歩みを進める
翌朝は、気持ちの良い晴天だった。軽い朝食の後、テツが米を使い「おにぎり」を作る。
「すごーい…これがおにぎり…。忍者が持ってたっていう…あの…」
舞花に羨望の眼差しを向けられたテツは、何処か不安げな顔をする。
「忍、者…?」
「恵琉姉様、凄いわ!忍者ご飯よ!」
樹喜も思わずその「おにぎり」を見て感嘆する。
「――ちょっと待て。おにぎりと忍者は何の関係もないぞ…?」
そう呟いたテツの言葉に、樹喜は笑う。
「またそうやってからかって。――多岡式匡の“忍者辞典”にはきちんと明記してあるからな?」
「いや、誰だよそれ…」
テツはため息をつく。樹喜達はそれを見て、軽く首を傾げた。
テツの作った「おにぎり」と真空缶、水を必要分。それから、塩。細い布を数枚。幾つかの工具。膝掛けにも羽織り物にもなる布を一人一枚ずつ。
「あんまり色々持って行っても邪魔になるからなー…こんなぐらいか」
テツの言葉に樹喜達は頷く。
「塩は…」
「まあ、一応。殺せなくても、多少のダメージは与えられるかもしれないからな」
樹喜は頷いて、そして鞄に荷物を入れている舞花を見つめた。
組み分けは、朝一番に恵琉が決めた。
「私とテツ、そして舞花と樹喜で良いかしら」
「――え、でも…」
「絢乃の方が手強そうだし、東の方には私達で行くわ」
有無を言わせない口調で彼女は言い、そして舞花の肩をぽんと叩いた。
「――姉さんのこと、頼んだわね」
うん、と舞花は頷く。
「アオイは…」
樹喜はちらりと隅にいるろぼっとを見る。テツはううんと唸った。
「途中でエンストするとめんどいしなー…どうする?」
問うたがアオイは応えずに沈黙する。しょうがないな、とテツは息を吐いた。
「まあ…大丈夫だろ。ここも一応施錠しとくな」
レムズが来たら意味ないかもしれないけど、と彼は言い古ぼけた鍵で扉を施錠した。
じゃあ、と言って樹喜と舞花、テツと恵琉は工場の前でお互いを見つめる。
「何かあったらすぐにAGDで連絡をして」
恵琉の言葉に舞花は頷く。
「――…樹喜、舞花を宜しくね」
樹喜は叩頭する。畏まりました、と応えると恵琉は小さく頷いた。
「行きましょう」
蒼球で普段使う靴とは違い、石楠花家で履く靴は底が頑丈に作られている。地硝子の上に砂利や砂がまいてあるからだ。けれどもその蒼球においては頑丈な靴でも、道中の荒れた道を歩くのには適さなかった。底を通して、地面に散らばる何かの塊の感覚を感じる。
出発して二日目。昨夜はどうにか壁と屋根を留めている建物内で眠った。固い床の上で寝たので、身体は余り休まなかった。
「――大丈夫ですか」
樹喜の問いに舞花は頷く。なるべくゆっくり歩いているつもりだが、ここ数日間の肉体労働で生じた筋肉痛の身体には辛い。
ふう、と息を吐いて舞花は空を見た。そして意を決したようにまた歩き始める。
「もう少し、速度を落としますか?」
「ううん、だいじょ…――…うん、ごめんね。やっぱり少しだけ、ゆっくりにしてくれる?」
樹喜は頷く。舞花は困ったように笑った。
「ごめんね、体力無くて…」
「いえ――こちらこそ、気遣いが及ばず…」
お互い尻すぼみに謝りあいながら、また歩みを進める。AGDに方向を登録してあるので恐らく迷うことは無いだろうが、地図機能が使えないため(蒼球と翠球では既に日本国の形が違うのだ)多少の不安は残る。時折AGDで方向を確認しながら、ただただ歩く。
昼過ぎまで歩くと、少しずつ建物が増えてきた。高い建物もあるし、小さなものもある。字を見つけると、それを読んだ。
「Hビルディング」
「この先通行止め」
「S幼稚園」
二人でぽつりぽつりとその言葉を拾いながら、歩く。地面はひび割れている箇所も多く、更に歩きづらくなっていた。横倒しになっている車(蒼球の自動車とはまた外観が異なるが)がある。硝子が飛び散っている場所もある。ひしゃげた看板。崩れた煉瓦。空を飛んでいる鳥は酷く痩せているように見えた。ぽう、ぽう、と鳴いている。地面のそこかしこには、草が生えていた。
不思議、と舞花が呟く。
「草って、こんなところからも生えるんだ…」
ええ、と樹喜が同意をする。お昼にしましょうか、と舞花が言ってひしゃげたシャッターの前に腰を下ろす。シャッターには大きな爪痕が残っていて、レムズの襲撃を思わせた。
