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地球にて(5)

 晃一郎の家に恵琉を送り届けると、樹喜はそのまま自室へと戻った。旧式の水道を捻り、水を湯飲みに注ぐと一気に飲み干す。

 目を閉じると、ただそこには舞花のはにかんだ笑顔だけが映る。

(舞花様――)

 不意に、AGD が震えた。また電話かと思ったのだが、どうやらそれは違う。ザザ、という不快な音がする。

「…?」

『――嫌よ!私は行かない…!』

 音の隙間に、声が聞こえて樹喜は息を詰める。それは、園美の声で。

『嫌よ…嫌…そんなの…絶対に嫌…私はここにいたい…』

『園美』

 晃一郎の声が、園美の泣き声に被さる。

『――だって…そうよ、めぐちゃんだって嫌よね?だってせっかく、憧れの桂子先生の弟子になれたんでしょう?そんな…ねえ?』

『私は行くわ。死にたくないもの。――辞表もちゃんと出してきたわ』

『めぐちゃん!』

 樹喜は眉をひそめる。これは一体何なのだろう。声からすると晃一郎、園美、恵琉の三人の会話のようだ。行くというのは何処に行くのだろう。死、というのは何なのだ。

『園美。良く聞きなさい』

 晃一郎の声が静かに響く。ザザという、まるで波のような音の狭間に。

『嫌!聞きたくないわ!私はずっとお父様と――』

 こんなに取り乱した園美の声は、初めて聞く。これは現実なのか。何かの劇なのだろうか。

『舞花と、絢乃の命もかかっている』

『…あぁ…』

 園美の悲痛な声が、響く。

『私には…咲妃の墓を守る使命がある。行きなさい。お前達四人で』

 その後は、園美の泣き声が漏れ聞こえる。咲妃というのは亡くなった姉妹の母であり、晃一郎の妻の名で。

(…なんだこれは…)

 命がかかっているというのは、どういうことなのか。行くというのは何処に行くのか。

『――それで、具体的な事をもう少し聞きたいのだけれど』

 恵琉の声が聞こえる。

『うむ。出航は明後日になると思う。舞花と絢乃は…何も言わずに、連れて行ってもらいたい。恐らくあの子達は、嫌がると思うからな』

『四人で行くのね?供は付けずに?』

『付けてやりたいが…極秘で行く故、船も最小のものにせざるを得ない。何とかなるか』

『船の設備は?』

『最新のものを用意させる。念のため食料や水分などは一年分ぐらいは積む。まああちらへ行けば衣食住は完全に保証される。心配は要らないだろうがな』

『道中さえ乗り切れば…後はどうにかなるってことね』

 園美の泣き声はまだ止まらずに。ザザザという音と入り交じって何かの歌のように聞こえる。

(――出航。明後日。あちら。)

 通常、空中船を動かす場合には「出立」と言う言葉を使う。「出航」というのは、もっと遠くに――例えば帝星に行く場合に使う言葉で。つまりは、日本国よりも先、この地球を出る場合に使う言葉となる。

 明後日に、この地球を出る。それも一時的ではなく、ある程度長期――若しくは半永久的に。そこに行かねば四姉妹の命が無い。それが聞いた限りの言葉を組み合わせて作った仮説だった。

『頼むぞ。園美、恵琉』

 晃一郎の言葉と共に、突然音はぶちりと切れる。後はただ、静かな部屋だけが樹喜を包む。AGD を操作したが、履歴には何も残っていない。

 樹喜はそのまま寝台へ倒れ込んだ。何一つ理解は出来ていない。何故会話が突然聞こえたのか。あちらとは一体何処なのか。何故行かないと死ぬのか。何もかも分からないけれど、一つだけ分かったことがある。

 舞花と、暫く――若しくは永遠に、会えなくなるということ。

 考えるだけで、肋骨一本一本に酷い圧がかかったような気持ちになる。

 樹喜は息を吐く。目を閉じても睡魔は襲ってこず、ただ舞花の顔だけがふわふわと浮かんでは消えた。

 七年前。樹喜を救ったのは、舞花だった。

 樹喜は、ある屋敷の使用人の息子として産まれた。年端もいかない頃から、ただひたすら頭を下げ、床に這いつくばって生きていく生活だった。掃除が行き届かないといっては蹴られ、頭の下げ方が悪いといっては、ぶたれた。樹喜を救うものは誰もいなかった。自分を産んだはずの両親は顔を背け、むしろ良い避雷針が出来たなどと笑った。六歳になる頃には、毎夜当主の寝室にていたぶられた。逃げられなどしない。AGDにはきっちりと当主の情報が書き込まれているのだから。更にAGDは、自害を許さない。それをしようとすると、何かの電波が出て脳を正す。

 AGDが人を救うなどというのは嘘だ。当主達は、法に触れないぎりぎりの線を踏みながら、彼を虐める。樹喜は何処にも逃げられず、ただ毎日を埋もれて生きていた。

 彼女に出会ったのは、十の時で。何かの、祝賀会のようなものだったのだと思う。その日は、朝から熱を出してしまっていて。そんなのはお前が悪いと折檻された後だった。罰として中庭の隅で、薔薇の手入れを命じられた。普段は、機械のする作業だ。指にぐさりぐさりと棘が刺さる。このまま死んでしまいたいと、そう思った。けれど、頸動脈の近くに棘が来ると、AGDがそれを警告して排除する。ぼとり、と涙が傷だらけの手の甲に落ちる。

