駆け出す
目が覚めると、既に朝食が終えられた後だった。舞花はまだ起きてこないようで、園美が洗濯をしているところだった。テツと恵琉は何か紙製の地図のようなものを囲んでいた。
「――すみません、おはよう御座います」
「おはよう、樹喜」
にこりと笑って、園美が皆の衣類を洗濯機に入れる。――後は放っておけば洗浄・乾燥後、きちんと畳まれて設定した箪笥へとしまわれる。石楠花家では晃一郎の命により全て手作業で行われていたが、流石にこの宇宙船には最新設備の物が整っている。
「舞花様と絢乃様は…」
「舞ちゃんはまだ寝てるわ。流石に疲れたみたい。絢ちゃんは…またちょっと体調が悪いみたいなの」
そうですか、と樹喜は答えた。昨晩も何かぼうっとしていた。元々身体の弱い子である。急激な環境の変化に着いていけなかったのであろう。
「――食堂にご飯があるわ。食べてね」
園美の言葉に頭を下げ、食堂へと向かった。机の端に、缶詰と真空小麦餅が置いてあった。
失礼します、と既に席に着いているテツと恵琉に声を掛けると、食事を手に取る。
「――出来たのね、AGD」
「はい」
そう、と恵琉は笑んだ。
「室内だとちょっと動きが悪いみたい。外はまだ雨が降ってるの。晴れたらちょっと外に出てみましょう」
「畏まりました」
樹喜は答えて、小麦餅を食べる。不意に、その餅のつるりとした表面を見て、舞花の頬を思い出した。彼女の幸せ。それは。
(――自分は、ただの莫迦だ)
ぐるぐるとくだらないことばかりを考えて。ただ彼女の望みは、自分に会うことだけだったというのだ。もっと早く聞いてみれば良かった。そして、もっと、出来れば会う機会を増やせば良かった。
(…いや、今からでも…)
遅くない、と思った時だった。不意に、ギュロロロ、という音がした。音の主は、アオイだった。
「――何?」
「レムズだ」
その言葉と殆ど同時に、テツが走り出す。
「中に居ろ!」
つられて立ち上がった恵琉に怒鳴ると、テツはそのまま外へと飛び出していった。園美が真っ青な顔で、その扉を見つめる。扉は音もなく、静かに閉じる。
樹喜はそのまま、その扉へと向かった。
「樹喜!」
「お嬢様達は中へ」
そう言うと、そのまま外へと飛び出した。小雨の中、こちらへ向かってくるレムズが見えた。二体。ぞくり、と背筋が震えた。雨を浴びたのは、生まれて初めてだった。柔らかい感覚がした。雨というのはもっと、強くて突き刺すようで、凍みる物だと思っていた。
「――何で来た」
テツはレムズから目を離さぬまま問う。
「…足手まといには、ならないようにする」
答えると、テツは鼻で笑った。
「――昨日渡した塩は?」
「持ってる」
よし、とテツは頷いた。
「俺は右だ。――左、行けるか」
「行く」
ぞわ、と皮膚の上に何かが巻き付く感覚がした。雨のせいなのかは分からない。
「――十五秒耐えろ。右が終わったら加勢する」
その言葉を最後に、テツは駆けだした。地鳴りのような足音が響く。樹喜はじっと、左の方のレムズを見つめた。大きな瞳。短い手。太い足。長い尾。柔らかな毛。そして、それは咆吼する。
樹喜は走り出す。地硝子を通さない、砂やひび割れた固い地面の感覚が、靴を通って足裏に響く。ごう、と風が耳を通りすぎた。細い雨の一滴一滴が、頬を流れていった。
レムズはこちらを敵だと認識したらしかった。やや速度を上げて、こちらに向かってくる。樹喜は雨で濡れたその生き物を走りながらじっと観察する。雨で毛が濡れて身体に張り付いている分、身体の形がよく分かった。短い手は恐らく、攻撃には使わない。尾で叩くか、足で蹴るか。しかし樹喜とレムズは今、丁度真正面から向かい合っていく形になる。尾や足を出すためには一旦止まって、角度を変えなければ出来ないであろう。
(――だとすれば、顔)
レムズが頭を下げた。樹喜は右手の注射器を握りしめた。この細い針が、入るところ。確かテツは以前飛び上がって、眉間のあたりを狙っていた。毛が無く、そして薄い皮で覆われていそうな所。自分に、高い跳躍は出来ない。テツのように軽い身のこなしも出来ない。そこまで上がるのは厳しいだろう。真正面から見ると、殆ど顔だけがこちらに向かってくるように見えた。顔の奥に少しだけ尾が見える。
ぎゃおおおう、とレムズは鳴いた。大きな口がぱかりと開く。後、数メイトルと言うところだった。樹喜はそのまま、注射器をレムズの口へと向けて飛ばした。そしてそのまま、左の方向へ身体を思いっきり飛ばす。レムズは不意に視界から飛んだ樹喜を見ようと、首を曲げた。それと同時に、舌が捻れるように動く。その、直後だった。酷く情けない叫び声が、響いた。ぎゃおう、うぐうううん、とレムズは叫ぶ。そして、そのままぐにゃり、と身体を歪ませた。樹喜はただ、地面に頬をぴたりと付けながら、それを見る。レムズはそのまま小さくなって、そして小さな塊になった。
