四女の涙/斎藤鉄平の言葉
夜が、開ける。翠球について何度目に見ただろう。朝焼けは、壁代わりの寝具の向こうからもゆっくりと染みこんできていて。いつの間にかまた眠ってしまっていたらしい。枕元には水筒がおかれていた。薄暗い室内には、寝息が満ちている。。
(レムズが月油で、爆発をした)
それはつまり、タカギ医師は正しかったと言うことだ。樹喜はゆっくりと腰を上げ、厠へ行く。
(レムズというのは、一体何だったのだろう)
タカギ医師が生み出したという生き物。タカギ医師の体内から産まれたのだろうか。或いは何かの物質から造り出したものなのか。
厠からの帰り道、窓の外を何気なく見て樹喜はその影に気づいた。
「――絢乃様?」
声をかけると、彼女は振り返った。
「もう、お体は大丈夫なのですか?」
ずっと眠り続けていた彼女は、頷いた。
「うん。もう大丈夫。何だか、すっごく身体が軽いの。…先生が言ってた。二十世紀病を持ってる人、というのがAGDをつけると…おかしな電波が沢山でるんだって。それで、体調がおかしくなったみたい」
樹喜は頷く。室内と室外。硝子の取れた窓枠と壁が二人の間を遮っている。
ねえ、と絢乃が呟いた。
「――…アヤは、樹喜のことが好きだよ」
樹喜は、静かに頷いた。
「…有り難う御座います」
「どうして、樹喜は舞ちゃんのことが好きなの?――もし…あのとき、助けたのがアヤだったら…アヤのことを、選んで、くれた…?」
太陽はまだ、二人を照らさない。混沌の空気が、彼女の表情を隠す。
「…ねえ、樹喜…」
樹喜は絢乃を見つめる。光の当たらない、暗い彼女の顔を。そして、樹喜は思い出す。あの時、庭に来ていた舞花を。
――…あの…なに、してるの…?
そう問うた、舞花。
そもそも、何故彼女は祝賀会のまっただ中に招き主の庭に来ていたのか。供も着けずに。庭に来たときの彼女の表情。それがどうしても思い出せない。けれども覚えているのは、僅かに混じる、水分の音。――例えば、涙。鼻水。
舞花は、泣いていた。祝賀会で何があったのかは分からない。もしかしたら花鳥家の人間に何かを言われたのかもしれない。姉妹との間で、何か劣等感を刺激されたのかもしれない。何かは分からないけれど、泣いていた。
樹喜は、自分以外の人間が泣いているのを見るのは初めてだった。ぽかん、と彼女を見つめ返していたのだと思う。舞花は慌てたように何かを叫んでいた。
そして、舞花は笑った。ぎこちないような笑みだったけれど、それは間違いなく笑顔だった。水分を含んだ、笑顔と声で。
――大丈夫。大丈夫だから…。
その時に、不意に触れたいと思った。彼女の濡れた頬に。震えていた肩に。笑みを浮かべた、唇に。そして、願わくば彼女が心の底から笑えるように。幸せに、なれるように。
絢乃は、こちらを見ていた。僅かの間にも太陽は確実に上昇を続けていて、彼女の頬に柔らかな光が差していた。
「絢乃様――その、私は――」
「聞きたくない」
口を尖らせて絢乃は言う。もしもあの時泣いていたのが絢乃だったら。ほほえみかけてくれたのが絢乃だったら。
「…いいもん。樹喜が誰のこと好きでも…アヤが好きなのは変わらないもん」
「絢乃様」
ぽとりと彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。大きな大きな水の粒が。
「二十世紀病の…特効薬は何か、ご存じですか」
樹喜の問いに、絢乃はのろのろと顔を上げた。ぼんやりとした表情をこちらに向ける。
「――誰かに、大切にされることです」
「…誰かって…?」
「園美様が出て行ったのは、あなたの病気を治すためでした」
え、と絢乃は樹喜を見つめる。
樹喜は頷いた。園美をはじめ姉妹達に届いた手紙。そこに書かれていたのは。
