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地球にて(7)

 その日の夕方になって、研修生達は帰宅した。研修生達は皆興奮した口調でどれだけ石楠花晃一郎が素晴らしい人物か、石楠花機械製作所が素晴らしい会社なのかを報告してきた。樹喜はそれに頷きながら、時折時計をちらりと見た。

(昨日は、明後日に出航だと言っていた)

 つまりは明日旅立つと言うことで。屋敷の中は、いつも通りの日常がちりばめられていて。昨夜聞いた声は嘘だったように思える。明日というのは一体何時だろう。後数時間で、日は変わる。

 午後六時に本日の研修修了を告げ、樹喜は食堂へ向かう。ふんわりとした優しい牛乳の匂い。

(今日は洋食か…舞花様、喜ぶだろうな)

 不意にその匂いだけで何処か泣きたいような気持ちになる。時折、姉妹達は食堂で食事を取る。通常の屋敷ではあり得ない光景だった。けれどここの姉妹達は、使用人にも優しく分け隔て無く接する。

(でも、明日には)

 彼女たちはここから居なくなる。もう、会えなくなる。

 その日の夕食には、姉妹達は来なかった。濃厚な液体を口に入れながら、樹喜はただ舞花を思う。皿を空にして厨房の知り合いと少し会話を交わすと、自室へと戻った。

 ちらりと時計を見ると、時刻は午後八時を回ったところだった。

(あと四時間で、明日になる)

 不意にそう思うと、胸がざわついた。あの日、樹喜は何かに――もしかしたら神のようなものに誓った。石楠花家に、そして舞花に忠誠を。しかしその忠誠とは何をするべきだったのだろう。少なくとも、彼女の自分への思いを気づかぬふりをして作業をすることではないのではないか。

(――舞花様の、幸せ)

 樹喜は目を瞑る。彼女たちは何処へ行くのか。何故行くのか。そして自分に出来ることは。

 息を吐くと、部屋の扉に手を掛ける。たかが使用人の自分に何が出来るのかは分からない。けれど。あの時誓った。

 廊下に出る。まだ仕事を終えていない数人の使用人と挨拶を交わして、庭へと向かう。昼間の庭では、数人の使用人が思い思いに休息を取っている事が多いが、日が沈むとそう言った人影は殆ど居なくなる。樹喜は、ただ道を歩いた。そうして、姉妹の家が見える所まで来て、立ち止まる。

 姉妹の家は、男性立ち入り禁止だ。高い生け垣に囲まれた家を、樹喜は手近な腰掛けに座って見つめた。舞花の家には明かりが付いていて、まだ部屋にいるのだと分かり、それだけで酷く安堵する。

 不意に、誰かの砂利を踏む音が聞こえて、樹喜は反射的に茂みに身を潜めた。

「――本当?本当に今日の夜お出かけなの?」

 それは、絢乃の声で。

「静かにって言ったでしょう。内緒のお出かけなのよ」

 その声は、園美だ。そっかあと絢乃の笑い声がして、ひそめた声で彼女は問う。

「でも何で内緒なの?」

「それも内緒」

 くすくすと園美が笑う声が聞こえる。

「大切なものは持ってきた?」

「うん。あのねえ、小町ちゃんを持って行くのよ」

「小町ちゃん?」

「舞ちゃんがこの間作ってくれたの。着替えもいっぱいあるのよ。鞄も、靴も。こないだはねえ、着物も沢山縫ってくれたの」

「あぁ…あの着せ替え人形ね。良いわね」

 うん、と絢乃の声が無邪気に笑う。

「それで、そのちゃん。何処行くの?」

「まずは、裏の離れに行きましょ。もう舞花も来ているはずだから」

 はあい、と絢乃が答えて、二人は砂利の音と共に遠ざかる。樹喜は静かに息を吐いた。舞花の部屋の明かりに安堵していたが、既に彼女はそこには居ないらしい。

(――離れ…)

 そこは以前、晃一郎の妻である咲妃が暮らしていた家で。姉妹の家のその奥に立つ建物だ。そこに、舞花が居る。そして絢乃が、今日の夜に出かけるということを言っていた。つまり。

