知らない」
しばらくの間、俺タチは透明空間から脱出する方法を考えていた。
俺はユメの中での出来事を覚えていた。
十日目のラーメンで昼飯をすませ、コーヒーを片手に屋上で空を見上げながら思考を続ける。リラックス効果で、脳は朝から考えていた女の子から解放される。かわりに俺達の存在について考え始める。
施設内で得る事が出来る情報はない。使えるのは頭の中にある情報だけだ。
幸い、俺には二つの利点があり、問題はない。
一つは趣味である読書。読んだものの中に関係するものがあった。
もう一つは作り出された脳回路。脳内の情報を自由に取り出せる。
結論は俺を悲しみ、怒りに満ち溢れさせた。
コーヒーに口をつけるが、空だ。
「もう一杯飲むか、どうせ明日もラーメンだし」
俺はリラックスのために今後の小さな贅沢を捨てた。
冷房が利いたビルから出れば、俺は汗に包まれる。
今の時間は昨日と同じ。期待はあるが、例の女の子に会えると俺は思わない。
俺は例の女の子がいた所を通り過ぎ、自分の期待を打ち砕きたかった。今日、その場所で、彼女に、会えなかったらば、出会いは俺の中でなかった事にして、いつもと同じ堕落した日々に戻る。
大切なものが出来れば、悲しみが待っている。それが常識な世界で生きるから。
だけれども、君はいた。
ハンティング帽を被り、木陰にあるベンチに。
女の子は呆然とする俺を見つけると、俺を的に撮るポーズをした。
「パシャ」
高い声は俺の中で響く。
心臓が見えない紐で縛られる。その紐は女の子の方に伸び、俺は引っ張られて行く。木陰の輪郭の上で足を止めた。
「こんにちは」
「ああ、いたんだ」
「またね、って言っちゃったからね」
女の子は舌を出し、苦笑いする。
今、彼女に会えた事に喜ぶ俺と、彼女に会えた事に悲しむ俺がいる。大笑いで気持ちを上書きした。女の子は首を傾げる。
「律儀だな」
「人と服は一期一会でしょ?」
「服?」
女の子は昨日と服装が全く違う。昨日はデニムパンツに大き目な花柄シャツだったが、今日は白を基調とするフリルのワンピースだ。
「わざわざ買っているのか?」
服装は自由に決められる。しかし、支給金は限られ、ほとんどは食事に使う。
「うん、だって女の子なんだもん」
「よく恥ずかしげもなく言えんな?」
女の子はハンティング帽のツバを擦りながらうつむく。
「どうせ死ぬなら素直にならないと」
「そんな事言うなよ!」
声を荒げる俺に女の子は目を丸くした。
女の子の怯えた顔を見て、俺は表情を変える。
「ごめん、驚かすつもりはなかったんだ」
「う、うん。大丈夫だよ」
俺は髪をかき上げた。俺の精神状態は乱れている。
「オウキマイ」
俺の顔は女の子に向く。情けない声付きで。
「桜木舞、私の名前。何かあるんでしょ、話してよ」
「何かあったわけじゃないけど、いいかな?」
舞はうなずく。俺は許可を求めてから、舞の隣に座る。
「俺も名前、生夢星斗な」
「イクムセイト、で、どうしたのかな? 星斗くん」
俺は人生相談の番組みたいだなと思ってしまう。
「どうしたわけじゃなく、単に考えすぎだよ」
「えーと、何を考えてたの?」
「俺達の成り立ち、使われた万能細胞だよ」
舞の頭の上に大量のはてながある。万能細胞の研究が開始されてから百年近いが、世間に浸透してはいない。
「iPS細胞ってやつじゃないの?」
「いや、たぶん違う」
俺は舞のおかげで落ち着いた頭から、屋上のときと同じように、万能細胞についての情報を取り出す。
「まずは、万能細胞は何か、かな」
「えーと、いろんな体の細胞になる細胞だよね」
俺はゆっくり首を倒し、肯定する。
「本来は、細胞はその部位の細胞にしかならないんだ」
「え、そうなの」