「絢乃様の病気を治す人物がそこにいる、と書いてあったそうです。誰にも知らせず、一人で来るようにと書かれていたため…園美様はそこに出向いたのです。そして、恵琉様も舞花様も…そこに行くことを真剣に考えた。――そこにいる人物は、お嬢様達の命と引き替えに、絢乃様を治してくれる…と書かれていたそうです」
「…アヤ…を?」
はい、と樹喜は頷く。あの手紙を出したのは、恐らくタカギ医師だろう。何故彼がそんなことをしたのか。タカギ医師はきっと知っていたのだ。二十世紀病を治す、唯一ともいえる力。
かつて樹喜も、そうして舞花に救われた。
「――絢乃様。きっとタカギ先生も…あなたを救いたかったのだと、思います」
タカギ医師は、全てを見越していたのかもしれない。あえて出した手紙。絢乃の体内から取り出した林檎石。絢乃を挑発し、戦いに持ち込む。――AGDを破壊させるために。林檎石とAGDのない、絢乃の身体はきっと翠地星球の人間と変わらなくて。そしてそれは、二十世紀病を、乗り越えてきた過去の人間と変わらない。
「…樹喜のばか…」
「――はい」
「先生も…姉様も…みんなみんなばか…」
日の光が彼女を包み込む。美しく輝く涙は、ただただこぼれ落ちて行く。
それから三日間、レムズ達はやってこなかった。テツの偵察によると、彼らはまだ海を渡っていないと言うことだった。
「ここのところ、ずっと木の葉を食べてる。食事が変わってるみたいだ」
「――もしかして、もう人間を食べない?」
恵琉の問いに、テツは分からないと答える。
「ただ…世界的に人間の数が減ってるのは事実だからな。そーいう方向に進化した可能性もあるし…もしくは月油にビビって、近づいてこないのかも知れないけどな」
テツが言い、びびて?と絢乃が問う。怖がっていることだとテツが補足した。
「もしもこのままレムズが…人間を襲わなかったら」
ぽつりと園美が呟く。
「共存が、出来るのかしら」
ため息のようなものが、空間を満たした。そうかも知れない、とテツが呟いた。
「元々は…人間に危害を加えるもの以外とは、人間は共存してた。鳥とか虫とか動物とか」
「危害を加えるものに関しては?」
「――まあ…そうだなあ。殺したりもしてたかな。蚊とかゴキブリは殺す専用の薬品もあったし、ねずみ取りとかいうのも聞くし…クマが人里に降りたら大抵殺すしな」
「その…か?とか、とかねずみとかいうのは…人間にどういう危害を?」
人間を食べる生き物だったの、と園美が問い、テツは首を横に振った。
「人の血を吸ったり、台所を荒らしたり、って感じかな。まあ今思えば野菜の切れ端ぐらいやっとけよ、とは思うけどなあ」
「血を吸うの?」
「――と言っても…ほんの少しだけど」
テツは困ったように笑った。可哀相、と園美が呟き、テツはそうだなと答える。
「まあでも、お互いのテリトリー…えっと、領地に入らない生き物に関しては共存してたな。虫とか鳥とか。若しくは、人間側の決まり事を守れる者に関してはペットとして飼ってた」
「ぺっと」
「餌をやって、懐かせて…トイレの世話とかして――うーん、何て言うんだろうなあ」
「それは何のために行うの?」
恵琉の問いに、テツはううん、と考え込む。
「楽しみのため…かなあ。家族を増やすというか…癒し、というか」
ふうん、とよく分からないような顔で姉妹達は首を傾げた。樹喜もそれは同様で。
「ねずみ、とか…ごきぶり、はペットにならなかったの?」
「してる人も居るけど…あんまりならないかな。見た目の問題…というのかな」
参ったな、とテツは頭を掻きながら言う。変な感じね、と園美が呟く。テツはそれを苦笑いで返した。
「ほんとに変だよな」
ふと樹喜は、考える。
「――…元々レムズは…人間を襲っていなかったんだよな?」
「え?――あ…ああ、そうだな。…うん、そうだ。葉っぱを食べてた」
「…退化している、と言うことは考えられないのか?」
