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バスタブに浸かっている。火照った身体を見ると私の身体はとても貧相だ。子供のように細い腕。痩せ型の見本を絵に描いたような貧相な身体だ。
桜子が妊娠したことを思い出した。周りは当たり前のように幸せになっていく。そんなの当たり前だ。生きている限り、幸せを追い求めないと幸せは簡単に掴むことなんてできない。
桜子は当たり前のように自分で幸せを作っているに過ぎないんだ。
私はすでにあらゆることがある時点から止まってしまった。あと5年で30歳になるけど、私にとって大切なものはほとんど何もない。それは砂浜で自分の名前を木の枝で描き、名前が波でさらわれるのを待っているようなものだ。
仕事に追われ、2年が過ぎようとしていた。大学を卒業し、新卒採用で大型書店に入社した。毎日クタクタになりながらシフト通り出勤し、1日10時間は当たり前のように働いた。
できるだけ体調を崩したくなかったから、私は自炊を頑張った。夜ご飯は栄養バランスがとれるしっかりしたものを作るように心がけ、そのおかずを次の日の昼のお弁当にするようにした。
その甲斐あって、料理はそれなりに得意になった。仕事でこんなに疲れているのに私は不眠症だ。ひどい時は睡眠薬も効かず、1時間の睡眠で仕事に行くこともあった。
私だけ置いていかれているような気持ちになった。頭の中を空っぽにすることを努力したけど、今日はなぜか上手くいかない。つらい思いがどんどん大きくなり、胸が熱くなるのを感じた。私はよくわからなくなり、ただ、辛くて涙が止まらくなった。
風呂から上がり、切りたてのショートボブをドライヤーで適当に乾かした。1週間前に髪は切ったばかりで、髪はとても軽く、スルスルと指の間を抜けていった。
志度が死んだ日を思い出した。志度は交通事故で死んだ。何もかも凍りつき、凛とした朝、死んだ。
志度は学校に行く前に私との待ち合わせ場所で立って待っていた。それは下手くそなビリヤードみたいだった。夜中に降った雪が氷の上に薄くつもっていて、その日の歩道はとてもツルツルしていた。何人かが雪の下にある氷に足を取られ、滑って尻もちをついた跡がいくつもあった。
それは車道も同じだった。片側2車線の比較的大きな車道も歩道と同じように白い氷の上に雪が薄く降りつもっていた。対向車に急ブレーキがかかった。
そして、大きくスリップし、反対車線にはみだした。それを避けようとした乗用車が歩道の方へハンドルを切り、大きくスリップした。その先に志度がいた。
それだけのことだ。
私はその光景を目の前で眺めていた。車が志度を引いたあとの静けさ、白い雪に赤い志度の血が流れていた。私は立ち尽くした。
そして、志度の元に駆け寄り、横たわっている志度の前に跪いた。志度の後頭部から血がどんどん流れていた。止血しないとと誰かが言っていた。誰かが119番に電話しているようなやり取りが聞こえた。私は着ていた黄色のダッフルコートを脱ぎ、志度の頭にあてた。それしか止血する方法が思いつかなかった。コートは血を吸ってくれず、黄色い布に血の池が出来上がっていた。
何度も志度の名前を言ったけど、志度から私の名前は当たり前のように返って来なかった。




