戦いの後で(2)
園美が居なくなったのは、その翌朝だった。絢乃は半泣きで、舞花にしがみついている。園美の寝ていた枕の上には、一枚の置き手紙があった。
「――探さないで下さい。妹たちをお願いします。園美」
恵琉がその文面を読む。樹喜は下唇を噛んだ。寝室から入り口まではリビングを通らなければならない。樹喜とそしてテツは全く気づかず寝ていた。
「気づかず、申し訳御座いません」
頭を下げる樹喜を、舞花が気遣わしげにのぞき込む。テツは頭を掻いた。
「しかし、どこに行くんだ。外は危険だぞ」
樹喜はその言葉に頷く。土地勘のない場所で彼女は一体どうしようというのか。念のため、と皆で船内を探したが園美の姿は何処にもなかった。
信じられない、と呟いたのは恵琉で。眉間に皺を寄せて、何度も園美の残した手紙を読んでいた。
「でも、出て行ってどうするの…?」
舞花の言葉に、恵琉はやや嘲るような笑みを浮かべた。
「…和解しようとか思ってるんじゃないの?」
「レムズと?出来るの?」
舞花の問いに、テツは首を横に振る。
「無理だろ。言葉だって通じないし、奴らは人間を食う。それに人間が何度も攻撃して、仲間を殺してるところも見てるしな。――ていうか、なんだって和解を?」
恵琉は肩をすくめて、先日の会話を要約して伝えた。成る程ね、とテツが頷き息を吐いた。
「園美姉様を、探しに行こうよ」
絢乃が言う。ねえ、と彼女は樹喜に同意を求めるように顔を見る。とりあえず、と言ったのは、テツだった。
「俺と樹喜で外の様子を見てくるか。えっと、じゃああんたたちはもう一回、船の中を――」
「放っておけば良いわ」
テツの言葉を遮ったのは恵琉だった。姉様、と舞花が声を上げる。
「外にいたとしてどうするの?レムズとの和解は無理よと説得して戻って来させる?私達と一緒に戦いましょうといって、あの人が同意すると思うの?」
「ですが――」
「足手まといどころか、そんな人間が居たら私達の命が危ないわ。一人の人間の我が儘と、ここに残った同志四人。どちらを大事にするの?」
そんなの、と声を上げたのは舞花だった。
「そんなの酷いわ!園美姉様がレムズに殺されても良いというの?」
「そうだよ!探しに行こうよ姉様!」
「仕方ないでしょう。危ないと分かっていながら外に出た。責任があるわ。子供じゃあるまいし、きちんと判断できるでしょう。それに大丈夫よ。AGDがあるじゃない。それが守ってくれるわ」
「でもアヤ、やだよ!園美姉様が死んじゃったら…そんなの嫌!」
「絢乃」
だって、と絢乃は目に涙を溜める。その瞳の揺らめきが、いつか瓦礫の下から見上げた園美のそれと酷く似ている、と樹喜は思った。
「姉さんのことは忘れなさい。あの人は私たちのことを捨てたの」
「恵琉様、それは――」
言いかけて、樹喜は口をつぐむ。恵琉の右瞼が僅かに痙攣している。腹の前で組んだ指は、酷い圧力を掛け合っていた。
「それより外の天気はどうかしら。せっかく直して貰ったし、私達のAGDも動くかどうかやってみましょうよ。…あぁ、その前に朝ご飯にしないとね」
そう言って彼女は食料庫の方へと歩いて行く。その部屋に入る直前、僅かに頬に伝う物が見えた気がした。
怖がる絢乃をどうにか宥めて、外へ出た。青い空に雲は浮かんでいない。時折吹く風が少し冷たい。秋晴れだなあとテツが言い、秋ってなあに、と絢乃が問うた。今の蒼球には四季は殆ど無い。天硝子によって空と遮断されているからだ。一応、暦という概念はあるが、それでも意識しなければ特に考えることもない。
思いっきり息を吸うと、気持ちの良いものが腹一杯に溜まる。これが空気なのだと初めて知った。絢乃と舞花が横で真似をして、顔を見合わせて笑い合った。
真空小麦餅を食べた後、姉妹達はもう園美のことを口に出さなくなっていた。けれど時折伏せた目に、その姿が映っているのは彼女たちの表情で明らかだった。
(――園美様は、どこへ行ったのだろう)
何故彼女は船を出たのだろう。
あたりを見回ってきたテツが戻ってくる。
「大丈夫だ。レムズはとりあえず来てない」
樹喜が頷くと、テツは囁くように付け加える。
「園美ちゃんも見えないけどな」
樹喜は小さく頷く。いつ彼女が船を出たのかは分からない。もしも真夜中に出たとしたら、どのぐらいまで行けるのだろう。長い距離を徒歩で移動するということは今の蒼球ではほぼしない。時折、外遊びの流行がやってくると歩いてみたり山を登ってみたりということをするようだが、園美がそれをしていたところは記憶になかった。この瓦礫だらけの地表を、上手く彼女が歩けたのだろうか。彼女は決して動きやすい格好をしていたわけではなかったと思う。
姉妹達がじっと自らのAGDを見つめている。
樹喜はそれを横目で見ながら、改めてぐるりと周りを見渡した。工場の煙は雨で沈静化していた。もう、何も動いては居ない。瓦礫の山。そして、海。そういえば、大昔には入水という死に方があったのではないかと気づきひやりとする。しかし、きっとそれはないだろう。彼女のAGDが守ってくれているはずだ。
「――あ。あ…あー…わああああ!」
急に声が耳に届き、樹喜はそちらを見る。見ると、絢乃のAGDが光を放っていた。