「そう、でも例外はある。万能細胞、良性の癌、受精卵だよ」
舞の頭上ではてなが増える。俺は笑って「順に説明するよ」とささやく。
「良性の癌は、とある部位で他の部位の細胞が出来たものなんだ」
舞はうなずきを繰り返す。理解している気にせず、俺は話を続ける。
「この事から生まれた発想が万能細胞」
「あれ? 関係あるの?」
「三つともね」
舞は「あああ」と悲鳴をあげる。俺はそんな彼女を見て軽い笑い声を出す。
「良性の癌を人工的に作り出したのがEC細胞」
「医療の話だよね?」
俺は肩をすくめて、細かい事は気にしないように促す。
「これは何の細胞になるかわからないから、色んな試みがされた」
「それがiPS細胞?」
「そうだね。iPS細胞は四つの遺伝子を細胞に組み込むと出来る」
舞は「ふーん」と言う。必要とされる細胞の候補が二百種あった。四種まで減らした事は驚くべき事なのだが、言わない事にする。
「最近はSTAP細胞の存在が証明されたね」
「あー、あれは感動した」
「でも、この二つの遺伝子操作は未だに不安定なものなんだ」
俺の言葉に舞の頭が傾く。
「残るは、受精卵を素に作られるES細胞」
「へ?」
「これが現状で最も安定して使えるもの、命を犠牲にして」
舞は何度も大きく瞬きを繰り返す。
「ごめん、これが、俺が怒鳴った理由。偽善者にもほどがあるだろ?」
舞は首を横に振る。俺は「ありがとう」とつぶやいて微笑む。
その後、幾度も話を変えて俺と舞は話をした。
帰り道で気づいたが、今日は『またね』と俺も言ってしまった。
俺は夕焼けの公園を歩く。ユメの中だとすぐにわかった。だから、彼を探している。
「よっ、どこ見てるんだよ?」
黒い影を纏う男、ユメの中で会うもう一人の生夢星斗は俺に軽口を叩く。
「どこ見てるじゃねーよ。わかるかよ、夕暮れに影に入られたら」
星斗は公園のトイレ、俺から見て西方向から悠然と歩いて来る。俺には、星斗が黒く塗りつぶされて見えるので、トイレの影にいると見えづらい。
「とりあえず、昨日ぶり」
「ホントに昨日ぶりだな」
俺と星斗は大笑いする。昨日は脱出方法を考え続けるうちに目を覚ましていた。
風景が見えるおかげで星斗の身長は予測出来る。同じくらいの身長なので笑わずにいれない。
星斗は手振りでベンチへ行くよう促す。
ベンチへ向かう途中、舞の事を思い出す。星斗からは話を始める様子はないので、舞の事を話す事にした。
「適当な事話していいか?」
「雑な始め方だな」
星斗は苦笑いしながら「いいけど」と付け足す。
「最近、変わった娘に会ってさ」
「変わった娘?」
「明るいし、真剣に夢と向き合ってるし、可愛いけど、変わっている娘」
舞の写真を撮るポーズをする姿を思い出し、俺は失笑した。
「あのさ、星斗」
俺のにやけ顔は収まっていない。俺は星斗の表情を読み取れるので、彼も俺の表情を読み取れるのだろう。
「リアジュボーン」
「はい?」
「リアジュボーン」
俺は舞の話をした。ところどころで星斗は「リアジュボーン」と言いはさむ。
仕事もなければ、暇潰しの遊びすらない生活。俺は手持ちぶさたに駆られ、舞と昨日、一昨日と会った道沿いの植木にいた。
今日は快晴とはいかず、雲の塊が見当たる。
ボケっと俺は空を見続ける。
「今日みたいな天気の方がいい写真が撮れるんだよね」
聞き慣れ始めた高い声が耳に響く。挨拶もなしに話を始めているが、細かい事は気にしない。
「そうなのか?」
俺は声がする方へ顔を向ける。俺はベンチに座っているので見上げる形になる。正面にはベンチの後ろにいた舞の顔がある。
俺は一般的な日本人男性の中では中の上。長身とは言えないが、舞が小柄なせいで顔と顔との距離がない。
