地球にて(3)
恵琉の仕事場についたのは、七時二十分だった。桂硝子と大きく書かれた扉の前で、道臣に待っていてくれるよう頼み、樹喜はその扉を叩く。空との境を天硝子が覆っているため、家が天井を持つ必要はない。石楠花家ではあえてそれを採用しているが、桂硝子には天井はなかった。そびえるような壁のみがぐるりと囲ってある。
はい、と頭の上の拡声器から声が聞こえて、樹喜は石楠花家のものであることを告げる。やや時間があって、扉が開いた。
小柄な少女が、こちらへ向かって歩いてくる。黒い作業着に身を包んでいた。手首のAGDは遙か昔にいたと言われている翼竜プテラノドン。翼を畳んだ形のそれは、作業着の袖からこちらをじっと見ている。
「ご無沙汰しております。晃一郎様から言づてを運んで参りました」
小さな箱を差し出すと、その人物は露骨に眉をひそめた。
「…要らないって突っ返したら駄目かしら」
「それだけはご容赦を。私が叱られてしまいます故」
ふうん、と恵琉は腕を組む。樹喜はその顔を見て、少し笑った。
「…なに?」
「いえ。だいぶ、柔らかくなられたようで」
その言葉を受けて、恵琉は僅かに笑った。いつも屋敷で仏頂面をして顔を背けていた少女とは全く違う。長くいつも編まれていた髪はばっさりと肩の上で切りそろえられ、美しかった爪には、汚れが付着している。日光を浴びることも多々ある故、肌はかなり灼けている。
「受け取らないと今度は父様が来そうね。――頂くわ」
「次回は是非、春からも受け取ってやって下さいませ」
「絶対に嫌よ。だってあの子、私の顔見ただけで泣きそうになりながら土下座する勢いで挨拶するのよ」
樹喜は笑う。想像できるようだった。
「あぁ、そうだ…。これ、渡してくれない?」
そう言って恵琉は、樹喜の手のひらに小さな硝子の破片を三つ置いた。細かい絵が描いてある小さな硝子。後ろには針がついていて、衣服に付けられるようになっているようだ。
「これは…」
「余り硝子でつくったのよ。姉さんと…舞花と絢乃に」
姉妹達の名を告げると、彼女は踵を返す。
はい、と答えて樹喜は叩頭する。ゆっくりと頭を上げたとき、恵琉はそこにはもう居なかった。
優しくなった、と樹喜は彼女が消えた扉を見る。小さなその装飾用硝子は、丁寧に角がやすりで削られている。丸く艶やかで、優しい形。
屋敷に戻った樹喜は、姉妹達の身の回りの世話をする下女のひとりに硝子細工を預け、夕食を食べた後に自室へと戻った。時刻は九時を回っている。ようやく一人になって息を吐く。
あの箱は一体何なのだろう。
今まで、晃一郎が恵琉の元へと使いを出すことは多少たりともあった。しかしそれは、例えば何か贈り物であったり、祝会をするから来ないかという招待であって。あんな機密文章を送るようなことがあっただろうか。そもそも、ああいった箱は家族間で使うことは殆ど無い。一箱の値段だって、決して安いものではない。下手をすれば新卒者の初任給ぐらいにはなるかもしれない。
何か、内密に恵琉に伝えたいことがあるというのだろうか。
ぼんやりと天井を見つめながら考えていると、不意にAGDが震える。
「――ん?」
「オデンワです アヤノさまです」
うぅ、と樹喜は息を吐く。明日も六時から研修を始めなければならないのだ。逆算すれば五時には起きなくてはならない。出来ればそろそろ風呂に入って寝る準備をしたかったのだけれど。
「…はい。樹喜です」
「あ、アヤだよ!」
四姉妹の末っ子、絢乃は十二歳。身体が弱く学校には殆ど通っていない。それ故、若い使用人全てを友達のように思っている。ここのところ女性の若い新人が数人入っているため樹喜には余り連絡が来ていなかったのだが。
「ねえねえ樹喜、さっき硝子のやつ貰ったんだけどぉ。…今日めぐちゃんと会ったって本当?」
「あぁ…えぇ。少しですがお会いしまし――」
「ずっるーい!アヤもめぐちゃんと会いたかったあ!どうしてアヤも連れてってくれなかったのぉ?」
耳元で絢乃の声がきんきんと響く。
「申し訳御座いません。あの…ちょっと急いでいたもので…」
「何それ!いますぐちょっとアヤのお部屋に来てよ!」
「すみません…あの、絢乃様のお部屋は男子禁制ですし…それに、もう九時を過ぎて…」
「だってアヤお昼寝したから、眠くないんだもん」
樹喜は心の中で深くため息をつく。これは一時間…いや、二時間はかかるであろう。
「ねえ樹喜ぃ。つまんないよぉ。来てよぉ」
「あの…でしたら、女性の使用人を呼ばれてはいかがですか?例えばえぇと…春でしたら恐らくまだ起きているかと…」
せめて恵琉に追い出された失態をここで帳消しにして欲しいとの思いで名をあげると、絢乃は一気に不機嫌になった。
「もーやだ!樹喜なんてだいっきらい!」
「あの…絢乃お嬢様――」
「ばか!」
その言葉と共に通話は切れる。樹喜はようやく本当にため息を吐いた。早く通話が終わったのは良かったが、絢乃の機嫌を損ねたのは失敗だ。どうしようか迷い、それからどうしようもないことを悟ると、共同風呂へともう一度ため息をつきながら行くのであった。