8.教師
【玉木隼人の視点:崩壊】
横浜の街は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変わった。
逃げ惑う人々、燃え上がる車両。そして、理性を失い咆哮を上げる「元・人間」たち。
「……あ、あ、ああ……っ!」
僕の目の前で、ひよりが地面に膝をつき、激しく咳き込んでいた。
彼女の白い首筋に、どす黒い血管が浮き上がり、脈動している。
「ひより! しっかりしろ、ひより!」
「……逃げて、玉木……くん……。私、なんか……変なの……頭の中が、割れそう……」
彼女の指先が鋭く伸び、爪が黒く変色していく。
覚醒病。……適合率の低い人間が辿る、避けられない終焉。
「……ダメだ、そんなの……! カード、動け! ひよりを治せよ!」
僕は叫びながらオリジンカードを掲げた。けれど、カードは冷たく沈黙している。
この力は「破壊」のためのものであって、「救済」のためのものではない。
「……グアァァァァッ!!」
ひよりの瞳から光が消え、濁った赤色に染まった。
彼女は獣のような咆哮を上げ、僕に向けてその鋭い爪を振り下ろした。
「――そこまでだ、玉木!」
鋭い声と共に、一人の男が僕とひよりの間に割り込んだ。
担任の織田先生だ。いつもはジャージ姿でやる気なさそうに教壇に立っている彼が、今は軍用ナイフのような鋭い眼光で、怪物化したひよりを睨みつけている。
「……先生!? 危ない、逃げて!」
「バカ野郎、逃げるのはお前らだ。……小瀬! 玉木を連れて裏門へ走れ!」
いつの間にか隣にいた栞さんが、震える手で僕の腕を掴んだ。
織田先生は、ひよりの攻撃を最低限の動きでかわすと、彼女の頸動脈に手刀を打ち込み、一時的に気絶させた。
「……ひよりを、殺さないで……!」
「……分かってる。だが、今のこいつは『浅倉ひより』じゃない。……来い、話を聞いてやる」
【織田先生の説教:英雄への問い】
避難所となった地下倉庫。
僕は、カードを握りしめたまま、ガタガタと震えていた。
ひよりを救えなかった無力感。龍馬に言われた「選別」の恐怖。すべてを、僕は堰を切ったように織田先生にぶちまけた。
「……10億人しか救えないんです。カードを使えば、僕はバケモノになる。……先生、僕はどうすればいいんですか! ひよりを見捨てて、僕だけ『選ばれた人間』として生きろって言うんですか!」
静寂が流れる。
織田先生は、ポケットから取り出した煙草を咥えたが、火はつけずに僕の前にしゃがみ込んだ。
「……玉木。お前、勘違いしてんぞ」
「え……?」
「『選ばれた』から英雄なんじゃない。……『誰かを救うと決めた』奴のことを、英雄って呼ぶんだ」
先生の手が、僕の頭を乱暴に撫でた。
「後藤龍馬の言う『効率』なんてのは、ただの算数だ。……だがな、教育者の俺から言わせれば、教え子が一人でも欠けたら、その時点で俺の仕事は落第なんだよ」
「……でも、僕には力が……」
「力があるから悩むんだろ。……いいか、玉木。カードがバケモノの道具だって言うなら、お前がそれを『人間の道具』に書き換えろ。……ひよりを救いたいんだろ? だったら、泣いてる暇があったら、そのカードに『救い方』を教え込んでやれ」
先生の言葉は、厳しく、けれど温かかった。
龍馬のような冷徹な論理ではなく、目の前の「命」を諦めない泥臭い人間の言葉だ。
「……先生。……僕、やってみます」
「おう。……小瀬も、お前が玉木を支えてやれ。一人で背負うには、こいつはまだガキすぎるからな」
織田先生は不敵に笑い、ようやく煙草に火をつけた。
その背中越しに、僕は栞さんを見た。
栞さんは、僕の知らない「未来」を知っているような、悲しくて、けれど強い瞳で僕を見つめ返していた。
(……織田先生。……未来の私が残した記録には、先生の名前はなかった)
きっと、前の世界では、先生はパンデミックの最初で死んでしまったんだ。
でも、この世界は違う。
玉木君が、初めて自分の意志で前を向いた。
『――警告。歴史の乖離率が上昇しています。……修正プログラムを起動しますか?』
未来の私からの無機質な通知。
私は、その画面を迷わず『拒否』にスワイプした。
「……修正なんて、させない。……私が、玉木君と一緒に、新しい未来を作るんだから」
私は、織田先生が守ってくれたこの小さな光を、絶対に消さないと心に誓った




