終わらない世界
砦に戻ったのは、次の日の昼過ぎだった。皆、泥のように地面にすがりつくようにして眠った。レムズの気配は、全くと言って良いほど無かった。不気味なほど、工場の周りは静かで、そして何一つ変わっていなかった。何処かが壊されている形跡もない。唯一、アオイだけが居なかった。
樹喜は、横になったまま壊れたアオイを思う。彼は、横倒しになったまま最後に言った。
――そうだ。先程の奴隷の話ですが…ご心配なさらなくても、もう大丈夫ですよ。私は、つい数日前、翠球に戻る前に…レムズを吐き出してから、来ましたから。
彼の言葉が飲み込めない姉妹達は沈黙をする。
――今頃、蒼地星球にも…レムズは降り立っているはずです。…ああ、日本国は大丈夫ですよ。硝子が守っていますからね。…安心しましたか?では…皆様、ごきげんよう。
それ以降、アオイは動かなかった。
身体はだるくて仕方がないのに、脳みそは何度も何度も、動くことを求める。考えろと何度も指令を出す。
(…彼の言っていることが、もしも本当なら)
日本国は、他国に従属するという契約を結んでいた。――そして、国民全員が奴隷になるまでは、後三十年。それに対抗するため、AGDを持たない人間…即ち翠球の人間を、連れてきた。そしてその中にタカギ医師はおり、彼は他国にレムズをばらまいた。
(つじつまは、合うのかもしれない)
その理由なら、晃一郎が姉妹達を手放した理由も、納得がいく。他国の奴隷になるぐらいだったら、別の安全な場所へと逃がすだろう。
それに、と樹喜は思う。医師がレムズの素だとしたら。
医師が、レムズの動向を予言出来たことも確かに納得する。
樹喜はゆっくりと身体を捻る。寝返りを打つと、疲れた表情のテツが見えた。彼は静かに眠っている。目の下には深く暗い色が染みついている。肌には無数の傷跡。
ぼうっと彼の顔を見ながら、樹喜はまた眠りに落ちる。
偵察に行っていたテツが走って報告をしに来たのは、翌日の朝早くだった。恵琉と園美、樹喜はそれを緊張したまま聞いた。絢乃は、まだ目覚めていなかった。
「もうここには食料はないと判断したのかもしれん。子供が五体に…そんで、大人が三体。まだいやがった。身体に巻くための木の皮を剥がしてる」
レムズが海を渡る用意をしているという。彼に同行していた舞花も後ろから頷いて見せた。
「…どうするの?」
「どうするもこうするも、出て行く前に、どうにかしないとでしょう?」
園美の問いに恵琉が答える。テツは二人を見た後、少し寂しげに笑った。
「――正直、出て行くなら出て行くでいいかもしれんと思ってる」
「え?」
「次に来るまでにどんぐらいの時間がかかるか分からんけど…それさえやり過ごせば、また奴らは出て行くと思う。もしかしたらどっかの国が何とかしてくれるかも知れないし。俺は、あんたたちにこれ以上迷惑は――」
「何言ってるの!」
そう叫んだのは園美だった。
「そう言ってこれ以上の人間が殺されるのを見ているの?私達がやらなくちゃ――世界は終わってしまうんでしょう?」
「…園美姉様」
「いや、でもさ。…塩が効かない以上、どうやっても…」
「どうにかなるわよ」
テツの言葉を遮って園美はにっこりと微笑む。
「だって私達は、救世主なんでしょう?」
その横で恵琉はため息をつく。
「何とかするわ!ね、めぐちゃんっ」
「――何とかってどうやって?」
「守り神もいるし!」
「だからその守り神でどうやって?」
「私の黒猫のリンちゃんなら、なんとかできる気がするのよ」
恵琉はため息をついて首を横に振る。樹喜はそれを見て微かに笑い、そして考える。
(塩の効かなくなったレムズを、どうするのか)
不意に外で何かばたんという音がした。ああ、とテツが声を絞り出す。
「…レムズだ」
長旅に備えて、腹ごしらえをしようとしているのだろうか。身長は大凡一メートルほどのレムズが三体、こちらを見ていた。
「子供、かしら」
たぶん、とテツが呟く。
(塩は効かない)
肌に、何かが突き刺さる感覚がした。それが、震えだと気づいたのは少し後で。
「――大丈夫だ。奴らはさほど大きくは無い。押さえ込んで…どうにかする」
テツの声は、何処か自分に言い聞かせているような声で。
「塩が無くても、大丈夫だ」
平たい声に、僅かな震えが混じる。
「柔らかい、目を狙え。後は…たぶん、首を絞めればどうにかなる」
たぶん、とテツは繰り返す。樹喜は頷く。
「――私とテツが参ります。お嬢様達は、どうか後ろで」
相手は三体。テツが頷くのが目の端で見えた。太陽は、まだ上空に浮いている。AGDを呼び出せば決して不可能ではない。
そう、思った途端だった。一体のレムズが右手を挙げた。それと同時に、彼らの後ろから揺らめく影が見える。
「…いや…」
漏れた声は、舞花のもの。
「こんなの…無理だよ…」
震えた声。樹喜は、唾を飲み込んだ。先程せり上がってきた思いを、押し込めるために。二度と、飛び出さないように。
五、六十体ほどのレムズが、こちらを見ていた。荒い息のもの。涎を垂らすもの。血走った目のもの。皆、空腹を感じているのは間違いない。
「――何でこんなに…」
絶望、という安っぽい文字が脳裏に煌めく。山のように生まれ出る疑問は、しかし無意味で。――何一つ、生み出せない。