 そんな、時だった。

「…あの…なに、してるの…?」

 少女の声に、顔を上げる。熱でぼうっとした頭がくらくらとして、手のひらがずきずきと痛んで。

「たいへん…えっと…大丈夫…?ちょっと…待ってて…えっと…そうだ…春!春どこにいるのっ?」

 少女の声が、脳に染みこむ。柔らかい、声。ぐらり、と視界が回転した。ただ、天硝子越しの青空が、いっぱいに目に映る。

「大丈夫?大丈夫?ねえ…死なないで…大丈夫だから…あのね、今、春が来るから…春はお薬いっぱい持ってるから…」

 何か樹喜は呟いた。呻いたと言う方が適切かもしれない。何を言おうとしたのかは、自分でも未だに思い出せない。感謝。謝罪。拒否。或いは。

 そこで、少女は少し笑った。ぎこちないような笑みだったけれど、それは間違いなく笑顔だった。

「大丈夫。大丈夫だから…」

 それが、舞花だった。

 そこからの、記憶は無い。

 気づけば今まで寝たこともない真っ白な寝具の中で。手には包帯が巻いてあって。母と同い年ぐらいの女性がこちらを見ていた。

「酷い目に合われましたね。花鳥家の使用人だったのですね。――あぁ、AGDで情報は読み取らせて頂きました」

「あ…」

 自らが仕えた家の名を聞いた途端、激しい震えが襲った。しかし女性は笑う。

「大丈夫です。あなたの身柄はこの石楠花家が預かりました。花鳥家につきましては脱法犯罪の疑い有りと、通報させて頂きました」

 あぁ、と樹喜は息を吐く。これは何て幸福な夢なのだろう。夢でもいい。一瞬でも幸せであれば。例え目覚めてまた地獄が待っていても、この夢を支えに一生生きていける。

 そう、思った。

 けれどそれは現実で。樹喜は半月の療養を経た後に研修を受け、石楠花家の使用人となった。

 あの時、舞花が救ってくれた命。

「舞花様…」

 呟きは空中で飛散する。あの、優しい微笑みが頭から離れない。

 自分が我慢するのは慣れている。自分など幸せになる必要はない。舞花が幸せにさえなってくれれば。――彼女の幸せが何かは、分からないのだけれど。


 翌朝、社内見学へ行くという研修生達を見送ると、樹喜は庭に出た。明日はこの庭の手入れの仕方を教えなければならない。

 石楠花家では殆ど機械を使わない。仕事で余るほどの機械を使う晃一郎が、家ではのんびりしたいと言って殆どを手作業でやるよう指示を出しているのだ。洗濯や掃除すら全てを人の手で行う。それは史上最大の贅沢だった。

 どう教えようかと思案していると、奥からやってきた人物に気づく。

「あれ?えーと、樹喜君」

「あぁ、こんにちは。お疲れ様です」

 どうも、と笑った男は三十半ばほどの長身だった。タカギという名の医者だ。昨今の医療は、ほぼ機械化されているが、それでも人間の医者も勿論まだ居る。この医者は、代々石楠花家専属の医者だった。昔は住み込みだったそうなのだが、ここ二世代ぐらいからは通いで来ている。何でも大学にて何かの研究を始めたらしい。樹喜が幼い頃この屋敷に来たときに手当をしてくれたのも、まだ若い彼だった。

「絢乃様の所ですか?」

 問うと男は頷く。

「体調は悪く無さそうなんですがね。でもまあ…なるべく伺えるときには伺おうと思っていまして。――あぁそうだ。昨日も伺ったんですが、樹喜君が夜来てくれなかったと泣いていましたよ」

 樹喜はその言葉に苦笑いで返す。

「――怒ってらっしゃいました?」

「まあ、いつも通りです」

 タカギ医師は楽しげに笑う。

「樹喜君は今お忙しいですか?」

「いえ。特には」

「でしたら、道案内をお願いできませんか?久しぶりにこちらの方の庭を通ったら、迷子になりそうでして。どうもこの庭は迷路のようで。普段歩くことのない私には、苦行のようなのです」

 樹喜は笑って頷いた。自分も最初にこの屋敷に来たときはそうだった。家の中にも庭園にもAGD用の道しるべがないので、自分がどこにいたのか分からなくなるのだ。特に庭園には高い木々が多いため、尚更迷子のような気持ちになる。

 唐突にタカギ医師に問われ、樹喜はぽかんと彼を見つめ返す。

「――見ていれば、舞花様があなたを好いていることぐらいは分かりますが…もしかして、触れてはいけないところなのでしょうか」

 いえ、と樹喜は短く答える。

「どうにかしようとは思ってるんですか?」

 問われて樹喜は首を横に振る。

「僕にはどうにもできませんから」

「ですが舞花様は三女ですし…もう跡継ぎだって、園美様の婚約者と決まっているわけですし」

「まあ…そうなんですけど」

 よく知っていますね、と言おうとしてやめた。おおかた、絢乃が喋ったのだろう。

「晃一郎様に反対を?」

 樹喜はまた首を横に振る。そう言った話はしていないが、反対するようには見えない。

「宜しいのですか。舞花様が…例えば、誰かの元に嫁いでしまっても」

 良いです、と樹喜は短く答えた。

「――彼女が幸せであれば、それで良いです。僕には、彼女を幸せにしてあげられそうもないので」

 深く、息を吐く音がする。タカギ医師が何処か慈しむような目でこちらを見ている。彼は知っている。樹喜の受けた傷と、それにより付きまとう病を。

「君の考える幸せと、舞花様の考える幸せは違うかもしれませんよ」

「…ええ…でも」

「彼女に聞いてみればいかがですか。あなたが彼女の幸せを望むのであれば。そのあなたが望んでいる彼女の幸せが何かを知っておくのも、大切なことだと思いますよ」


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