7.パンデミック
【未来の栞の視点:介入】
12月の冷たい雨が、横浜の夜を濡らしていた。
私は、Cicadaの極秘研究所の屋上に立っていた。制服の裾からは、絶えずノイズが走り、私の存在がこの世界から消えかかっていることを告げている。
「……時間がない。……彼が、動く前に」
私の視線の先。研究所の中庭で、一人の少年が、拘束された覚醒病患者を『プロトカード』で処理していた。
後藤孝太朗。……かつて、玉木を最も理解し、最期まで背中を守り続けた親友。
けれど、今の彼からは、あの優しい笑顔の欠片もない。ただの冷徹な『選別者』だ。
「……適合因子、回収完了。……フン、ゴミが」
孝太朗が、灰になった患者を蹴り飛ばす。
私は、屋上から跳躍した。重力を無視し、ノイズと共に彼の目の前へ着地する。
「……誰だ? 小瀬……栞?」
孝太朗が、信じられないものを見る目で私を見た。
無理もない。彼が知っている『小瀬栞』は、教室で震えている内気な少女だ。ボロボロの制服を着て、殺気を放っている私ではない。
「……あなたは、やりすぎたわ。……孝太朗」
「……へぇ。お前、やっぱり『あっち側』の人間か。……現在の栞ちゃんは、可愛いフリして、中身は死神ってか?」
孝太朗が、プロトカードを掲げる。
彼の腕が異形の黒い刃に変化し、アビスのオーラが周囲の雨を蒸発させた。
「……未来のデータ、回収させてもらうぜ!」
【玉木隼人の視点:日常の崩壊】
その時、僕はひよりと、栞さんと一緒に、学校からの帰り道にいた。
昨日の孝太朗の変わりようが頭から離れず、僕はひよりの話に生返事を返していた。
「……玉木? やっぱり、元気ないよ。……何かあったら、言ってね」
ひよりが、心配そうに僕の顔を覗き込む。
その時だった。
――街中に、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
「……え? 何、これ……避難訓練?」
「……違う。……これは、『選別』の合図」
栞さんが、血の気の引いた顔で呟いた。
次の瞬間、街の至る所で、人々が悲鳴を上げ始めた。
「う、うわぁぁぁぁっ! 何だ、こいつ! 離せ、離せっ!」
買い物をしていた主婦が、突然苦しみ出し、身体を異形へと変化させて隣の人に襲いかかる。
サラリーマンが、学生が、老人が。……次々と『覚醒病』を発症し、街は一瞬にして地獄絵図へと変わった。
「……ひより、栞さん! 逃げろ、早く!」
僕は二人を背中に隠し、ポケットのオリジンカードを握りしめた。
龍馬が言っていた「パンデミック」。……それが、今、始まったんだ。
【戦闘:未来の栞 vs 後藤孝太朗】
――ガキィィィィンッ!!
未来の栞の手元に、光の粒子で形成された『時間干渉刀』が現れ、孝太朗の黒い刃を受け止めた。
「……チッ! そのカード、見たことねぇ……! お前、一体何者だ!」
「……あなたの『アビス』は、まだ不完全。……世界を滅ぼすには、足りないわ」
私は、彼の攻撃を受け流し、一瞬で背後へ回り込む。
未来の知識。彼が次にどう動くか、私はすべて知っている。
「……融合係数、強制ダウン。……アビス・ブレイク」
私が彼のプロトカードに干渉刀を突き刺すと、彼の周囲の黒い霧が、ガラスのように砕け散った。
「……が、はっ……!? クソ、身体が……動か……」
孝太朗が膝をつく。プロトカードの負荷と、私の干渉により、彼の精神汚染が一時的に解除された。
「……孝太朗。玉木を、殺してはダメ。……彼を、今度は救って」
私は、動けなくなった彼の耳元で、かつての親友への、最後の手向けを囁いた。
【後藤龍馬の視点:チェス盤】
Cicadaの中央管制室。
龍馬は、横浜市内の各地から届くパニック映像を、眼鏡の奥の瞳で冷ややかに見つめていた。
「……適合率30%以下の個体、全域で覚醒を確認。……パンデミック、フェーズ2へ移行」
龍馬は、手元のチェスの駒を、盤上から取り除いた。
「……全人類の70%。……これで、箱舟に乗る10億人のための『スペース』が確保された。……あとは、英雄(玉木隼人)がどう動くか」
龍馬の背後で、適合者だけが受け取れる『Cicada ID』の発行数が、無機質な電子音と共に、急速にカウントアップを始めていた。