「わ…わああ!すごい!すごいすごいすごい!」
樹喜も思わず目を見開く。そこには、絢乃よりも大きな――高さ一・六メイトルほどの、馬が居た。頭の先には角が付いている。そしてその背には真っ白く大きな羽が生えている。
「馬…?」
こくり、とその馬は頷いた。
『私は、石楠花絢乃の守り神』
樹喜の手首にいたノコギリエイとは声も口調も違っていた。ふんわりとした優しい声。
「アヤの…?」
そう、とその天馬は歌うように答える。絢乃はぼうっとその天馬を見つめていた。潤んだ瞳には何か煌めいたものが見えるほどだ。
『――レムズの件については承知しているわ。あなたたちの守り神もやがて目覚めるはず。絢乃は必ず私が守る。どんな犠牲を払ってでも』
「あぁ…」
うっとりと絢乃は天馬を見つめる。舞花と恵琉は、やや茫然とその天馬を見ていた。
『安心して。私を、信じて』
それだけを言うと、天馬はまた身体を縮めた。ぐにょり、と曲がったかと思うと折りたたまれて、そうしてまたAGDに身体を押し込めた。
絢乃は、恍惚とも呼べる表情で、天馬の還ったAGDを撫でていた。
恵琉と舞花のAGDは動かなかった。
成る程、と樹喜は心の中で呟く。樹喜の守り神が目覚めたときは、レムズに襲われて絶体絶命ともいえる状態だった。ある意味、と樹喜ははしゃぐ絢乃を見つめた。ある意味絢乃もまた、絶体絶命なのだろう。
「…やだ。また雨が降りそうね」
恵琉が呟く。樹喜も顔を上げた。翠球に来てからは、雨の日が多い。
「アヤ、さきにお部屋入ってるね!」
絢乃は楽しげに船室へと駆け込む。舞花は自らのAGDをじっと見た後に、その後に続いた。恵琉は息を吐いて、それからぐるりと辺りを見回した。
「恵琉様」
樹喜が声を掛けると、彼女は少し笑った。
「あの莫迦は、何処居るのかしらね。――雨が、酷くならないと良いんだけど」
ぽつりと呟いて、そのまま身を翻して船内に入る。外には樹喜とテツだけが残される。テツは工場をぼうっと長めながら、ぽつりと呟いた。
「――何だか目隠しされて、吊されてる気分だよな」
「は?」
テツの言葉に、樹喜は目を瞬かせた。テツは何処か自虐的な笑みを浮かべた。
「俺も、正しいことをやってる自信もないし…そもそも何を信じるべきかが分かってない。なのに、俺はあいつらを…レムズを殺すんだ。彼らがこちらに牙を向けるから。でも、そもそも彼らがこちらに牙を向けたのは、俺たちが牙を向けたからじゃないのかって…そう思う。まあ、鶏が先か卵が先かって話なんだけどな」
樹喜は小さく頷いた。どう答えて良いのか分からぬまま。
「俺は今でも怖いよ。子供ん頃に、蟻を踏みつぶしたとき、母親に叱られたんだ。小さな虫にも家族が居るって。命があるって。そんなことをしたら駄目だよって。蟻さんがお前に何をしたんだって」
うん、と樹喜は相づちを打つ。蟻という生き物が何かは分からなかったが、“小さな虫”というのは分かる。
「――園美ちゃんの気持ちも、分かるよ。人間は決して地球代表じゃない。でかい面して、レムズを排除するなんて、間違ってるっていう意見はごもっともだ」
そこまで言った後に、テツは深く息を吐いた。
「戦争なんて、そんなもんなのかもしれないけどな。誰も何も分からないまま、目の前に来た敵を倒す。よく考えりゃ、昔からそうか。動物も恐竜も魚も、そうやって敵と戦って進化してきたんだもんな。命を懸けてさ。俺たちもこの戦いで進化すんのかな」
そう言った後に、テツは首を横に振った。
「違うか。…絶滅の方かもしれないな」
ぽつりとそう呟き、そうしてまた工場へと目を向けた。樹喜もつられるようにそちらを見る。煙はもう消えている。その元にもしも園美が居るのならば。彼女は何をしているのだろう。涙を流しているのだろうか、或いは穏やかに眠っているのかもしれない。
自分は何をしているのだろう、と樹喜は思う。姉妹全員を、幸せにしたいと思った。決して不幸にするまいと思っていた。なのに、現実はそれとは違っていて。一人が、樹喜の元を離れていった。
――姉さんは…私達には絶対に弱みを見せないから。
不意に恵琉の言った言葉が、耳元にねじ込まれたように現れた。自分は園美に何を言ったのだったか。話を聞くと言ったのではなかったか。あの日、次の日にはまた話を聞くからと約束して彼女に睡眠を促した。自分はその約束を、守っていないのではないか。
「――樹喜?」
姉妹全員の幸せ。そこに園美が居ないなんて事が、あって良いのだろうか。彼女たちは、泣いていなかったか。長姉の不在に。
「…先に戻っていてくれ。ちょっと…見てくる」
「見てくるって…え、工場を?」
テツの言葉に頷く。
「園美様が、居るかもしれない」
「待て…でも」
「無茶はしない。見てくるだけだ。――お嬢様達を頼む」
テツは驚いたように樹喜を見つめ、それから息を吐いた。
「…念のため、持ってけ」
手のひらに三本の注射器がのせられる。樹喜は頷いて、それを上着の内側に押し込んだ。
「…太陽が出てない。少しは動くと思うけど…あんまりAGDはアテに出来ないぞ」
分かってる、と樹喜は頷いた。細い雨が、降り始めていた。