(出発は今夜)

 ちらりとAGDを見ると時刻は九時になろうとしている。

(あと、三時間)

 樹喜はゆっくりと立ち上がる。迷いは、まだ身体の中でもやもやと燻っている。

 何のために、自分は今立ち上がるのか。今自分は、何処へ行こうとしているのか。何をしようとしているのか。

 何も分からぬまま、ただ歩く。ちらりと手の甲を所々の水銀灯の下で見つめる。細かい傷跡が、無数に残る。だいぶ目立たなくなっているけれど、それでも傷は消えない。幼い頃に、受けた傷。それは心にもまだ、跡を残していて。

 そんな自分に、何が出来るだろう。けれど。

――あの子を、幸せにしてあげてよ。

 その言葉が、どうしても消えない。まるで、傷跡のように。

 木々の合間から覗く、離れ。樹喜は何かにとりつかれるように、そこへと向かう。そして、足を止めた。

 木々や生け垣で隠されるように置いてあったそれは。

(――宇宙船)

 息をのんだ。石楠花家がいくら宇宙事業で稼いでいようが、流石に自宅にこのようなものを置いていたのは初めてだ。小ぶりの一軒家ぐらいの大きさはあるであろうか。真四角の、まるで箱のような形。晃一郎は最小の船を用意すると言っていたが、どう見ても大きい。しかし一年分の食料などを積み込むというとこの程度が最小なのだろうか。

 不意に、少女の笑い声がして、樹喜はその宇宙船の陰で身体を縮こまらせる。

「きゃあ!めぐちゃん!久しぶりっ!」

「――久しぶり。元気?」

 うん、と無邪気に笑う絢乃の声がする。

「凄いねえ!これに乗るの?これに乗ってお出かけするの?」

「そうねえ。楽しみね」

 園美の声がする。ちらりと覗くと、そこには四姉妹と晃一郎が立っている。

「じゃあ…そろそろ中に乗りなさい」

 そう言ったのは晃一郎で。

「えーっ、お父様は行かないの?」

「私は明日も仕事があるからね。――楽しんできなさい」

 はあい、と絢乃の声がする。

「舞花から乗って良いわよ。――そう、足下気をつけて」

 その名を聞いた瞬間。樹喜の身体がぴくんと跳ねる。どうもしようがないのに、どうしようかと頭の中がめまぐるしく動く。どうもしようがない。分かっている。分かっているけれど。

 不意に、AGDが小さく振動した。音も立てずに、静かに。何だ、とそう思って見ると、ノコギリエイの尾の部分から、細い線のようなものがすうっと出てくた。

「…?」

 なんだこれは、とそれを見る。それは、まるで意志を持つようにくねくねと動く。まち針のような、針金のような。そうして、それは樹喜の背にある宇宙船に触れる。そうして、つぷり、と刺さるように宇宙船の表面に吸い込まれていく。

 それと同時に、無音のまま、宇宙船に穴が開いた。人一人が入れるほどの小さな、穴。その穴の向こうには水が入ったタンクが見える。

 ごくり、と樹喜は唾を飲み込んだ。あの、針がなんなのかは分からない。あんなものをAGDに付けた記憶は無い。何も分からない。

 樹喜は、その穴に手と足をかける。えい、と足に力を込めて、中に乗り込んだ。刹那、また無音のまま、壁は元に戻った。

 水の入れ物に身をもたせかけると、ようやく激しい動悸がした。息を何度か吸ったり吐いたりをして、それでも落ち着かない。

 自分は今、何をしているのか。何をしてしまったのか。確実に、良いことをしているとは思えない。けれど、悪事を見逃さないというAGDは微動だにしなくて。

 どうしよう、という思いで辺りを見回すとそこはどうやら食料庫のようだった。所々に小さな明かりがある。あまり寒さは感じない。見れば、どれも常温保存可能なものばかりだった。