「――…綺麗」
不意に舞花が呟いた。樹喜は彼女の視線の先を追う。
そこには、一本の木があった。上部の三分の一ほどは削り取られている。けれど残った幹から幾つも伸びる枝には、鮮やかな葉が付いていた。
「本当に、綺麗」
もう一度舞花が言う。これが紅葉というものか、と樹喜はその美しい赤を見つめた。気温が下がったときに、葉の色が変わる現象。現在の蒼球では、硝子のなかで気温が一定に保たれているためこの現象は起きない。石楠花家では葉を紅葉させるという液体を秋になると散布していた。けれどこんなに色鮮やかでは無かった筈だ。硝子に囲まれた日本国では、見ることも触れる事も出来なかった、これを。自然、というのだったか。AGDは、とても静かだ。誰かから連絡が入ることもなく通報に怯えることもない。時間という概念も殆ど無い。空の色と空腹に合わせて食事をして、眠りにつく。敵はいる。怖いこともある。けれども、今はとても穏やかで。
「…私、この世界も好きだと思う」
樹喜は舞花の顔を見る。彼女の白い肌に、僅かに赤みが差してた。
「勿論…レムズは怖いし…。色々、哀しいことがあったのだと思うけど…でも…好き」
はい、と樹喜は頷く。
「樹喜、あの…ありがとう、ね」
「え?」
問い返した樹喜に、舞花は目線をそらして笑みを作った。
「あの――…船に乗ってくれて、ありがとう」
「いえ…そのような」
「…聞いても良い?あの…どうして、船に乗ったのか」
え、と再び問い返した樹喜に舞花は慌てたような顔をする。
「あ…ごめん、ね、あの――…言いたくなかったら、全然…あの、言わなくても良くて…あの――…」
樹喜は少女を見つめて、そして目をそらした。
「すみません…その、お答え…出来ません」
舞花は少し戸惑ったような顔を向けて、それから俯いた。そっか、と呟く。
「――申し訳御座いません」
重ねて言うと、舞花は完全に沈黙した。
数十分ほどそのまま二人はそこで留まった。そして、また歩き出す。時折舞花が絢乃の名を呼ぶ。
更に数十分、歩いたときだった。
あ、と舞花が腰を上げて、そして叫ぶ。
「――絢乃!」
樹喜は慌ててそちらの方を見る。ぼんやりとそこに立っていたのは、紛れもなく姉妹の末の妹で。
「舞ちゃん、樹喜」
少女はこちらを見て、笑顔を作ったようだった。けれど頬はぴくぴくと痙攣をしている。舞花は躊躇わずに彼女の元へと走った。樹喜も一拍遅れて続く。彼女の長い髪は、ぼさぼさで。足下は裸足だった。白い衣服はしわくちゃで、そして何より赤い液体がべとりと付いていた。AGDは壊されている。
「――絢乃!絢乃!」
良かった、と舞花は服が汚れるのも厭わず妹を抱きしめる。
樹喜は姉妹達を見ながら、ざっと周りを見渡した。彼女に外傷は無いようだった。だとすれば。
舞花は矢継ぎ早に質問を浴びせている。怪我はない?おなかは空いていない?寒くない?そして彼女は、不意に口をつぐむ。舞花は絢乃のAGDを失いむき出しになった左手首を見つめている。
それは、と言いかけて樹喜は口をつぐむ。そこには、文字が書かれている。
――英一九五部隊七七AH-AYANO-SHAKUNAGE。
「…これは…?」
「最後の…ここがあるでしょう?ええと、ろうま字、というんだって。その、ろうま字で…アヤの名前が書いてあるの」
そう言って絢乃は長く連なって書いてあるアルファベットを指さした。そして彼女は僅かに沈黙をして、そして樹喜に向き直る。
樹喜、と絢乃が呼ぶ。樹喜が手首から顔へと目線をやると、彼女は小さく頷いた。
「全部話すよ。全部ね。――でも一つだけ、約束して欲しいの」
「約束…ですか?」
絢乃は頷く。大人びた横顔に、僅かな震えと赤みが走る。
「――全部聞いても、アヤのこと…嫌いにならないでね」
樹喜は躊躇わずに頷いた。舞花も頷く。絢乃の伏せた睫毛の角度は、舞花のそれによく似ている。ふわり、と甘い香りが漂ってきた気がした。
「勿論です。命を懸けてでも、お約束致します」
樹喜のその言葉で、ようやく絢乃の口から吐息が漏れた。強ばっていた肩の力を抜いて、そうして彼女は、吐息に音を乗せて語り始めた。




