プロローグ 彼女とのお話
プロローグ 彼女とのお話
少女が無邪気に笑った。
僕もつられて笑う。上手く笑えず引きつった顔で。
そんな僕に彼女は手を伸ばす。顔に手を添える。
「ほら、リラックス! 笑顔になれば嫌な事なんて無くなるよ」
年なんて違わない。
背丈も変わらない。
だけど、圧倒的に彼女の方が大人に――より、人間らしく見えた。
そんな彼女が僕は羨ましくて、妬ましくて。守りたくて、守られたくて。
顔に添えられている彼女の指が僕の頬をつまむ。強引に広げるように引っ張られた。
「あははっ、ヘラヘラした笑顔だね」
「そうさせたのは君じゃないか」
「ごめんごめん。でも、いい顔だよ」
彼女の笑顔が輝きを増す。
何時までも見ていたい笑顔だった。
「君が笑えたから、わたしのやり残したことは無くなったね!」
何時までも、と願う時は必ずそうはなったりしない。
「……本当に行っちゃうの?」
彼女が手を離した途端、僕の顔は悲壮感に溢れる。
「うん。でも、いつかまた会えるよ。絶対にね」
だから泣かないで。約束するから、そう言い残し僕の手を取り、指切りをして彼女は僕の目の前から姿を消した。
少女の右目――琥珀色の瞳から一粒涙が落ちる。
その時の表情はどこか寂しそうな笑顔だった。
そして、彼女が僕に見せた最後の笑顔でもあった。
昼間だというのに日が入りきっておらず、薄暗くてじめじめとした路地裏に僕はいた。
「オイ、兄ちゃん。人に飲み物ぶっかけといてタダで済むと思ってんのか? ああ?」
目の前には巌のような屈強な男が道を塞いでいる。男のびしっと決めたスーツに染みがついていた。――僕が先ほどつけてしまった染みだ。
「…………」
平生の表情で、何も返さない。
すると、彼の取り巻きが声を一斉に荒げる。
「なにへらへら笑っとんじゃ!」
「テメェ……生きて帰れると思ってんのかァ?」
「アニキ、やってしまいましょうよ。ちょうど大きなカバンだってあるんですし」
取り巻きの一人が大きなカバンとやらを開け、中身を外に出す。
出てきたのは大量の札束だった。
「(識別番号BZ857740D、QB695214C……ビンゴか)」
「そうだな……。ちと、後処理が面倒にはなるがこっちにもメンツってものがあるしなぁ。兄ちゃん、悪く思わないでくれよ? 兄ちゃんがこんなところに来るからイケナイんだぜ?」
一歩、僕に近づいてくる。それだけで彼の威圧感は何倍にも増した。
「……へぇ、こんな状況になっても気持ちの悪い薄ら笑いは消えないんだなぁ。感心する、よッ!」
男を見上げていた僕の頬に容赦のない拳が降ってきた。衝撃で僕は後ろの壁に体をぶつける。血の味がする。口の中が切れたのだ。
「ただ殺すだけじゃぁ、つまらんしな。遊ばせて貰うぜ、兄ちゃん。――おい、見張ってろよ!」
痛みで起き上がれない僕を嫌らしい笑みを浮かべながら部下に指示を出す。
だが、指示に対する返答はなかった。
「返事はどうしたァ!?」
男が僕から視線を外し、周りの部下を見る。
だが、周りには部下がいなかった。
代わりに、黒装束の口元を隠した少女がいた。
男が口を開く。言葉は出ない。男の顔が少女によって鷲掴みにされる。
「じゃあね。ばいばい」
口元が隠され、くぐもってはいるが、綺麗な声で少女が告げると、男の世界が廻った。
線の細い彼女が男を文字通り廻し、地面に打ち付ける。
断末魔が聞こえる。
僕は耳を塞ぐ。うるさいからだ。
「……終わったよ。早く確認して」
少女がフラットな表情を変えず睨んでくる。
彼女の足元には先ほどまで威勢の良かった部下と男が全員寝ている。それだけで彼女の規格外さというのが分かっていただけただろう。
組織では、心無。
本名は、心視無垢。
全身黒尽くめの服装。華奢で細い身体。薄い胸。腰まである艶々しい綺麗な黒髪。きれいなお顔だが口元を隠し、表に出ているのは、琥珀色の右目と、漆黒に染まっている左目のみ。
昔、離れ離れになり、再開した時には記憶が失れていた少女。
そして、現殺し屋。
「その前にさぁ、僕が殴られてから助けに来るってどうよ? 最初からいたくせに」
「私の今の任務は、わたりを死なせない様に守ること。わたりが傷つけられたって任務違反にはならない」
プラス、現僕のボディーガード様。
「それよりも早く。こんな気持ちの悪いところになんて居たくない。代行人は、素早く絶対がモットー、じゃなかった?」
「気に食わないなぁ~」
へらへら、と。
痛みが引いていない体に鞭を打って立ち上がり、札束とカバンを回収する。
僕――わたり、こと反町渉。
職業、代行人。いわゆる裏の何でも屋。
心無が所属する組織に飼われている、家畜。
「しっかし、金を持ち逃げされるだなんてヤクザってのにも馬鹿はいるんだねぇ」
僕はここ数時間、仲間の組織から持ち逃げされたというこの金を探していた。
狭苦しい路地裏に何度も入り、何度も偶然を装って飲み物を零し、何度も殴られてようやくアタリを引いた。
全額入っている事を確認すると、つい。服の裾が引っ張られる。
「わたり、暑い。助けたお礼、してくれてもいいんだよ?」
「はぁ?」
「私がいなかったら、わたりは死んでた。アイスぐらい奢って」
「やだね」
「ウン千万もお金あるじゃん」
「これは僕の金じゃねぇよ」
「関係無い」
奢れ、と鋭く睨んでくる彼女にいつも通りへらへらと笑うと右手を僕の頬に添えてきた。
十年前は、頬を引っ張る前兆だったが、今のは思いっきり叩く前兆だという事は学んでいる。
「……分かったよ。痛いのは御免だしね」
「それでいい」
表情を一つも変えず、彼女は僕に背を向け路地裏から表に出る道を歩いてゆく。僕もそれに続く。
表に出ると強い日差しが僕を襲う。
心無はと言うと、口元を覆っていた布を外し、身にまとっていた黒い服も脱ぎ捨てどこにでもいそうなカジュアルな女子に変貌していた。
「コンビニ、先行ってるから」
そう言って彼女は歩みを視界にあるコンビニへと向けた。
「はいはい、どーぞご勝手に」
彼女の背中を眺めながら、いつになれば感情は戻ってくれるのかと悲観気に天を仰ぐ。
――あぁ、そういや彼女と再会した日もこんな風景見たっけな――