俺は自身の顔を悪くないと評価するが、彼女が一度も出来た事がない。それどころか、この年でやっと異性とまともに話が出来るようになった始末だ。
俺は顔を茹で上げられて真っ赤になり動けない。
「どうしたの? 顔が赤いよ」
「この状況を考えてくれ。俺みたいなヘタレはこうなるよ」
舞は納得した顔で慌てて顔をどける。
頬赤らめながらも苦笑いする舞を見て俺はため息をつく。
「んで、何で今日みたいに雲が少しあるほうがいいんだ?」
「簡単に言えば、単調じゃなくなるからかな」
舞は改まって、膝をそろえて俺の隣に座る。俺は頬杖で赤い顔を隠す。
「雲一つない快晴もきれいだけど、雲は色んな形になるからね」
「多様性って事か?」
「難しく言いたがるね」
舞は意地悪く笑う。俺は頭を掻いて「まあね」と応える。
「ここには花がないからさ、空しか撮るものないんだよね」
俺は笑いが吹き出る。舞はあのポーズが写真を撮る行為そのものと称している。
「何で笑うの?」
「いや、原理的に、俺も使うから、わかるけど、そういう風に利用するとは」
俺は腹を抱える。笑いが止まらない。
俺も利用する、脳内の情報を自由に取り出せる事、を映像の保存に使っている。
舞の行為は自分の脳を記憶媒体として写真を撮る、と言っても間違いない。ただし一つだけ違いはあるが。
「いやー、今まで撮った写真を見てみたいよ」
「星斗くん、わかっていて、言ってる?」
俺はより一層笑いを大きくする。舞の撮るは印刷不可だ。脳内の映像を印刷する技術もなくないが、俺達が使えるわけがない。
「ひどいなー、最初に会ったときはいい人だなって思ったのに」
数十秒の後、俺の息は落ち着く。
「ひさしぶりに笑った」
「それはよかったですね」
舞は頬をふくらます。俺は「ごめん、ごめん」と謝る。
舞は「むむむ」とうめき、俺を睨む。
「不思議だね。まだ、星斗君に出会ってから三日も経ってないんだね」
俺は少し考えてから「ああ」と応える。人との繋がりから避けていたのに、舞と出会ってから気が楽になった。
俺のこころは暖かさに満たされている。
ふと思いだす、ユメで会う星斗が言い続けた事。
「リアジュボーンって知ってるか?」
「なにそれ?」
「ちょっと知り合いが言ってたのを思い出して」
どこかの言葉ではなさそうだ。おそらくは造語。
「フランス語だっけな。『リア充』って言葉知ってる」
「ああ、何か四十年くらい前に流行ってた?」
「うん、リア充爆破しろ、のフランス語版」
俺はしばらく何も言わない。ユメの星斗は、おっさんなのか?
俺はため息を吐いてから、別の話題を舞に提示する。
俺と舞との繋がりは強いものになった。少なくとも俺はそう思っている。
見上げると、木陰を作る葉が生繁る枝と空。ベンチに座っていると広い範囲で見える。空は澄んだ青、枝の葉は燃え始めた黄色。対比的な色合いだ。
「何やってんの?」
高い声が耳に響く。
「だから、近いっての」
「これが嬉しいんじゃないのー」
「やかましい」
俺は声の主、舞の額を人差し指で押し出す。舞は「イテッ」と声だけのアピールをする。慣れた動きで舞は俺の隣に座る。俺は慣れた動きで赤くなった顔を舞から隠す。
「いい加減慣れればいいのにー」
「やかましい」
毎日、舞と会うようになっていた。
特別な事はなく、話して笑ったり、舞が撮っているのを俺が見守っていたりするだけ。俺は熱がなくなった顔を舞の方へ向ける。
眼前には舞の顔。再び俺の顔は発火する。
「舞! 何やってんだよ」
俺は舞から離れようとする。しかし、舞の体が俺に乗っているため出来ない。
「しばらく星斗くんのテレ顔をさ」
俺は目の向けどころを探す。
「見てないから」
