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「結婚しよう」
優にそう言われて私は一気にドキッとした。心拍数は急激にあがり、破裂しそうだ――。
函館山の夜景はイルカの尾から胴体へつながる曲線美のように輝いている。展望デッキは平日だからか、人はまばらで、私と優だけの空間に感じる。
夏休みが始まる前の7月の夜なのに、時折、弱くて冷たい海風が7部袖のワンピース越しに冷たく感じた。
風が吹くたびに優の前髪が弱く揺れていた。ツーブロックでトップに束感があるショートヘアは爽やかに見えた。両耳にリング・ピアスを付けている優は仕事のときよりも若く見える。
大きな黒い瞳でこうやって見つめられるとだんだん照れくさくなる。私と釣り合わないくらい、顔が整っている。小さくて筋が通った鼻に小ぶりの唇。こうしていると緊張するくらい優は美形だ。
私は左手の薬指に通された指輪を見る。シルバーの指輪は小ぶりのダイヤモンドがキラキラと展望デッキのわずかな照明を反射していた。
優は私の方を見たまま、ずっと返事を待っている。
――答えはひとつしかない。
私が頷くと優はありがとうと言って、私を抱きしめた。
函館山を降りて、ベイエリアにあるラッキーピエロに入って、夜ご飯を食べることにした。
店内はアメリカンな雰囲気で、深い緑色で塗られた壁が妙に落ち着いた。
「付き合って1年でこんな感じになると思わなかったな」
「うん。私も」
そう、優とは、1年前に付き合い始めたばかりだった。優という存在は私にとってみれば、ようやく前を向きはじめるきっかけをくれた人なのかもしれない。
話だって、いつも弾み、実際、ふたりでいるときは楽しい。このまま結婚できたらいいなって思ってた。だから、私のなかでも、結婚の心の準備はできていた。
私と優はチャイニーズチキンバーガーを食べていた。私は数年ぶりの函館旅行をすっかり楽しんでいた。1年ぶりくらいに3連休を取ることができた。店長には嫌味をたくさん言われたけど、そんなのどうでもよかった。
「日奈子はさ、可愛いし、おしとやかだから、どこかミステリアスに感じるんだよ」
「え、それって褒められてるの? 私」
「うん、めっちゃ褒めてるよ。そういうところが好きだし、これからもずっと見ていたいと思ったんだ」
優は得意げにそう言った。優は出版取次の営業でうちのお店の担当だった。週に2、3度、店舗に顔を出し、話しているうちに優からご飯に誘われて、その流れで付き合うことになった。
実際、出版社と書店、そしてその間に挟まっている本の問屋さんの仕事は大変そうだし、大型書店に務めていて、専門書担当の私はたびたび、優に助けを求めたりした。
私の無茶振りにも優は丁寧に対応してくれて、そして、どんな問題も笑顔でスマートに解決してくれた。そんな献身的な優に私の心は動かされた。
「最初、仕事で関わるようになってから、俺は簡単に一目惚れしちゃったよ」
「もう。それ、何回も聞いてるよ」
「ごめん、ごめん。つい、何回も言いたくなっちゃうくらい好きだってことだよ」
優はそう言ったあと、微笑んだ。
「ねえ。どうして、こんなにドジでダメな私のこと気にかけてくれるの?」
「確かにひなちゃんはちょっと、ドジなところあるよ。だけど、それがいいんだよ。俺にしてみたら、それがすごい落ち着くし、理想的なタイプなんだ」
「へぇ。変わってるね」
「ひなちゃんは面白いこというなぁ。変わってないよ。ひなちゃんとこうしていると、なぜか俺は自然体でリラックスして話すことができるんだよね。不思議と」
優はそう言ったあと、チャイニーズチキンバーガーを一口食べた。
「だってさ、プロポーズするなら、普通こんな場所でご飯済ませないでしょ。だけど、ひなちゃんとなら、どんなところもファンタジックになるような気がする」
「だって、それは優が私に合わせてくれたんでしょ。私がどうしても1日目の夜はラッキーピエロでご飯食べたいって言ったから」
「そう、そういうの言ってくれるからいいんだよ。わかりやすいし、素直。そういうところが好きだよ」
優にそう言われて、私は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
「あ、顔、赤くなってるよ」
「優がべた褒めするからでしょ」
私がそう言うと、優は笑った。やっぱり、優のこういうところは好きだ。常に私のいいところを惜しみもなく褒めてくれる。だけど、それが私にとって見たら時折、本当なのかなと思ってしまうこともある。
「だから、ひなちゃんといると絶対に楽しいことしか起きないと思うんだ」
「そっか。――あんまり期待しないほうがいいかもよ」
「え、どうして?」
「だって、まだ同棲だってしてないし、住み始めてからお互いの本性がわかるわけでしょ」
「あ、そう考えると、俺もヤバいな」
「でしょ? 私はきっと優が思っている以上につまらない人間かもしれないよ。それでもいいの?」
「良いも悪いも、もうすでにひなちゃんにプロポーズしちゃったんだから、覚悟はできてるよ。こんなひなちゃんと出会えたのは奇跡なんだから、ひなちゃんのこと全部受け入れるよ」
優はそう言ったあと、また微笑んだ。
「――ありがとう」
「そして、社会人になって同い年で、こうやって逢えたのも奇跡だよ」
「そうだね」
窓から見える夜の函館の海は穏やかで静かそうだった。ふと、志度と小樽に行ったことを思い出した。優は私のことを理解してくれようと努力してくれている。
だけど――。
志度のように息がピッタリ合って、話さなくてもお互いに通じ合うようなそんな感覚を優に感じたことはなかった。だけど、志度はもういない。私は前を向くしかないんだ――。
鼻の奥がずんと重くなった感覚と一緒に右目から涙が流れた感覚がした。そのあと、すぐに両目から涙が流れ始めた。
「え、大丈夫?」
優は少し驚いていた。
「ごめんね。――昔のこと思い出して、つらくなった。優の所為じゃないよ」
そう言ったあとも、涙は止まらず、私はバッグからティッシュを取り出して、目に当てた。
なんなんだろう。この感じ。
志度が私の結婚を邪魔してるのかな。なんて、死んだ人の所為にしてみたけど、そんなわけがなかった。
「大丈夫だよ。ひなちゃん。俺たちは今を生きてるんだから」
何が大丈夫なんだろう? 優は何も知らないでしょ。私のことなんて。そんな優しい声で適当なこと言わないでよ。――傷つくから。
「――ごめんね。もう、大丈夫だから」
あーあ。私はなんで嘘をついているんだろう。全然、大丈夫じゃない。
「そっか。無理しないでね」
「――ありがとう」
こういう優しいところが好きだけど、たまに表面的に感じてしまう。きっと深い訳を聞かないことが良いことだと優は思っているんだろうけど、そうじゃないときのほうが私にしてみたら多い。
私は大きくため息を吐いた。
――気持ちを切り替えなくちゃ。
「美味しいね。チャイニーズチキンバーガー」
私はそう言って、優に微笑んだ。