「――やった…」
「…まじか…」
樹喜の言葉と同時に、テツが呟いたのが聞こえた。
「…大丈夫か」
「うん…」
ようやく上半身を起こすと、塊の十メイトルほど奥に、もう一つ何かの塊があるのが見えた。右の側のレムズだったものだった。
「…お前…どうして…」
「――ある程度の攻撃の流れなら分かるんだ」
「なんか格闘技やってたとか?」
樹喜は笑って首を横に振った。鞭の角度。罵声をあげるときの首すじの方向。蹴飛ばすときの仕草。――全て、身に染みている。
凄ぇじゃん、と言ってテツが手を差し出す。起こそうとしているのだと思った。一瞬、その手が何処か優しく温かく見えて――けれどそれは一瞬で。樹喜は首を横に振ると、自らの力で起き上がった。
いつの間にか雨は止んでいた。分厚い雲が、少しずつ千切れていく。
「――…後、その塩は何本あるんだ?」
「とりあえず十本かな」
十本、と樹喜は口内で繰り返した。この先、何体のレムズが来るのか。やや不安に思ったときだった。
「…っと」
テツが呟く。樹喜も、目を見開いた。一体のレムズが瓦礫の隙間からこちらを見ているのに気づいた。
「…塩は」
「ある。――やるぞ。お前も一つ持て」
しかし、テツが構えた瞬間だった。レムズが踵を返した。
「…逃げたのか?」
「いや、違う。長に知らせに行ったんだろう。――こちらの情報が漏れるのはまずい。…追うぞ」
テツが走り出す。樹喜はやや躊躇いながら、その後を続いた。レムズは慌てた様子で走っている。先程のものに比べるとやや小柄なそれは怯えているようにも見える。今、自分は何をしているのだと樹喜は思った。確かにこのままレムズが長の元へ戻り、状況を報告すると樹喜達の危険性は増す。けれど、と思う。
――レムズだって、生きているわ。
園美の言葉が耳にこびりついている。確かにこちらに向かってくるものは倒さなくてはならないだろう。けれど。逃げ惑うレムズ。それを捕らえて、殺す。それは――。
不意に、走っていたレムズが急停止した。
「…?」
テツと樹喜も一旦止まる。レムズがゆっくりとこちらを見る。何だ、と樹喜は皮膚が粟立つのを感じた。逃げ切れないと悟って、戦うことにしたのか。いや――。
「…やっべえ…」
テツが呟き、樹喜もごくりと唾を飲んだ。立ち止まったレムズ。その後ろから三体。身長五メイトルほどの大きなレムズが現れた。
四体のレムズがこちらを見ている。樹喜は下唇を噛んだ。やはり殺さなくてはならなかったのだ。躊躇わずに。もしかしたら、あの時悩まずに注射器を投げていれば。本気で殺そうとしていれば。――けれど、もう遅い。
「…俺が囮になる」
ぼそりとテツが呟く。
「莫迦な――」
「付けられないように用心してから…船に戻れ」
あの擬態の船ならたぶん気づかれないと彼は言う。
「――駄目だ」
「駄目じゃない。お前には待ってる人たちがいるだろ」
でも、と言いかけた樹喜にテツは口の端だけで笑いかけた。
「お嬢様たちを不幸にするのは許せないんだろ。幸せにするんだろ」
――…それが私の幸せだと、思う。
舞花の言葉と笑顔が過ぎる。けれども。
「駄目だ」
樹喜はそう言うと、注射器を握った。
「――もう一本、塩をくれ」
その、言葉とほぼ同時だった。
千切れた雲の隙間から、少しだけ光が差す。――太陽が。
キイン、と何か鋭い耳障りな音が聞こえた。
音の出所は、AGDだった。レムズから目を離さぬままそれだけを理解する。
レムズはゆっくりとこちらに歩みを進め出す。その速度が、恐怖心を煽る。先程、敵意むき出しで突進してきたときとは異なる。じっと樹喜は、レムズを見つめる。暗い瞳。広がる口から覗く牙と涎。
不意に、左手首に何かが這うような感覚がした。ぞろり、とした感覚。さすがに視線をそちらに向けざるを得なかった。ちらり、と目の端でAGDを捕らえる。
「…!」
AGDについた太陽光発電がキラキラと光り出した。そしてその光は、AGDの被せものにまるで巻き付くように広がっていく。そして、その被せもの――ノコギリエイの、瞳が光った。
そして。
「――…おい、何だそれ…」
テツの呟きが、小さく聞こえた。樹喜も、ぽかんと口を開ける。
まるで折りたたまれていた紙を、開いていくようだった。小さな塊の表面が次々と開いていき、そして体積を増していく。
「…これは…」
