壊れた船にて(2)
その夜だった。不意に低いうなり声が、天井の隙間を抜けて寝室まで届いた。樹喜は横たえていた身体を起こし、布団から出る。テツ、舞花、恵琉も同様に起き上がっていた。
やや遠くから少しずつ、近づいてきているようにも思える。
「――レムズ?」
テツが頷く。
「…塩は」
ある、と樹喜は答える。持っていない姉妹に、テツが注射器を渡した。樹喜はそれを見て顔をしかめる。まだ姉妹達のAGDは動かないと聞いている。しかも今は太陽がまだ昇っていない。ちらりと時計を見ると、四時半頃だった。
「――お嬢様達は、中に」
でも、と言いかけた恵琉の声に、テツの声が被る。
「中の方が危険だ。天井は仮にふさいだが、ただの板だ。あいつらが登ってでも来たらすぐ壊れる」
外に出よう、とテツが言い、三人はその後に続く。空には深い黒に近い紺色がべとりと塗られている。そしてその絵の具がこぼれ落ちたように、全ての地面に落ちているものも暗い色をしている。
星も月も、見えなかった。ただ暗い。少し目が慣れてきたが、それでも何も見えない。背に触れる船の壁だけが、自分を確立しているようにすら思う。
どくどくという音が、頭の中で響く。
うなり声は、まだ近づいては来ない。どのぐらいの距離に居るのだろう。視界が開けないと、何一つ情報が取れない。
「――工場の光、見えるか」
小さく囁くようなテツの言葉がすぐ近くで聞こえ、樹喜はあたりを見回す。全て暗闇に見える。と、不意にそれが視界に入った。僅かな、粒のような小さな光。どうやら目の前にテツが居て、丁度隠す形になっていたらしい。
見えた、と舞花と恵琉の呟きが聞こえる。樹喜も見えた、と答えた。
「あっちの方向に二体。こっちには気づいてないみたいだな。倒しに行きたいが…他にいたら厄介だ。もうすぐ夜明けだ。それを待った方が良いだろう。ただ、明るくなれば向こうにも有利になる。――油断するなよ」
分かった、と三人は小さく答える。樹喜は改めて、首を伸ばしてその光を見た。
「…よく見えるわね」
恵琉が言い、樹喜も心中で同意する。テツは少し笑ったような声を出した。
「慣れだよ。レムズが来てから、夜に電気を付ける習慣が無くなったからな。ある意味進化してるのかもな」
「――進化って、世代を超えて変化することでしょう。こういう場合は…えーと、変態、ね」
恵琉の言葉にテツが吹き出す。何がそんなにおかしいのか、樹喜には(恐らく舞花と恵琉にも)理解は出来なかった。
その時だった。
僅かに空気が振動した。音は、聞こえない。けれどそれは確実に皮膚を、髪の毛一本一本を揺らす。
「何…?」
「――レムズ…だと思う」
テツの言葉に、全員が唾を飲んだ。樹喜は自らのAGDを撫でて、それからここにいない園美と絢乃のことを考えた。彼女たちも、どこかでこの震えを頬に、瞼に感じているのだろうか。恐怖は感じていないだろうか。もしもレムズだとしたら襲われていないだろうか。
「塩が効くと良いんだけどな」
ぽつりとテツは呟く。
「でなければ、終わらないからな。もうこの日本には…誰もいないんだ。生け捕りにして生態を調査する頭の良い人間も。その情報を発信する人間も。それを受け取る人間も」
くそ、とテツが漏らす。苛立っているのだろう。身体を揺らしてるらしく、工場の明かりが見え隠れする。
「…で、でも」
そう呟いたのは、舞花だった。
「私達は居るから…。役に立てるか分からないけど…ちゃんと、今居るから」
舞花、と恵琉が呟く。
「大丈夫」
舞花はそう言う。
「大丈夫だから…」
それは昔、樹喜を救った言葉。樹喜は小さく息を吐き出した。肩の力が抜ける。見えないけれど、確信はある。彼女はきっと、笑んでいる。ぎこちないかもしれないけれど。間違いなく、微笑んでいる。
それから、恐らく数十分後。ゆるりと夜は明ける。
