12
クルトはティルファの頬に添えていた手を、おそるおそるその口もとへと滑らせる。
とたんにクルトの全身から力が抜けた。
「ティル……」
微弱ではあったが、たしかに手のひらにあたる、あたたかな空気の動きがあった。
クルトは思わずティルファを抱きしめていた。
そのとき、ふと床で光っているものが目に入った。
それはクルトがティルファのために作ったブレスレッドの残骸だった。
「ほう。もしかしておまえはその娘の恋人か何かか?」
「だったら何だ」
銀髪の男は鋭い目つきのまま、口もとだけでおかしそうにクスクスと笑う。
「何がおかしい?」
「まったくもって、人間の考えることは我には分からぬ。おまえ、念術士であろう? その娘が身につけていた破魔具の作り主。違うか?」
「だから、それがどうした」
「どうもしないさ。ただ、手の上で踊らされているおまえたちが滑稽だと思ったまで」
魔族の男は腕を組み、顎を上げた。
優美さすら感じさせるその白い頤に、不覚にもクルトは視線を吸い寄せられた。
男は、間違いなく高位魔族。それも、タニキア屈指の念術士と言われるクルトが手掛けた破魔具を粉砕するほどの力の持ち主。
その姿形は、人間と何ら変わりはなかった。ただ、切れ長の目が放つ眼光は刃のように鋭く、弧を描く薄いくちびるは異様に艶めかしかった。
「選べ。ここでその娘と死ぬか、ひとり退いて生き延びるか」
「どちらも却下だ。ティルファが死ぬなんて選択肢はない」
「それこそ却下だ。我も退けぬ」
ハッと気づいたときには、魔族の男がクルトの目の前に迫っていた。クルトは立ち上がりざまに、素早く剣を抜く。……が、床を濡らしている血がクルトの足をとった。
バランスを崩しながらも、それでもなんとか、クルトは振り下ろされる男の腕を剣で受けとめた。不自然な体勢のため、肘が痺れ、一瞬力が抜けそうになる。
だが、引くわけにはいかないと、クルトは歯を食いしばって耐えた。
室内を満たしている胸の悪くなるような血のにおいが、クルトの中の何かを強く刺激し、膨張させる。
肺からせり上がってこようとする何かが、クルトの呼吸を圧迫した。
浅い呼吸を繰り返すなかで、クルトは、目に映るものすべてが、赤と黒で染め抜かれる錯覚をおぼえた。
「なぜティルファを狙う!」
渾身の力で魔族の腕を横に撥ねのけ、クルトが叫ぶ。
魔族の男はすぐさま体勢を立て直し、クルトの心臓めがけて鋭い爪を伸ばした。
「我が妻を取り戻すためだ。その娘を殺すことが条件ゆえな!」
男の攻撃を躱し、そのナイフのような爪を斬り捨てたクルトは、眼前の美々しい男を睨みつけた。
「馬鹿な。どうしてティルファの命が、そんな取引きの道具になるんだ」
「それはおまえの仲間に直接尋ねればよかろう」
「なんだと……?」
一瞬、剣を握るクルトの手がゆるんだ。男がその隙を見逃すはずがなかった。
矢のような勢いで迫ってくる男に、クルトはほとんど反射的に剣を打ち込んでいた。力を込め、男の核を探したのは、身に染みついた習慣ゆえ。
そうして見えたものに、クルトは息を飲んだ。
まったく同じではない。だが、それに似た輝きを持つものを、クルトはつい最近見ていた。
ハイリエ村の井戸に棲みついた魔族の身の内で。