 不意に、声がして樹喜はそちらの方へと向かう。壁の向こう側が、どうやら部屋になっているようだった。

「――わあ、中広いねえ。綺麗!」

「寝室がこちらね。どうやって寝ようかしら」

 主に聞こえるのは園美と絢乃の声で。舞花の声が聞こえないかと樹喜は壁に耳を当てる。

「嬉しいなあ。お出かけ!ねえ、どこ行くの?」

 はしゃぐ声は絢乃のもので。普段身体が弱く外出もままならない彼女の弾んだ声は、久しぶりに聞く。

「…あの…いつ…家に帰れるの…?」

 舞花の声が聞こえて、樹喜はある種の安堵の息を吐く。

「なあに、まだ出発もしていないのに家に帰る心配なんて」

 園美の笑い声がする。夕べに泣いていた彼女の声とは百八十度違う。

「出発は夜中の十二時よ。それまで軽く食事でもしましょう」

 絢乃の歓声が重なる。食事、と聞いて樹喜はぎくりとする。もしかしたらここが開けられるかもしれない。どうしたらいいのか分からぬまま、とりあえず水の入れ物の陰に身を潜める。これだけ大量の水は一気には消費しないであろう。そうして隠れてから、何故隠れる必要がるのかと自問する。そもそも、自分は何故この船に乗り込んだのだろう。して良いことと悪いことと、どちらかと言えばそれは間違いなく後者で。一介の使用人が主人の許可無く動くことは許されない。乗ったところで何かの役に立てるとは思えない。けれど。

 ブーン、という機械音と共に明かりが漏れる。どうやら食料庫が開いたらしい。樹喜が居たところは、丁度奥だったようだ。棚の隙間から、姉妹達が見えた。

「あ、甘焼きがあるっ。食べて良い?」

「良いわよ。舞ちゃんは、杏のやつが好きよね」

「じゃあ私これにする」

「何言ってるの。めぐちゃんまだ十七でしょ。お酒は十八になってからよ」

 かしましく少女達は幾つかの食料や飲み物を選び、そうしてまた扉が閉まった。樹喜は息を吐く。どちらにしても、いつまでも隠れているわけにも行かない。早々に出て行き、謝罪をして屋敷に戻るべきだ。分かっているのに、どうしても身体が動かない。

 そうしてどうしたらよいのか分からぬまま、また樹喜は壁に耳を当てる。

「じゃあ、かんぱーい!」

「こんな夜に食べたら太っちゃうわねえ」

「あ、そーだ!めぐちゃんこないだ硝子のありがとう!とっても可愛かったあ!」

「どういたしまして。――あぁ、舞花も付けてくれてるのね。ありがと」

「あ…うん。あの、私も…ありがとう」

「ねえねえ、まだ出発しないのお?」

「さっき十二時だって言ったでしょう。寝てても良いのよ」

「やだ!眠くないもーん」

 少女達の言葉は止まらずに続く。樹喜は息を吐いて、そうしてAGDで時刻を確認した。九時三十分。

(今ならまだ間に合う)

 まだ出て行ける。まだ、この船を下りることが出来る。けれどそれと同時に、早く十二時になって飛び立ちたいという思いがせり上がってくるのを感じる。ここにいることが分かれば、自分はどうなるであろう。叱責。解雇。若しくは。

 不意に幼い頃の日々が脳内に染みを作り出す。慌てて首を振ってそれを払おうとするが、既にもう遅く。硬い靴が、肋骨に当たる感覚。冷たい大理石の床。毒々しい色の寝具。暗い部屋。

(――駄目だ。考えちゃ駄目だ…)

 脳内の染みは徐々に繋がり、広がっていく。薔薇の刺。熱湯が髪を濡らす感覚。項に当てられた爪。こめかみに食い込んだ拳――。どろり、とまるで血液のような粘度の汗が首筋を伝う。唇がうまく閉じられない。心臓の音はただ大きく。耳元で太鼓が打ち鳴らされているような音がする。――あぁ、と樹喜は思う。この音はもしかしたら、殴打の音かもしれない。胃がぶるぶると震える。そのまま、樹喜は意識を失った。

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