戦いの後で(3)
怖がる絢乃をどうにか宥めて、外へ出た。青い空に雲は浮かんでいない。時折吹く風が少し冷たい。秋晴れだなあとテツが言い、秋ってなあに、と絢乃が問うた。今の蒼球には四季は殆ど無い。天硝子によって空と遮断されているからだ。一応、暦という概念はあるが、それでも意識しなければ特に考えることもない。
思いっきり息を吸うと、気持ちの良いものが腹一杯に溜まる。これが空気なのだと初めて知った。絢乃と舞花が横で真似をして、顔を見合わせて笑い合った。
真空小麦餅を食べた後、姉妹達はもう園美のことを口に出さなくなっていた。けれど時折伏せた目に、その姿が映っているのは彼女たちの表情で明らかだった。
(――園美様は、どこへ行ったのだろう)
何故彼女は船を出たのだろう。
あたりを見回ってきたテツが戻ってくる。
「大丈夫だ。レムズはとりあえず来てない」
樹喜が頷くと、テツは囁くように付け加える。
「園美ちゃんも見えないけどな」
樹喜は小さく頷く。いつ彼女が船を出たのかは分からない。もしも真夜中に出たとしたら、どのぐらいまで行けるのだろう。長い距離を徒歩で移動するということは今の蒼球ではほぼしない。時折、外遊びの流行がやってくると歩いてみたり山を登ってみたりということをするようだが、園美がそれをしていたところは記憶になかった。この瓦礫だらけの地表を、上手く彼女が歩けたのだろうか。彼女は決して動きやすい格好をしていたわけではなかったと思う。
姉妹達がじっと自らのAGDを見つめている。
樹喜はそれを横目で見ながら、改めてぐるりと周りを見渡した。工場の煙は雨で沈静化していた。もう、何も動いては居ない。瓦礫の山。そして、海。そういえば、大昔には入水という死に方があったのではないかと気づきひやりとする。しかし、きっとそれはないだろう。彼女のAGDが守ってくれているはずだ。
「――あ。あ…あー…わああああ!」
急に声が耳に届き、樹喜はそちらを見る。見ると、絢乃のAGDが光を放っていた。
「わ…わああ!すごい!すごいすごいすごい!」
樹喜も思わず目を見開く。そこには、絢乃よりも大きな――高さ一・六メイトルほどの、馬が居た。頭の先には角が付いている。そしてその背には真っ白く大きな羽が生えている。
「馬…?」
こくり、とその馬は頷いた。
『私は、石楠花絢乃の守り神』
樹喜の手首にいたノコギリエイとは声も口調も違っていた。ふんわりとした優しい声。
「アヤの…?」
そう、とその天馬は歌うように答える。絢乃はぼうっとその天馬を見つめていた。潤んだ瞳には何か煌めいたものが見えるほどだ。
『――レムズの件については承知しているわ。あなたたちの守り神もやがて目覚めるはず。絢乃は必ず私が守る。どんな犠牲を払ってでも』
「あぁ…」
うっとりと絢乃は天馬を見つめる。舞花と恵琉は、やや茫然とその天馬を見ていた。
『安心して。私を、信じて』
それだけを言うと、天馬はまた身体を縮めた。ぐにょり、と曲がったかと思うと折りたたまれて、そうしてまたAGDに身体を押し込めた。
絢乃は、恍惚とも呼べる表情で、天馬の還ったAGDを撫でていた。
恵琉と舞花のAGDは動かなかった。
成る程、と樹喜は心の中で呟く。樹喜の守り神が目覚めたときは、レムズに襲われて絶体絶命ともいえる状態だった。ある意味、と樹喜ははしゃぐ絢乃を見つめた。ある意味絢乃もまた、絶体絶命なのだろう。
「…やだ。また雨が降りそうね」
恵琉が呟く。樹喜も顔を上げた。翠球に来てからは、雨の日が多い。
「アヤ、さきにお部屋入ってるね!」
絢乃は楽しげに船室へと駆け込む。舞花は自らのAGDをじっと見た後に、その後に続いた。恵琉は息を吐いて、それからぐるりと辺りを見回した。
「恵琉様」
樹喜が声を掛けると、彼女は少し笑った。
「あの莫迦は、何処居るのかしらね。――雨が、酷くならないと良いんだけど」
ぽつりと呟いて、そのまま身を翻して船内に入る。外には樹喜とテツだけが残される。テツは工場をぼうっと長めながら、ぽつりと呟いた。
「――何だか目隠しされて、吊されてる気分だよな」
「は?」
テツの言葉に、樹喜は目を瞬かせた。テツは何処か自虐的な笑みを浮かべた。
「俺も、正しいことをやってる自信もないし…そもそも何を信じるべきかが分かってない。なのに、俺はあいつらを…レムズを殺すんだ。彼らがこちらに牙を向けるから。でも、そもそも彼らがこちらに牙を向けたのは、俺たちが牙を向けたからじゃないのかって…そう思う。まあ、鶏が先か卵が先かって話なんだけどな」
樹喜は小さく頷いた。どう答えて良いのか分からぬまま。
「俺は今でも怖いよ。子供ん頃に、蟻を踏みつぶしたとき、母親に叱られたんだ。小さな虫にも家族が居るって。命があるって。そんなことをしたら駄目だよって。蟻さんがお前に何をしたんだって」
うん、と樹喜は相づちを打つ。蟻という生き物が何かは分からなかったが、“小さな虫”というのは分かる。
「――園美ちゃんの気持ちも、分かるよ。人間は決して地球代表じゃない。でかい面して、レムズを排除するなんて、間違ってるっていう意見はごもっともだ」
そこまで言った後に、テツは深く息を吐いた。
