戦いの前に(4)
船に戻ると、舞花がにこにこと笑って、絢乃や恵琉と喋っていた。
「あ、樹喜!姉様!出来たのよ!舞ちゃんが!」
絢乃の声に、園美はにっこりと笑う。その目尻には、水の欠片は見あたらない。
「流石ね、舞ちゃん。へえ…こんなに小さいの」
樹喜ものぞき込む。舞花の腕のタツ・ノ・オトシゴの背に、小さな長方形がくっついていた。
「ここに光が当たると、動くのよ」
ほら、と舞花が部屋の明かりの下に出す。すると、タツ・ノ・オトシゴがきゅう、と声を上げた。――起動音だ。舞花が少し操作をすると、AGDは歌を奏でだした。
「すごーい! 舞ちゃん! アヤのも!アヤのもやって!」
「分かってる分かってる」
舞花はにこにことしながら、絢乃の腕のAGDの被せものを外した。恵琉と園美はその様子を満足そうに笑んで見つめている。――少し、離れたまま。
テツは少し伸びをした後、樹喜の方へと来る。
「…レムズは来てたか?」
いや、と樹喜は首を横に振った。
「見えなかった。――…そうだ、この目の前に工場があるだろう。あそこの煙は何だ?誰かが住んでいるのか?」
「…いや。元々あそこを砦にしてたんだ」
「――じゃあ、あの煙は…」
「レムズの襲撃を受けて、色んな薬品やら何やらが爆発した。それがまだ燻ってるんだろ。…まあ、この雨できっと消えるよ」
テツは樹喜の濡れた肩を見ながら言う。降ってたんだろ、と言われ樹喜は小さく頷いた。
「うん、消えるさ」
テツはもう一度、何か自分に言い聞かせるように呟くとゆっくりと天井を見た。船には窓がない。彼は、それを見たいのだろうかと樹喜はそう思った。消える様を見たいのか。
樹喜がぼんやりとテツを見つめていると、舞花が、テツくん、と彼の名を呼んだ。
「テツくん、えっと、さっきのえっと、ペンチを貸してくれる?」
「あぁ」
テツは短く返事をすると、舞花の方へと向かった。樹喜はその後ろ姿を見送って、息を吐いた。行く場所もなく、とりあえず長椅子へ腰を下ろす。ぼんやりとそこで、机を囲む五人を見た。真剣な眼差しで絢乃のAGDを触る舞花。それをきらきらとした瞳で見つめる絢乃。微笑む園美。時々解説をしているテツ。それを横で見ながら珈琲を飲む恵琉。樹喜はただそれを見て、そうして息を吐いた。何も出来ない自分がもどかしくて、何処かやるせなかった。
それから舞花は、夜の九時を回るまでに園美と恵琉のAGDも太陽光発電に切り替えた。ようやく恵琉の被せものをまたはめ込むと、深く息を吐く。
「お疲れ、舞花。ありがとうね」
恵琉の言葉に、舞花は頷く。園美と絢乃はもう寝所に入っている。
「よし、寝るか」
テツの言葉に、舞花は首を横に振った。
「――樹喜のも、やります」
樹喜は目を見開く。やや充血した舞花の目は真剣だが、それでも身体全体に滲む疲労は隠せない。
「いえ、私のは必要ありません。あの…林檎石も持っていないことですし…」
「ううん…でも、やっぱり連絡を取れた方が良いし」
ですが、と樹喜は言いかける。けれども、舞花は首を静かに振った。
「――私がやりたいの。お願い」
「やらせてやりなさいよ、樹喜」
「…恵琉様」
「その代わり、私とテツは先に休むわね。明日の朝、寝坊して良いから」
行きましょ、と恵琉はテツに言って食堂を離れた。テツは何かを察したのか、少し笑って恵琉の後を追う。
舞花はふと我に返ったように、目をきょろきょろと泳がせた。
「――…ご、ごめんね…あの、我が儘言って…」
「いえ…有り難いです。ただ、あの…お疲れではないかと思いまして」
「う、ううん。大丈夫」
では、と樹喜は腕を出す。舞花はこくんと頷いた後に、樹喜のカバーを外した。それから幾つかの蓋を開けていく。そして、ある基盤を見て、首を傾げた。
「――なんだろう。この、赤いの…」
「え?」
舞花の指さす先には、極小さな赤い球体があった。基盤の隙間を縫うようにおかれたそれは、毛穴程の大きさだ。灰色の線(こちらは髪の毛ほどの細さ)が縫うように敷き詰められたそこにある赤は、酷く目立つ。
樹喜は眉根を寄せた。何かの機能追加の跡だろうか、と思ってからそれは違うと思い直す。基盤の蓋を開けることは法律で禁止されている。機能追加は可能だが、その基盤に触れるような仕組みは作ってはいけないことになっている。
「――…あんまり、触らない方がいいのかな…」
舞花は毛抜きのようなもの(ピンセットというらしい)で周りの配線を確認しながら、その赤を見つめる。
「…えと…これが一番で…二番、九番」
ブツブツと呟きだした舞花を丁度見下ろすような形になりながら、樹喜は彼女をじっと見つめた。厚い前髪の隙間から、短い睫毛が見える。その下の黒い瞳。膨らんだ頬は言葉が漏れるときに一緒に揺れる。その間の唇は少し尖ったような形になっている。樹喜は舞花に悟られないように、静かに息を吐いた。彼女の吐息が、指先に届く度に、ただただ肋骨がきしむような痛みを感じる。
――あの子を幸せに出来るのは、あなただけよ――
それは、何度反芻しただろうかも分からぬ恵琉の言葉。彼女の幸せとは何だろう。彼女を幸せにしたい。それはきっと間違いようのない本心で。けれど、それは酷く曖昧で。
――彼女に聞いてみればいかがですか――