泳ぎ続ける俺の目は、間が悪く、動く舞の唇を捕らえた。化粧をしていないはずなのに舞の唇は赤く潤む。
正直この状況はかなり嬉しい。叶わなくても願わずにいれない。
俺はゆっくりと左手を舞の顔に伸ばす。
「イタっ!」
舞は頭を押さえて俺に背を向ける。俺のデコピンが決まった。
「今回は本当に痛いよ」
「ごめん、こうでもしないと離れてくれそうになかったから」
俺は赤いままの顔を右手で隠す。指のすき間から舞を確認する。
舞は痛みが治まったらしく、うめきながらも顔を上げる。俺の顔はまだ、燃えている。しばらくは動けない。
あと数秒、体勢が変わらなければ、俺は舞を襲っていた。
舞は口をとがらせ、落ちたハンティング帽を被り直す。
「悪かったって」
「いや、私もやり過ぎたけど。そんなに嫌?」
舞は俺を見上げる。舞の目は俺を射抜く。俺は小声で「いやじゃないけど」と言うが、続きは口に出来ない。俺は誤魔化す手を考える。
「そう言えばさ、何でいつも写真を撮る動きをしてるんだ?」
舞は返答せずに俺をにらむ。舞の目線から逃れるため、俺は空を見上げる。舞は俺の返答を諦めて、ため息を吐いた。
「夢だからかな、写真家が」
舞の目線は変わらず俺を射抜く、ただし質は違う。寂しさが溢れる舞の目は俺に暖かさも感じさせる。初めて会った時も舞は言い分に『夢』を使っていた。
「空も、花も、木もさ、いろんな表情を見せてくれるんだよ」
「そりゃ、変わるな」
「それをさ、いろんな人に見てもらいたいんだよね」
俺は「なるほど」と何度もつぶやく。舞は話をしたくてたまらないようだ。
俺の胸に相反する二つの感情が流れる。夢を持ってそれを追いかける舞に対する慈しみと、そんな舞の有りようを踏みにじる政府への怒り。混じり合う事はない。
俺の表情は舞にとって違和感があるらしく、舞は首を傾ける。
「どうしたの? 星斗くん」
俺は言葉が濁らせながら、どう言うか迷う。
「そのさ、残酷だなって、思って」
自分の偽善に俺は嘲笑してしまう。
「夢がないんだ、俺には」
俺は右手の平を見る。
「舞といて、恥ずかしくなったんだよ。現実主義を装って生きて来た事に」
俺はうつむき、顔の表情を読み取りづらくする。
「なのに、俺みたいなクズも、舞も一緒くたにして、物として扱って」
俺は右手の拳を自らのふくらはぎに打ち込む。
髪が俺の目を、鼻を隠す。声も抑えているつもりだが、俺の怒りが伝わるかもしれない。
「私が最後に撮った写真は何だと思う?」
俺はゆっくりと舞を見る。舞は笑ってうなずく。
「ああ、ちゃんとカメラの、だよ」
「わかってる」
俺は少しだけ考える素振りを見せてから、人差し指を伸ばす。
「桜の花か? 健康診断ときは四月初め。花が好きと言ってたしな」
「正解、健康診断の直前で撮ったの」
問題にするから難しいと思ったので俺は間の抜けた顔をしてしまっした。
「でも、想像してるのとは違うと思うよ」
「咲いてる桜を撮ったんじゃないのか?」
「違う、散った桜」
舞の笑みは少し性質を変えた。舞にはその写真が鮮明に見えている。
「芝生の上にいくつもの桜の花びらと一輪の桜の花がある写真」
「それはきれいだろうな」
「うん、きれいだよ、寂しいけどね」
俺の目の前にいる舞は誰が、どんな表情でその写真を見ているかはわからない。気に入った写真の行く末がわからないのは寂しい事なのだろう。
「わたしね、その写真を撮って、自分で気づかされたの」
舞の右手が俺の頬へ伸びる。
「散ったとしても美しいものもあるって」
俺の頬に触れる舞の手に俺の右手をそえた。人の暖かさを感じる。
「私は散っても素敵でいるよ、きっと」
俺は舞の桜の写真を想像して、笑みを浮かべる。
「ああ、そうだな」