え、と姉妹達は顔を見合わせる。
「――…いえ、何となく…なんですが。この間来たレムズ達も余り大きくなかったような気がしまして――。何と言いますか…元に戻っているというか…」
そうか、と恵琉が顔を上げる。
「そう言えば言っていたわよね。タカギ先生が…。レムズの素を失ったレムズ達が、暴走したって…。でも今は、タカギ先生がいる…」
「で…でも、先生は死んじゃったんじゃ…」
ちら、と園美が絢乃を気遣うようにしながら言う。テツがぽつりと呟く。
「あの予言――。もしかして、その先生のことだったのかもしれないな」
あ、と姉妹達が顔を見合わせる。
――二○二○年九月。救いの人間が、蒼地星球からやってくる。彼らは特殊な物質を持っており、それは侵入者を絶滅させるだろう――
「…でも彼らって複数形だし…特殊な物質、といっても…」
呟く園美に、恵琉が笑いかける。
「姉さんはあくまで自分が救済者になりたいのね。――まあ、どっちでも良いじゃない」
「まあでも、まだ人間を襲わないって決まった訳じゃないからな。この先何十年もかけてまた変わっていくんだろうから。――気を引き締めないと」
テツが言って、そして彼は何かに気づいたように五人を見回した。
「…そうか、でも…あんた達は帰らないと…なんだよな。――今すぐどうこうっていうのは出来ないけど…どうにかしないと。とりあえずレムズが落ち着いたら…うーん…アメリカとかに行けばどうにかなるんかな。NASAがあるしなあ」
ぶつぶつ呟く彼に、姉妹達は顔を見合わせる。何処かきょとんとした顔で言ったのは、園美だった。
「…帰ることなんて、すっかり忘れてたわ」
そうね、と恵琉も頷く。
「帰っても、絢乃と樹喜のAGDはないわけだし。――そう言う場合って、再交付するのかしら?」
「で…でも…。あの、戦争とか…レムズとか…って」
「アヤ、帰りたくないよう」
「――…いや、でもさ…」
テツは困ったように、樹喜の方を見る。樹喜は小さく笑って、そして言う。
「――私は、お嬢様達に着いていきますので」
姉妹達はああでもないこうでもないと姦しく話し始める。
「でも姉さん好きな人がいたんじゃないの?」
「――ちょっ!めぐちゃ…何で…っ!」
「えっ!園ちゃん好きな人って誰っ?どんな人?」
「え、でも姉様って婚約をしていたんじゃ…」
「えー!でもあの人微妙だったじゃん!なんか偉そうでさあ!アヤあの人嫌いだったもん!…えっ?あの人が好きなのっ?」
「マキさんは違うわよう!」
「え…それって不倫じゃないの?」
「不倫じゃないわ!まだ結婚していないもの。思うだけは自由でしょ?」
「――それで?それで?園ちゃんの好きな人ってだあれ?」
わいわいと姉妹達は話し始める。テツはぽかんとその光景を見ていた。
樹喜はゆっくりと窓の外を見る。
季節が、移ろってきているのが分かった。もうすぐ九月が終わる。
樹喜の視線に気づいたテツが、ぽつりと言う。樹喜にしか聞こえない声で。
「――あと何ヶ月かしたら、もしかしたら雪が降るかもな」
「雪?雪ってあの…白い?」
テツは頷く。
「あんまりこっちは多くは降らないんだけど、時々降るんだ。そうなったらあの仮住居じゃ寒いけどな」
「…そうか。見て見たいな。…雪」
「うん。そうだな。見せてやりたいよ。雪が溶けたら、春だ。桜が咲く。それが散ったら、若葉が茂って…そんで、夏が来る」
「――うん」
「でも、ここにはもう何も無い。皆が冬を越せるだけの食べ物も…寒さをしのぐ道具も」
「テツ…?」
「――帰れよ。もう、十分だ。…一応、レムズ対策に月油を少し残しておいてくれると助かるけど…」
そう言って彼は頭を下げる。いつの間にか姉妹達は会話を止めて、彼を見ていた。
「今まで本当に、有り難う御座いました」
彼は、張りのある声でそう言った。