この言葉は誰に貰ったのだっただろう。――あぁそうだ。タカギ医師だ。そう思って樹喜は息を吐く。そうなのだ。単純な話なのだ。今、舞花に聞いてみればよい。あなたの幸せは何ですかと。けれども。もしも彼女が自分と触れる事を望んだらどうしたらいいのだ。自分に何か差し出せるものなど何も無い。空の贈り物を渡すわけにはいかないのだ。
だったら。ちらり、と長椅子の方角へ目をやる。暗がりでよく見えないが、テツがそこには寝ているはずだ。彼は、舞花を幸せにしてあげられるだろうか。彼はとても真っ直ぐで、そして樹喜よりも心身共に間違いなく強い。彼がもしも信頼出来る男であれば、舞花に――。そこまで考えたときに、何処かが疼くような気がした。肋骨の痛みではない。もっと奥の。何処か内蔵の。何処かが酷く熱くなった。――テツが舞花に触れると、考えただけで。
「…き、樹喜」
「――は」
いつの間にか、目の前には心配そうな舞花の顔があった。
「ご、ごめんね…あの、もう遅いし…疲れちゃったよね…?」
「え――いえ、すみません、少しぼうっと…」
「あの…牛乳珈琲を入れたんだけれど…」
いつの間にか机には、珈琲が置かれていた。
「え――あ、申し訳御座いません…気づかず…」
ううん、と舞花は首を横に振った。
「私こそごめんね」
いえ、そんな、と樹喜はぶんぶんと首を横に振る。そして、AGDに目を落とした。
「あともう少しなの。…ごめんね、ちょっとだけ待ってて…」
「いえ、失礼をして申し訳御座いません。どうか謝らないで下さい。あの、私は構いませんのでゆっくりと――」
「うん…じゃ、すこし休憩…」
舞花はそう言うと、器を両手で抱えた。
「――お疲れではないですか」
「うん…疲れては…いる、かな」
でもね、と少女は笑った。
「あの…少し、嬉しい。私も…少し、役に立てたから…」
「少しなんて――とんでも御座いません。舞花様が居なければ今頃AGDも動かず、大変なことになっていたかと思います」
樹喜の言葉に、舞花は笑んだ。その顔を見ていると、微かに身体が震えた。胸の熱と痛みが同時に押し寄せる。
船内で起きているのは、二人だけ。自分の身体にはめ込まれているのは、明日、死ぬかもしれない命。
不意に、彼女に問おうと思ったのは何故だろう。
空つぽの贈り物ならまだましかもしれない。自分が彼女に渡そうとしているのは、爆弾の入った贈り物ではないだろうか。或いは枷か。
けれども。
「――…舞花様。私は――」
息を吐いてから、言葉を続ける。
「初めて会った時から、あなたを幸せにしたいと願っていました」
舞花は器を持ったまま、きょとんと樹喜を見つめる。
「あなたの幸せは、何ですか?――私に出来ることは…何か、ありますか?」
ややもったりとした沈黙が、そこに満ちた。それが器から昇る蒸気だと気づいたのは少し後で。舞花は、ぽかんとぼんやりと燻った空気を眺める。
「私の幸せ…」
呟いてから、やや沈黙する。それから言葉を選ぶように、話し始めた。
「あの…ね、こないだ…私…帝星に、行きたくなかったって…その…言ったでしょう?」
「――はい」
「でもね…一晩考えて、そして大丈夫だと思った。百年たったら…戻ってこれるって。そう思えたから。その時…私は、百十四歳のおばあちゃんだけど…もう一回、樹喜に…会えると思って…そしたら、そしたらね…えっとね、百十七歳のおじいちゃんの樹喜と…もう一回会えると思ったの」
そう言って、少女は笑った。
「そしたら…百年間、幸せに暮らせると…そう、思ったの。でも…そう思った次の日に…樹喜に会えて…嬉し、かった。…あの、あの、ね。樹喜に会えたら、私はそれでいいの。して欲しいことは何も無いの。それは…前から、ずっと、同じで…」
彼女は俯く。頬が赤い。
「ばかみたいに…庭で、待ち伏せ、したり…。食堂で…ご飯、食べたり。…会えれば、それでよかった…。例え…恵琉姉様の側仕えになっても…誰かと、結婚しちゃっても…私のこと好きじゃなくても、百年間離ればなれでも…会えれば、それで…」
ぽとり、と彼女の瞳から水滴が落ちた。それは、牛乳珈琲の染みの上に、落ちる。
「…それが、私の、幸せ…だと、思う」
彼女の名を呼ぼうとした舌は、縺れて上手く動かなかった。
「…うまく、言えたかな…」
そう呟いた彼女は、誰よりも誰よりも美しくて。ただ、ただ。えへへ、と舞花は笑った。けれどその笑みの奥の瞳はやや陰りが見えて。
「――…それだけで、良いから」
だから、と彼女は言った。その先の台詞は彼女の心の中だけで弾けてしまったようだった。それから彼女は涙を拭いて、机に置いた工具を手に取った。
「後もう少し…頑張るね」
樹喜はゆっくりと左手を出して、それから舞花の方へと伸ばした。触れたいと、ただ思った。けれどそれ以上、その手は動かなくて。舞花は慎重な手つきで、樹喜のAGDに触れる。その手が、機械ではなく皮膚に触れたとき、自分は発狂をするだろうかと樹喜はぼんやりと思った。そして、胸の熱と痛みがいつの間にか消えているのに気づいた。代わりに何かが、絡みついているような気がした。解けそうもないそれは、贈り物の箱に巻き付いていた飾り紐のような気がした。