俺は舞の右手を頬から離して、両手で強く握りしめた。
いつものように日が落ちかける頃に帰宅。夜間の外出は俺達に許されていない。暗くなってから居住スペースを出ようとすれば、起爆する。
「生夢、少し話せるか」
俺は右隣の居住スペースの入り口を見る。そこに住む板垣が半開きドのアに寄りかかっている。俺と板垣は互いに施設からの指令を伝えあっている。
「なんだ? 急がないとお互い、ボン、だぞ」
俺は握りこぶしを開く動作で爆発を表現する。板垣は苦笑で済ますが、笑い事ではない。もっとも、俺が原因なのだが。
「一つは伝言、もう一つは忠告だ。すぐに終わる」
板垣は人差し指と親指を立てる。キザだが、金髪で顔がいい板垣がすると様になる。俺は密かに恨めしい気持ちを持って、話の続きを促す。
「まずは伝言、一週間後にあれ、やる事になったぞ」
俺達は兵器だ。人を殺す事をためらう感情は邪魔だ。そのため、俺達は、銃による、死刑執行をさせられる。一度はしなければならない。あれで俺達は通じる。
「もう一つの忠告だ」
板垣は中指を立てる。物騒な意味も含まれているが、俺は気にしない。
「女と会うのをやめろ」
「女って……」
「お前が毎日会ってる女だよ」
居住スペースは防音ではない。外出している事に気づくものだ。問題は俺が舞と会っているのを知っている事だ。
「幸せそうな顔しやがって、気になるだろ」
「指図される事じゃない」
「言ったろ、忠告だって」
愁いの帯びた顔で板垣は三本指を振る。その表情が気になったが、俺は忠告を無視する事にした。
その夜、ユメを見なかった。
二日間の空白があった、舞に再び会うまでに。
俺は隣で座っている舞を見つめ続ける。
「星斗くん、恥ずかしいんだけど」
俺は慌てて「ごめん」と言い、顔をそむける。舞は顔を赤くしている。頬だけでなく目じりも。
「なんだか、いつもと逆だね」
俺は舞の言葉があまり聞こえていなかった。舞の目、頬、肩などを見て、俺は憶測を持つ。
「舞、何かあったか?」
舞の肩が跳ねる。ないと言う方が難しい。
「話すだけでも楽になるだろうからさ」
舞は視線を上下させて、俺を見たり、見なかったりする。覚悟を決めて、舞は俺の目を真っ直ぐ見る。
「あのね、その」
舞の目線は俺に向くが、口はうまく動かない。ハッキリと舞が言葉に出来るまでの十五分間、俺は待ち続ける。
「英語で『写真を撮る』は何かわかる?」
全部を言うのは辛いらしい。俺は舞に従い答える。
「take a photo、または、shoot a picture」
「うん、すぐにわかるんだね」
俺はゆっくりとうなずく。
「それでね、shootはさ、銃を撃つ意味があるからさ、その」
今日の舞には舌の早さがない。
「あれを受けてさ、からかわれて」
舞の目から一滴、落ちる。それを俺は見逃す事が出来なかった。
舞の滴が、ポツリっと音を鳴らし、四散する。
俺の衝動を抑えていた理性が砕け散る。
「舞、それを言ったのはお前と同じ居住スペースの奴か」
「うん、そうだけど」
俺はゆっくりと立ち上がる。
「星斗くん?」
舞の居住スペースがどこにあるかは以前、聞いた。
「ちょっと行ってくる」
言葉だけが優しい。言い方も、気配も、力の入れ方も、俺は憤って見える。舞の夢を、舞を傷つけた奴らへの怒りが俺を支配する。
「もしかして、星斗くん?」
舞を傷つけた奴らに危害を加えれば、俺は処分対象になる。ならば、研究者を一人でも多く減らす。俺の思考は破壊のために動き始める。
俺の腰が舞の腕に包まれた。
「やめて、生きてよ」
俺の背中が舞の涙で濡れる。強く絞められているわけでもないのに、舞の腕から俺は逃れる事が出来ない。俺は右手で舞の手に触れる。
