そうして彼は、彼女に
テツはそう言うと、立ち上がった。
「待って、テツく――」
「とりあえず、都内の幾つかの重要機関を回ってみる。もしかしたらどうにか諸外国と連絡が取れるかもしれないしな」
「テツ」
樹喜が呼びかけると、彼は少し笑う。
「全てが終わったら、あんた達を返す。それは約束だ」
「でもまだ終わってないわ!」
園美の言葉にテツは首を横に振る。
「…でも現実問題、生活は厳しくなる。さっきも言ったが食料や――」
「食料なんて、探しに行けばいいのよ」
恵琉がため息をつきながら言う。
「確かこの時代にはまだ農作業が地球で行われているのでしょう?何かはあると思うわ。海で…ええと、何だったかしら…そう、釣りをしてもいいし、山に登ってみたら色々採れるかも」
「――いや、でも…」
「寒ければ屋根や壁を直せば良いんだわ。それから…暖炉みたいなものを作れば良いのよね」
「あ…あのっ、月油を…どうにか動力に…出来ないかな。あの――がそりん、の代わりに使えれば車で遠くまで…食べ物探したりしにいけるよね?私、やってみるから…!」
「そうだよ。それにアヤと樹喜にはもういないけど、姉様達の守り神もいるもん。何とかなるよ」
姉妹達に次々と言われ、テツは目を瞬かせる。
「――大体、レムズの生態が少し変わったからってハイサヨナラって訳にはいかないでしょう?これから、もしかしたらもっと凶暴化するかもしれないんだし」
樹喜は少し笑って、そしてテツに言う。
「僕も、一応同志っていうやつだと…そう思ってるんだ」
テツは目を見開く。それは、彼が来た日の夜に呟いていた言葉で。
「知り合いがいなくなるってのはしんどいもんなんだろ?」
彼は、しばしぼうっとしてからくしゃりと顔を歪ませた。目尻から、僅かに液体が染み出る。
「――ありがとうな。本当に。…ありがとう」
日は、ゆっくりと沈む。船で見たときよりずっと遠くに見える海の向こうへ。静かに。奥からは園美と絢乃が楽しげに話す声が聞こえる。時折その声にテツと恵琉のものが混じる。。
樹喜と舞花は二人で工場の外でばけつに水をくんで夕食後の食器を洗う。屋敷で手作業で行っていたことなので、造作もない。不意に、不思議、と舞花が呟いた。彼女はぼんやりと空を見ている。
「同じ色なのに…朝と夜って、何だか違って見える。綺麗なのに、何だか寂しい」
それは寒さのせいもあったのかもしれなかった。或いは、これから訪れる空の色のせいかもしれない。
「――ねえ、樹喜」
「はい」
「あの…知らないふりをしてて…ごめん、ね」
何を、と聞くまでもなかった。絢乃が言っていた。自分の対人接触恐怖症のこと。
「いえ――」
言いかけた樹喜に、うん、と舞花は呟いて、そして樹脂箱に皿を入れる。
「――治らなくても、いいから…」
「え?」
「治らなくても…あの、そのままでも、いいから…あ、あの、治って欲しくないって意味じゃなくて…えっと、ね、治った方が良いとは思うんだけど…えっと、でも、私はどっちでも良くって…あの、えっと…」
「――はい」
相づちを打つと、舞花は「ごめんね」と言う。赤い頬と、潤んだ瞳。
「何がですか?」
「私…あの、喋るのが…苦手で…」
「いえ、そのような――」
「私…姉様達や…絢乃みたいに…上手く話せなくて…。可愛くも、できなくて…。何も出来なくて…」
「舞花さ――」
でも、と彼女は顔を上げる。ぷるぷる、と口元が震えていた。
「あの――…私…私ね、私――…私も、樹喜のことを、幸せにしたいって、あの、思って、いる…の…」
ぽかん、と樹喜は口を開けて彼女を見た。
「わ…私なんかが、出来るかどうか…分かんないけど…。でも、もしできるなら…あの、何か…出来ることがあるなら、してあげたいの…。あの、だから…だからね…」
不意に、肋骨の奥がきしんだ。冷たい空気が肺を膨らませる。触れたい、と思った。彼女のその温かそうな頬に。落ち着かなげに蠢く指先に。力の入った肩。震える睫毛。それらに。
「――舞花様」
ゆっくりと樹喜は、手を伸ばす。微かに自らの指先が震えている、と気づいたときにはそれは全身に広がっていた。耳たぶが揺れている。つま先も。尾骨も。――けれども。
「…樹喜…待って…無理、しないで…」
いいえ、と樹喜は言う。
「――触れさせて下さい」
そうして、ゆっくりと。
右手の、人差し指。それが、舞花の頬に触れた。
空はまた紺色に塗りつぶされる。そして、まるで塗り残しが出たように星の欠片が瞬き始めていて。白い月が、こちらを見ている。赤い滲んだ帯が僅かに海を照らす。
樹喜、と舞花が呟いた。その、微かな吐息は樹喜の右手にかかる。
夜が来た。かつて怯えるしかなかった時間。震えは、やがて鼓動と一体になり、そうして身体に温みをもたらす。
(人って、温かいんだな)
当たり前の事実に今更気づいて、そうして少し笑う。不思議そうな顔をした舞花に、また笑う。
「――ありがとうございます」
そう言うと、舞花は目を瞬かせた後に、ようやくゆっくりと笑った。そうして答える。
「どういたしまして」
右手は、舞花の頬に触れていた。ただ、それだけだった。それ以上の接触はない。けれども。くしゃり、と笑った彼女の頬が持ち上がって、それに樹喜の手が吸い付くように着いていく。
ただただ、それが幸せだと、そう思った。




