戦いの前に(3)
翌朝は、ただ静かだった。
「レムズは、何処かへ行ったの?」
絢乃の問いに、舞花とAGDの基盤を見つめていたテツは首を横に振った。
「昨日来たのは偵察兵みたいなもんだ。あいつらがぼちぼちと来た後は…たぶん、一週間以内に長を含む群れが来る」
群れ、と言う言葉に舞花がちらりと顔を上げてテツを見る。恵琉は長椅子でずっと何かを考え込んでいる。
「まあ、何百何千てこたあないから。前に来たときは十二、三てとこだ。レムズは子孫を残すとそこで死ぬ。長は死なないけどな。だから数は大して多くはないんだ。一回に子供は一人しか生まれないし。世界中で何度も殺してるから。大きくなるにつれてだいぶ減ってる。とはいえ、どう進化してくかが分からん。元々レムズの長が子供を産む、という仕組みでは無かったしな。とりあえずは長を殺す。これが第一目標だ」
「…アヤ、怖い」
「大丈夫。ちゃんと私達が守るから、ね」
舞花の言葉に絢乃は小さく頷く。ふと樹喜は顔を上げた。園美の姿が見えない。
「――あの、園美様は…」
「…あれ…そう言えば…」
樹喜は、寝室や浴室を見に行く。それでも彼女の姿は無かった。
「…ちょっと、外を見てきます」
「え、でも――」
「駄目だよ樹喜!やられちゃうよう!」
「大丈夫です。もしもレムズが来たら、ちゃんと逃げますので」
でも、とまだ言いかける舞花を制して、テツは樹喜に小さな何かを渡した。恵琉の作っていた注射器だった。
「――ええと」
「一応、近づくとアオイが教えてくれるんだけどな。もし間に合わなかったら…こうやって針を刺して…それから、この上を押す。すると中に入ってる塩水がレムズに注入されて…それで、恐らくあいつらは死ぬ。まあ、なんかあったら大声出せばすぐ行くから」
分かった、と樹喜はそれを受け取る。不安げな舞花と絢乃の視線を後ろに感じながら、入り口へと向かった。
入り口を開けると、やや湿った風が流れてきた。昨日も見た荒廃した世界が、そこには広がっている。
園美の姿は、すぐに見つかった。彼女は低い瓦礫の上でじっと座り込んでいる。
「園美様」
声を掛けると、彼女はこちらを見て、それから少し笑った。
「危ないわよ。中に居たら?」
「園美様が戻られるのであれば、戻ります」
「もしも私が戻らなかったら?」
「――戻りません」
「…じゃあ、戻らないで」
小さく園美は呟き、それから視線を移した。彼女の瞳の方向には煙を燻らせた工場が見えた。
「ねえ、あの工場は、まだ動いているのかしら」
「え?」
「人がいないのに煙が出るなんてこと、あるかしら」
「…どうでしょう。テツに聞いてみれば何か分かるかもしれませんが」
そうね、と園美は静かに答える。
「ねえ樹喜」
はい、と答えると園美は何か困ったような顔で樹喜を見た。
「あなたは、レムズを殺すべきだと思うの?」
「は――…え?」
「緑の人…だったかしら。その人は、この翠球が蒼球を追えないからレムズを殺せと言う。でも、もう既に追えないのよ。レムズの侵入を許してしまったのだもの。このままレムズを絶滅させて…それで一体何が残るの?僅かに生き残った人間達で――どう追えと言うの?」
「それは――…」
「レムズだって、生きているわ」
それは小さな呟きで。樹喜は園美の横顔をぽかんと眺めた。
「私達はここに来てしまった。めぐちゃんが言うように、それはもう変えられない過去のこと。だからこの先どうにかして生きるために画策をしている。…けれど、レムズだってそうじゃない。どういう理由なのかは知らないけれど彼らはここに辿り着いた。」
はい、と樹喜は相づちを打つ。園美は哀しげに言葉を続けた。
「私には分からないの。レムズを殺さなくてはいけない理由が。死にたいわけではないけれど…どうにか出来ないのかしら。ねえ。もしかしたら共存する道が――」
「あるわけないでしょう」
不意に後ろから声が聞こえて、樹喜と園美は振り返る。
「共存って何をする気なの?檻に閉じ込めて餌をやること?壁を作って不可侵の取り決めをすること?」
「めぐちゃん…」
ゆっくりと恵琉は、階段を降りる。
「強い者だけが生き残り、弱い者は殺される。それが世界の成り立ちでしょう。死にたくなければ戦うしかない」
「でも!」
「姉さんの言うことも分かるわ。どっちにしろこの星はもう蒼球を追えない。そして、人類は恐らく繁栄できない。レムズが支配する星。たぶんそれが正しい形。そっちのほうがもっと美しい星になるかもしれないしね」
でもね、と恵琉は言う。
「私は死にたくない。――そして、あの船に乗っている人が一人でもいなくなるのは嫌だと思うわ。出来ることならここを脱出したいけれど、それが出来ないのであれば…戦うしかない。戦いの後に、何も残っていなくても。もう二度と蒼球を追えなくても」
「…めぐちゃんは、自分が生き残るためだったら…何かを犠牲にして良いと思うの?」
恵琉は口元だけで笑う。
「当たり前でしょう。それが命を持った生き物の義務よ」
ざあ、と風が吹く。何処か湿った空気が肌に纏わり付く。
「――口にする肉だって魚だって、身に纏う皮だって毛だって糸だって、元々は生き物から奪い取っているのよ」
「それは…」
「それを言えば木々だって生きているわよね。家具だって壁だって、死骸で出来ているようなものよ」
園美は嫌々をするように頭を振った。やめて、と小さく呟く。
恵琉は息を吐いた。
「私は、姉さんにも死んで欲しくないわ」
そのまま、静かな沈黙が漂う。恵琉はぼんやりと空を見上げた。天硝子を通さない、空。宇宙と何の隔たりもなく繋がる空。
「…雨が降りそう」
小さく恵琉は呟く。
「たぶん、こちらの雨は…綺麗なのよね。浴びたい気もするけど、濡れたら風邪を引いてしまうわね」
そう言って彼女は入り口へ戻る。樹喜は躊躇ってから、園美の横に行った。園美の目には涙がたっぷりと溜まっている。不思議だ、と樹喜はそれを見て思う。もう溢れそうなのに、その瞳に何かの吸引力があるかのように涙はこぼれ落ちない。表面を覆って、崩れないように震えているだけで。それから樹喜は空を見た。灰色の雲。雨をたっぷりと含んでいて、そしてまだ飽和していない雲。まるで園美の瞳のようだと思った。少し揺れれば、降り出しそうな空。
「――戻りましょう」
樹喜の言葉に、園美は小さく頷いた。そうしてようやく、雨がこぼれ落ちた。