「私ね、こんなだからさ。いつも一人だったの」
舞は震え続ける体を俺に密着させる。
「星斗くんともっと話をしたい」
「離してくれないか? この手を」
俺の手も震える。この振動は舞にも伝わっているはずだ。
「やだよ。星斗くん、きっと私のために危ない事をする――」
「行かせてくれよ!」
俺の声はそれほど大きくならなかったが、荒々しい。
「舞のためとかじゃない、俺は許せないんだよ」
「そうやって怒ってくれるのも嬉しいよ」
俺の体は硬直している。
「星斗くんが私の事を大切に思うように。私も星斗くんの事思っているよ」
舞の体温が俺の怒りを弱まらせる。
「やだよ、大切な人を失うなんて」
「俺にとって、舞の写真のように、人間として生きている実感は舞なんだ」
俺の目からも滴が落ち始める。
「舞も、舞の夢も。俺にとっての生きる実感は舞が笑っている事なんだ」
「だったら、側にいて、ずっと」
俺の衝動は消えかかる。
「星斗くんがいれば、私はいつでも笑える」
俺はゆっくりと振り返る。舞は俺の動きに気づいて手をほどく。舞の顔、潤んだ瞳、赤い頬を見て、衝動は完全に消える。
「ごめん」
「星斗くんが私を大切に思ってくれているからでしょ、嬉しいよ」
「ごめん」
俺は他に言葉が思いつかず、繰り返す。
「だから、謝らなくていいって」
「ごめん」
一拍の間が空くと俺はまた「ごめん」と言う。舞は笑い始める。
「星斗くん、謝ってばっか」
笑い続ける舞を見て、俺は微笑む。
「そうだな。でも、ごめん」
俺は舞を強く抱きしめる。
「俺の思いは、舞のとは、たぶん、違う」
俺は舞への思いを伝えずにはいられなくなっていた。
互いに震えも、涙も止まっている。
「ううん、同じだよ」
舞の手が背中から俺の肩に触れる。
「本当に今日は逆転してるね」
「そうだな、いつもこうとはいかないけど」
ここの周りに誰かが通る事はない。
だから、大胆な事が出来る。
だから、俺は舞にキスをした。
ぎこちない俺に舞は「へたくそ」と茶化す。
翌、いつもは二人だけしかいない植木にもう一人いた。
「待ってくれ、俺達はまだのはずだぞ」
「仕方ないだろ。決定事項だ」
その一人は監視員だ。
「改めて伝える、二日後に中央の塔へ来い。お前らを戦地に投入する」
俺達には拒否権はない。監視員が歩き去るのを俺たちは見守る。
「そんな、やっと思いが伝わったのに」
「恥ずかしいからやめて」
残り三日間、それが俺と舞の寿命となった。
五日ぶりだ、ユメにいるのは。場所は舞といつも一緒にいる植木。
「よう、しょぼくれてんな、どうした?」
星斗の問いに俺はためらう事なく、わけを話した。
今までに言っていなかった俺達についても話す。
俺と舞が戦地投入される事まで話すと、俺は一度、間を作る。
「そんで、さっき聞いた話。隣が同じように彼女が出来たら戦地投入された」
顔は見えないが、星斗の顔は険しくなっているだろう。隣とは、板垣の事。
「星斗、もう会えないな」
俺は立ち上がって星斗に笑って見せる。星斗もベンチから立ち上がる。
「楽しかったよ。ありがとうな」
俺タチは握手をする。
「俺はお前の正体が、俺とお前の関係が、わかった」
星斗は俺の手を強く握る。
「知りたかったら、また会おう」
俺の視界が透明になっていく。星斗もすぐに見えなくなった。
ヘルメットに付属するマイクのおかげで、ヘリコプターの騒音の中でも俺と舞は話が出来る。話す内容は他愛もない事。
ヘルメットは強固だ。ただし、俺達の安全のためではなくヘルメットが電気信号を送るからだ。現在進行形で送られているのは緊張をなくす信号。戦場へ降りるときには筋力の制限を消す信号を送られる。
