地球にて(2)
新人達への研修を終え、樹喜が自室に戻ったのは、午後六時頃だった。今日の仕事はこれで終わりだ。午後七時の夕餉まで何をしようかと自室のベッドにごろりと横になっていると、不意にAGDが手首で震えた。
「?」
「オデンワです コウイチロウさまです」
その言葉は、樹喜にしか聞こえない音だ。正確に言うと、空気を通さず樹喜の鼓膜に直接振動を与えている。樹喜は慌てて身体を引き起こす。
「――はい!樹喜です」
使用人達は、名字が全て同一だ。石楠花家に仕えるので、石仕というのがそれに当たる。それ故、使用人達は皆、名のみを名乗る。
あぁ、と声が耳元で笑った。
「私だ。――あぁもう勤務時間外か?悪いな」
いえ、と樹喜は答える。――正確には、口を動かす。後はその動きをAGDが関知して相手方の鼓膜へ言葉を伝える。
「恵琉のところに言づてを持って行って欲しい。――どうにもあれは気むずかしくてな。春をやったら追い返されてしまったらしい」
「分かりました」
「では今、私の部屋まで言づてを取りに来てはくれんか」
「すぐに参ります」
通話が終わると、樹喜は慌てて身なりを確認する。浅黄色の膝下丈の袴に半袖の上着。この屋敷の使用人の典型的な服装だ。茶色い革靴に足を入れると、そのまま走る。こういう時は機械化が進んだ家が羨ましい。何処にいても命令一つで目的地まで送ってくれるのだ。――もっとも、そんな家では使用人などは雇わないかもしれないが。
十分ほど走り、晃一郎の家まで辿り着く。呼び鈴を鳴らすと、樹喜の上司である執事が待っていた。促されて、晃一郎の部屋へと向かう。
「――中でお待ちだ」
「はい」
二三度深呼吸をして息を整えると樹喜は重厚な扉を叩く。入れ、と短く声が聞こえ扉を開けると、そこには中年の男が座っていた。背が高く、ひげをたくわえている。紳士、という言葉がしっくり来る。彼の腕にもAGDはしっかりと付いており、その形は龍の形だった。
「悪かったな。急に」
「とんでもございません」
樹喜はそう言って一礼する。今度は、AGDを介さず、空気に乗せて言葉を交わす。
「道臣があいているようだったから、彼に送ってもらってくれ。…そうだ、今日から研修だったな。どうだ、新人達は」
「皆、明るく真っ直ぐな子達です」
そうか、と晃一郎は笑う。目尻に深い皺が寄る。
「では、恵琉にこれを」
晃一郎はそう言って、四角い箱を渡す。樹喜は頷いた。昨今はAGDで用を済ませるのが殆どだが、それを使うと回線を通すこととなり全ての情報が歴史に刻まれてしまう。それを避けるために、機密文章などはこういった箱に収めて手動で運ぶのだ。
「畏まりました」
頼む、と晃一郎は言い、そしてそのまま手元の電子書類に目を落とした。樹喜は一礼をして部屋を出る。
晃一郎の家を出ると、空中船が待っていた。空気の力で進むそれは、つるりとした卵形をしている。運転席から、声がした。
「恵琉様のところだな?」
樹喜が頷くと運転手である男――樹喜の同期の、道臣である――は笑う。乗り込みながら樹喜は口を開く。
「悪いな。あそこは七時半までだから…――急いでくれ」
分かった、と道臣は言いそれから空中船を発進させる。滑らかな乗り心地に身を任せながら、手元の箱を見つめる。使用人であるからして、雇い主の真意に触れてはいけないというのは当然だ。分かってはいるが、どうにも気になってしまうと言うのも人の性だろう。
恵琉は、石楠花家の次女である。樹喜と同い年の、十七歳。彼女は、大企業の娘という立場を捨て、五年前――十二歳の時から、家を出ている。飛び級をして大学までを卒業した後に、天硝子職人に弟子入りをした。天硝子というのは、この日本国を覆う特殊硝子のことで、酷く熱い場所で作業することや、取付の際などには日光を浴びる危険があるため敬遠されがちな職業だ。しかし彼女は、絶対に職人になりたいとほぼ家出状態で飛び出したのだ。
樹喜はふと、彼女の笑わない横顔を思い出す。
屋敷にいたときから彼女は少し風変わりであったという印象がある。彼女は自らの家――姉妹達は敷地内に一人一軒の家を持っている――には誰も入れず、学校への送り迎えも徹底的に拒否をした。姉妹である家族とも殆ど相容れず、一人で行動していたように思える。それは、ある種彼女の産まれによるものだ、というのが使用人達の間での定説だ。恵琉以外の姉妹達は、父母の遺伝子を両方分かりやすく受け継いでいる。やや茶味がかった髪。すらりと背も高く、丸い目は薄い琥珀色だ。けれど恵琉はそれを受け継いでいない。髪は漆黒の色。背はさほど高くなく、瞳は切れ長の藍色。姉妹の父母には一切似ていない。けれども昔から勤めている使用人に言わせると、間違いなく母の石楠花咲妃の子だとは言う。そして、産まれたばかりの頃、一人、唐突に解雇された執事が居たという話も聞いている。しかし、現在は出生前に胎児検診を行うのが常だ。出産の正確な日にちや時刻などもそこで分かるし、病気や性別は勿論性格、趣味、傾向なども粗方分かる。父母はそれを元に玩具や衣類を買うのだ。そしてそこでは間違いなく、親との血縁鑑定なども行われているはずだ。
(だとすれば、間違いなく親子)
今の日本国では、不貞は許されていない。そもそもAGDがそれを許さないのだ。作り物の世界ではあり得るが、現実にはあり得ない。と言うわけでその定説は完全にあり得ず、結局の所、何故恵琉が家を徹底的に嫌うのかは分かっていない。
そんな彼女が唯一口をきいたのが、樹喜であった。
しかしその理由は、決して彼女が樹喜を気に入ったからと言うわけではない。
「良いよなあ樹喜は」
不意に道臣に言われ、樹喜は顔を上げる。
「恵琉様に名前覚えて貰ってる使用人なんてお前ぐらいだろ」
まさか、と樹喜は答えて笑う。恵琉を除く姉妹達は概ね人当たりが良く、使用人達の名前や顔も全員とは言わなくても大体は覚えている。
「それを言ったら道臣だって良いじゃないか。園美様の大学の送り迎えはお前なんだろ」
そう言うと道臣は嬉しそうにまあな、といって笑う。彼は三つ年上の二十歳だ。この石楠花家では、二十歳までに使用人としてどの職業に就くかが決まる。その職は庭師から厨房、掃除や側仕えなど様々である。既に二十歳を超えている道臣は、園美の専属運転士と言うことになる。四姉妹の仲でもひときわ美しく、優しい園美は使用人の中では一番の人気だった。
それから道臣は、大学までの道中に園美と交わした話を楽しげに話してくれた。樹喜はそれに頷きながら、ぼうっと町並みを見つめていた。