暗闇の奥から、それは現れる。夜明け。そういえば、と樹喜は何処か冷静に思う。この星に最初に降り立ったときに見たものも、これだった。空は漆黒から、藍色、桔梗色に徐々に暗さを脱いでいく。そうして、くっきりと雲と工場の輪郭があらわになる。その奥から、茜色の光が、はみ出してくる。――それと同時に、テツが示した工場の光は殆ど見えなくなっていった。米粒のような、うたかたの光。
「…来るぞ」
テツその言葉と、同時だった。ごう、という音がした。
目にはもう、それは映っている。樹喜は思わず、息をのんだ。そこには、レムズが四体。口の端から涎を垂らしながらこちらに向かっている。
ひ、と舞花が声を上げた。一体が、突然走り出した。びしびしという足音が響く。
「――樹喜」
分かってる、と樹喜はテツの声に頷き、そうして左手を前に突き出す。また、何かが開かれる音がした。そうして、目の前にノコギリエイが現れる。
(完全な夜明けまではまだある)
樹喜はじっとその揺れる尾を見つめる。
(長期戦には持ち込みたくない。だとしたら――)
ぱし、と尾に注射器を差し出す。
「頼んだ」
そう、ノコギリエイに呟くと樹喜はそのまま突っ込んでいく。走っていたレムズが、樹喜の姿を認めると、そのまま頭を低くしてくる。獲物と認識したのだろう。両手に一本ずつ、注射器を持つ。後ろで、誰かが名を叫んだ気がした。舞花かもしれない。けれど、今は振り返る余裕はない。
守り神には、樹喜の意図がすぐに分かったようだった。ぞくり、と首筋が粟立った。何処か、高揚した気持ちになる。
目の前にレムズが突っ込んでくる。その後ろから来る三体は、まださほどの速度を付けていない。向こう見ずな性格なのだろうか。そうだ、と樹喜は走りながら思う。
(レムズだって、生きている)
だから、個々に性格がある。動きが、皆違う。それが、生きていると言うこと。
『――行くぞ』
ノコギリエイが呟いた。樹喜は小さく頷く。
(その、個を。命を。魂を。自分は殺す)
それ以上のことは、もう何も考えられなかった。例えば、それが罪なのか否なのか。自分が悪なのか否か。そして、自分が今、何を考えているのか。何を信じているのか。どうして注射器を掲げているのか。
残り後数メイトルのレムズの瞳には、自分が映っているのだろう。小さな瞳。夜明けに押しつぶされた、工場の光のような。
ごめんな、と小さく心の中で頭を下げた。きみを殺してごめん。きみの命を摘んでごめん。握りつぶしてごめん。
そして樹喜は、足を止める。
それと同時に、ノコギリエイが対峙していたレムズをたたき付けた。ぎゃおう、とレムズが鳴く。そうして、少しの時間とじたばたと暴れる音の後に、静かになった。
樹喜はその、先程までレムズであった塊を踏みつける。べちゃり、と足の裏に不快な感覚が伝わる。後ろから残りのレムズたちが、こちらを見ている。様子をうかがっていたらしい。どうしようか決めあぐねているようでもあった。ノコギリエイが、空中からじっとレムズを見ている。
『塩を』
樹喜は頷いて、そうして彼に塩を渡した。
『――どうする』
もう、躊躇いはなかった。
「仕留める」
そう答えると、樹喜は駆け出す。しかし、レムズ達は予想以上に冷静だった。示し合わせたように、そのまま三手に分かれる。思った以上の速度と行動で、一瞬樹喜の足が止まる。
しまった、と呟きながらとりあえず手近にいる一体に塩を差し込む。奥に居た一体には、ノコギリエイが行く。そうして、もう一体とそちらに目をやると、テツが体制を崩しながら塩を注入したところだった。ほっと息を吐きながら振り返り、そして樹喜は戦慄する。
「――お嬢様!」
それは、船の上に居た。酷く大きく、そしてハアハアと荒い息を吐く、レムズ。その毛の色は、鮮やかな牡丹色。毒々しいほどの、鮮やかで美しい紫紅色。座った形なので、大きさの程は確かではない。しかし今まで見たどのレムズよりも大きい。昔絵本で読んだ象よりも、遥に大きい。まんもす。恐竜。恐らく、そのぐらい。