装備は拳銃、小型のマシンガン、小太刀、銃弾を防げる程度のジョッキだけで、後はただの軍服。機動力を優先しての事だ。
「ねえ、星斗くん」
舞の声音が変わった。俺は優しい笑顔で応じる。
「生きてね、そのためなら私はどんなものからも星斗くんを守るよ」
「俺も誓うよ。舞をこの命尽きてでも守るよ」
生物の本能か、人間の矛盾か、互いが生きて帰れないとわかっているのに、そう言わずにいれなかった。
ヘルメットに搭載されるイアホンから、英語で発進の準備をするように言われる。
「行こうか」
俺たちには未来もなく、誰かが愛する他人の未来も奪わなければならない。
降下口で俺たちは並ぶ。互いの顔を確認すると目じりが赤くなっていた。
俺たちは笑いあった後、そっと唇を触れる。
操縦士の合図で俺たちは戦地へ飛び出す。同時に体に変化が起こる。
俺は最後の時が来た事を感じた。
俺達の性能は十分過ぎた。対歩兵ならば一掃し、対戦車ならば素早く懐に潜り込み、一台ずつ潰す。
俺たちは人を殺すのにためらいが無いわけがない。それでも他人の未来を奪うのは再び、話し合い、笑いあう日々を取り戻す、実現しない未来を叶えるため。造られた俺たちが持つ『矛盾』と言う人間らしさだけが俺たちを動かす。
それに気づいたのは偶然だった。
風景に溶け込み、気温と同じ温度を持つ大槍。それが舞へ向け、放たれる。
地面を強く蹴り、その反動で俺の体は宙に浮く。一直線に跳んで行く俺の体に無数の弾が駆け巡るが、全て無視する。
俺は彼女の名前を叫び、舞と見えない大槍の間に体を入れる。
騒音の中だから俺の叫びは誰にも聞こえない。イアホンも頼りにはならない。
舞が俺を見たときには、俺の腹に大きい穴が出来ていた。
「ごめん、約束守れそうにない」
俺の耳は澄んでいた。今の俺なら舞の言葉を聞き取れそうだ。
「じゃあ、私も約束を守らない」
大槍は舞なら避けられる速度に減速する。
俺を巻き込みながらも進み続ける大槍は舞の胸下を貫いた。
「これで、おあいこ」
聞き慣れた、何度も俺のこころに響いた舞の声。もう聞く事は出来ない声。
「ごめん、守ると言ったのに」
向かい合わせになった俺たちは、互いを抱きしめる。
「ありがとう、星斗くん」
俺が最後に撮ったのは笑顔で泣く舞だった。
写真家である私は大学時代の写真データの整理をしていた。
「何やってんだ?」
「大学時代のをね、ちょっと、星斗くん」
マンションの一室で同居中の彼氏、星斗くんが私の座るソファにあごを乗せる。彼は小説家で、デビュー作は社会問題を起こした。
テレビで今流れている、紛争地域で子供に算数を教える自衛隊派遣部隊クロンズに関係しているとか。
「本当に舞は花とか、空とか好きだな」
星斗くんは整理されていく写真を見ていく。
「舞が一番好きな写真はなんだ?」
「これだよ」
突然の質問に迷わず答える。それは私を写真家にしたものだ。
星斗くんとは仕事で出会い、二年のお付き合い。私は機会がなく、彼に大学時代の写真を見せた事がなかった。
私が示したのは散った桜の花の写真。
「これってもしかして、二十の健康診断の前に撮った?」
「え? 何でわかったの?」
星斗くんは私の質問を聞き流し、優しく微笑む。
「もう、何で答えてくれないの?」
「いや、これはさ。俺じゃない俺のだから」
私は頬を膨らませて星斗くんに抗議する。そんな私を見て、星斗くんは笑う。
「舞、俺、また、会えて嬉しいよ」
星斗くんは顔を赤くしながらも恥ずかしいセリフをはく。
「私も星斗くんの事好きだよ」
「結婚しよう」
私は返事に星斗くんの顔を捕まえる。
軍隊は人を助けるための自衛隊に戻った。戦争をもう二度としないと誓ったこの世界で私は星斗くんと生きる。
END