それは、紛れもなく樹喜の手首に着いていたノコギリエイだった。けれど大きさが違う。せいぜい広げても手のひらほどの大きさにしかならなかったであろうそれは、大凡一・五メイトルほどに広がっている。赤から青へ向かう美しい身体。ひれが数個付いている。顔の中央から鋭く伸びた吻にはノコギリ状になっている。真っ黒の瞳はつやつやと輝いて美しい。
「…なん…だ、これ…」
樹喜の呟きに、ゆっくりとその生き物は顔を樹喜に向けた。
『――我は石仕樹喜の守り神である』
不意に響いた声に、樹喜はただただその生き物を見返す。
『敵は排除する』
ぐん、とノコギリエイはレムズの方へ顔を向ける。レムズ達は棒立ちのまま、突如現れた生き物を見ている。
『武器はあるか』
武器、と聞かれて樹喜は手元の注射器を見つめた。それを差し出すと、ノコギリエイは器用に細い尾で受け取った。
『――命令を下せ』
ノコギリエイの言葉に、樹喜は唾を飲み込む。
『敵を我に知らせろ』
浅く深呼吸をした。何一つ理解は出来ていない。AGDのカバーにいた守り神。言葉を話す。その、生物。けれど。
「――…あそこの、四体だ」
指を指す。それと同時に、ノコギリエイは空中を泳ぐように進んでいく。そして、触覚を右へ左へとゆらゆらと揺らす。
ぎゃおおう、とレムズが鳴いた。我に返ったかのように四体が、ノコギリエイへと向かっていく。危ない、と樹喜は口を開く。四体は同時にノコギリエイへと飛びかかる。それと同時だった。鼻先のノコギリが、レムズの一体を叩いた。そして、倒れ込んだそのレムズに、尾を使って注射器を差し込んだ。使い方も熟知しているようで、きちんと押下させる。そして、そのレムズが、溶けた。同時に、ノコギリエイの背を攻撃しようとした一体のレムズがたたき落とされる。残された二体のレムズはきょろきょろと辺りを見回している。が。それも一瞬のことで、ノコギリエイに次々と倒されていく。慌ててテツが、持っていた注射器をそれらに差し込み、そうして残りのレムズもそのまま溶けて果てた。
樹喜はただ、目の前の光景を見ていた。――見ていたけれど、何も脳内には流れ込んでは来なかった。ただただ、ぼうっと動くものを見ていただけだ。
「…何だこれ…」
溶けたレムズの中央で座り込んだテツの呟きで、ようやく樹喜も息を吐いた。脳が動き始める。
そうして改めて、まじまじとノコギリエイを見つめた。図鑑でしか見たことのない、絶滅した生き物。確か海の中で生きていたと記述があった気がするが、それは空中を揺れていた。
「――君が僕の守護神?」
『そうだ』
「君は…生き物なのか?ずっと…AGDの中に生きていたのか?」
ノコギリエイは首を横に振る。
『我は生きては居ない。我に命はない』
「君は何?」
『我は守り神だ。――石仕樹喜を守るだけの存在だ』
「守り神…」
『初動か。説明が必要だな』
ノコギリエイは呟き、そうして尾を軽く巻いた。
『我は守り神と呼ばれるものだ。AGDの中に存在する。AGDには一体の生き物のDNAが記録されている。緊急時に人間を守るための機能だ』
「…緊急時…でもそんなこと――」
『今の日本国には、月油が飛散されている。それは、AGDのこの防御機能を抑制させる成分が含まれている』
「…どうして」
『理由は分からない。しかし、我は必ず石仕樹喜を守る』
「――待ってくれ。AGDにその機能が付いている、というのは…ええと、全員に対してなのか?お嬢様達にも?」
樹喜の問いに、ノコギリエイは頷いた。
『全てのAGDにはその機能が備わっている。――他に問いは』
「いや…ええと…」
『無いのであれば、一旦また戻る』
ええと、と樹喜は慌てる。まだ何一つ理解は出来ていなくて。けれど。
「…名前は、あるのか?」
問うとノコギリエイは不思議そうに身体を傾けた。
『我のか?――種名をノコギリエイ、と言うが…』
「じゃあそう呼べばいい?」
ノコギリエイは、揺れたまま、目を閉じた。
『面白い生き物だな。人間というのは。――好きに呼べばよい』
好きに、と樹喜は繰り返す。名を付けろと言っているのだろうか。
「…ええと」
『――次に会うときまでに、考えておいてくれ』
それだけを言うと、ノコギリエイは身体を揺すった。今度は何か折りたたむように、ぐにゃりと身体が小さくなっていく。そうして、AGDへとまた戻った。
「…何だ…こりゃ…」
テツの呟きに、樹喜も頷く。
「…ちっとも分からない」
「AGDってそう言う機能があるのか?」
「――分からない。聞いたこともない」
樹喜はそう言って、自分のAGDを撫でた。固い金属のノコギリエイはもう動きも喋りもしなかった。
また、空には雲が集まってきた。そうして、さらさらとした雨が落ちてくる。