「戦争なんて、そんなもんなのかもしれないけどな。誰も何も分からないまま、目の前に来た敵を倒す。よく考えりゃ、昔からそうか。動物も恐竜も魚も、そうやって敵と戦って進化してきたんだもんな。命を懸けてさ。俺たちもこの戦いで進化すんのかな」
そう言った後に、テツは首を横に振った。
「違うか。…絶滅の方かもしれないな」
ぽつりとそう呟き、そうしてまた工場へと目を向けた。樹喜もつられるようにそちらを見る。煙はもう消えている。その元にもしも園美が居るのならば。彼女は何をしているのだろう。涙を流しているのだろうか、或いは穏やかに眠っているのかもしれない。
自分は何をしているのだろう、と樹喜は思う。姉妹全員を、幸せにしたいと思った。決して不幸にするまいと思っていた。なのに、現実はそれとは違っていて。一人が、樹喜の元を離れていった。
――姉さんは…私達には絶対に弱みを見せないから。
不意に恵琉の言った言葉が、耳元にねじ込まれたように現れた。自分は園美に何を言ったのだったか。話を聞くと言ったのではなかったか。あの日、次の日にはまた話を聞くからと約束して彼女に睡眠を促した。自分はその約束を、守っていないのではないか。
「――樹喜?」
姉妹全員の幸せ。そこに園美が居ないなんて事が、あって良いのだろうか。彼女たちは、泣いていなかったか。長姉の不在に。
「…先に戻っていてくれ。ちょっと…見てくる」
「見てくるって…え、工場を?」
テツの言葉に頷く。
「園美様が、居るかもしれない」
「待て…でも」
「無茶はしない。見てくるだけだ。――お嬢様達を頼む」
テツは驚いたように樹喜を見つめ、それから息を吐いた。
「…念のため、持ってけ」
手のひらに三本の注射器がのせられる。樹喜は頷いて、それを上着の内側に押し込んだ。
「…太陽が出てない。少しは動くと思うけど…あんまりAGDはアテに出来ないぞ」
分かってる、と樹喜は頷いた。細い雨が、降り始めていた。
船から十五分ほど歩いたところで、ようやく工場の入り口に辿り着いた。周りに何も無いので近く感じたが、案外遠くにあったらしい。樹喜は息を吐いた。雨はまださほど強くはないが、それでもずっと歩いていたので身体は濡れている。一旦、屋根(といっても数カ所にひびが入っており、雨漏りがしているが)のあるところへ行って、息をついた。
どうやって探そう、と思案してそれからようやくAGDの存在に気づく。これで連絡を取れば良いだけの話だ。そもそも何故、船でその事に気づかなかったのか。樹喜は軽く笑うと、AGDに信号を与えた。とんとんと二回叩くと、通話になる。
「園美様に、通話を」
小さく音を出さずに呟くと、目の前に粒子の画面が現れた。「ヨビダシチュウ」の文字が浮かぶ。しかし程なくして「ヨビダシフカ」の文字が出た。樹喜はため息をついて、通話を終わらせる。彼女が意図して拒否しているのだろうか。
テツの言っていたとおり、今はあまりAGDの電力を無駄遣いしない方が良いだろう。樹喜は通話機能を終了させたが、それでも暗い中での捜索は難しく、迷ったあげくに光源機能のみを起動させた。
少し迷ってから、あたりを見回す。所々崩れた何か機械のような物があって、足場も良くない。この中にいるのだろうか、と見回すが、しかし何も見えなかった。
「園美様」
声をあげるが、返答はない。
「――園美様、いらっしゃいませんか。…樹喜です」
ここには居ないのだろうか、と息を吐く。人の気配も感じなかった。
一体どのくらいの時間なのか、声を上げながら行ける範囲でひたすら工場の中を歩き回った。何に使っていたのか、想像も出来ない機械類、壊れた壁。ひびの入った天井。雨の音。床に溜まった水。時折、自分が何処を歩いているのかが分からなくなる。まるで夢のような世界だと思った。それでも辛うじて自分をつなぎ止められていたのは、雨の音がずっとしていたからで。
そして、ふと気づく。窓の外から見える、木を十字に組み合わせたもの。地面にささったそれが墓標だと気づくのに、僅かの時間を要した。
テツの仲間が、そこにはきっと眠っているのだ。
不意に、ギョルルルル、という音がして樹喜は飛び上がる。
「な――」
レムズか、と身構え、そして肩の力を抜いた。そこには、さび付いたような色合いの塊があって。
「アオイか」
そのろぼっとは、ただ樹喜をじっと見ている。
「何だ?テツが呼びによこしたのか?」
「きミは」
不意にアオイが声を上げた。樹喜は身体を屈めてアオイを見た。
「翠地星球ヲ、すクう」
「――…?」
「四人ノ姉妹は、欠片を持っテいる」
樹喜は眉根を寄せる。何が言いたいのかが全く分からない。欠片、と樹喜は繰り返す。
「ソして、君モ」
そして、ゆっくりと入り口に向かってアオイは動き出す。細かい瓦礫を踏む度、ギリギリと鈍い音がした。それと同時に、AGDの光が消えた。僅かに残っていた燃料も底をついたのだろう。ため息をつく。
どうしようか迷ったが、アオイを追うことにした。入り口まで辿り着くと、雨は酷くなっていた。アオイは躊躇わずに進んでいく。樹喜は強くなった雨を頭から浴びながら、船へと戻る為に歩みを進めた。
既に、日は沈んでいたようだった。灰色の雲が、黒くなっていた。




