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3/3

深海の獣たち

角を曲がってきたのは、かつて俺たちが「父」と仰いだ男の残骸だった。


艦長の軍服は返り血を吸って重く垂れ下がり、右手の注射器は、何度も使い回されたせいで先端がささくれ立っている。

筒の中で揺れる琥珀色の液体は、赤光を浴びて、まるで腐った泥水のように濁って見えた。


「……田中。隠れなくていい。俺たちは絶対に帰れる、安心するんだ」


その声は、ひび割れたレコードのように単調で、不自然に穏やかだった。

田中が、隣でヒュッと喉を鳴らす。佐藤はレンチを握りしめたが、その指先は酸欠で紫色に変色し、今にも鉄の塊を落としそうだった。


合図など、いらなかった。

俺たちは、ただ本能のままに影から飛び出した。


怒号はない。あるのは、肺から漏れる「カハッ」という引き攣った呼吸音だけだ。

佐藤の振り下ろしたレンチが、艦長の右腕を捉える。グシャリ、という濡れた音が響き、注射器が床を転がって、死神の液体をぶちまけた。


「……ア、……ァ」


艦長は悲鳴すら上げない。俺と田中で、その老いた肉体を力任せに医務室へと押し戻す。

死臭と、焦げた肉の匂い、そして九条が作り上げた「静寂」が支配する部屋へ。


「離せ、……私は、……直しているんだ。壊れた、計算を……九条、どこだ、九条……!」


艦長が暴れる。その力は驚くほど強く、返り血で滑る手が俺の喉を締め上げた。視界の端で火花が散り、意識が遠のく。

俺は必死に艦長の顔を押し戻し、指を一本ずつ引き剥がした。


「ハルキ! 閉めろ!!」


田中の掠れた叫び。俺は全身の重みをかけ、重厚な耐圧ハッチを掴んだ。


ギィィ……。


油の切れた蝶番が、鉄同士の悲鳴を上げる。

ハッチの隙間から、艦長の片目が覗いた。かつての威厳は消え、そこにあるのは、解けない数式に怯える狂人の瞳だ。


「……おかしい。変数が、足りない。私が、……私が数式にならなければ、浮上できない……ッ!」


ドォォォォォン!!


俺は頭からハッチにぶつかるようにして、それを閉ざした。

佐藤が震える手でロックレバーを引き下ろす。ガコン、という重い金属音が、この艦の「正義」を完全に断絶させた。


直後、内側から鈍い衝撃が響く。

だが、それは拳で叩く音ではなかった。艦長が、自らの頭をハッチに打ち付け、数式を叫び続けているような、不気味で規則的な音。


「開けろ、……私は医者だ、……正しく、直して、やる……」


やがて、その声も水圧に溶けるように消えていった。


……しん、と。


潜水艦の中に、完全な静寂が訪れる。

いや、静寂ではない。

ギィ、……ギィィ……。


俺たちを包囲する、4000トンの質量。船殻が軋む音だけが、不気味に、巨大に響き渡る。


俺たちは、ハッチの前にへたり込んだ。

勝ったわけじゃない。ただ、自らの「死に方」を、あの中の地獄から、この通路の窒息へと変えただけだ。

医務室に閉じ込めた艦長の手元には、まだ予備の酸素ボンベがある。

だが、俺たちのいるこの通路には、もう、吐き出された二酸化炭素の熱気しか残っていない。


「……あは、……は」


佐藤が乾いた笑いを漏らした。その瞳はもう、何も映していない。

俺は、震える手で壁に触れた。

この壁の向こう側には、冷たく、巨大な死がある。それと同じものが、今、俺の肺の中にも満ちようとしていた。


あと、何回呼吸ができるだろうか。

救助隊がこの棺桶をこじ開けたとき、そこに残っているのは「人間」だろうか。

それとも、互いの喉を掻き切った「獣」の死骸だろうか。


遠のいていく意識の中で、九条の冷徹な問いかけが、今さらになって脳を灼いた。


――次は、君か?


ああ、船医。

あんたの言った通りだ。


俺は、今、猛烈に「眠りたい」と思っている。

これが、あんたの用意した「処方箋」だったのか。




時間の概念は、二酸化炭素の熱気に溶けて消えた。

肺はもはや酸素を拒絶し、自分たちが吐き出した毒を、ただ機械的に出し入れしている。


佐藤はもう、冷たくなった鉄板の一部と化していた。

田中の呼吸は、砂を噛むような掠れた音を、不規則に繰り返すだけだ。

俺――ハルキは、ハッチに背を預けたまま、指先に握りしめたピンセットの鋭利な感触だけを頼りに、薄れゆく意識を繋ぎ止めていた。


その時、沈黙が「暴力」によって破られた。


――カン、カン、……カンッ!


船殻を叩く、無機質な金属音。

幻聴ではない。外界が、俺たちの死を邪魔しに来たのだ。


「……ぁ……」


漏れたのは歓喜ではない。肺を焼くような、震える喘ぎだった。

凄まじい振動と共に、鋼鉄の棺桶に「外界」がこじ開けられる。


プシュゥゥゥゥッ……!!


気圧の調整。そして、地獄の蓋が外側から引き剥がされた。

流れ込んできたのは、新鮮だが、あまりに冷たく乾燥した酸素だ。

救助隊員の放つLEDの白光が、網膜を刺すような鋭利な槍となって、俺たちの「絶望」を遠慮なく暴き出した。


「生存者三名! 急げ、酸素を回せ!」


防護服に身を包んだ「侵略者」たちが、泥だらけの俺たちを担ぎ上げる。

俺は酸素マスクを押し当てられ、肺が焼けるような感覚の中で、隣の「医務室のハッチ」を指さした。


「……艦長、が……中に」


隊員が頷き、外部ロックのレバーを跳ね上げた。

ガコン、という重い音が、艦内の静寂を最後の一片まで踏みつぶす。


そこには、俺が想像していたような「狂気の叫び」も、血まみれの惨劇もなかった。

ただ、吐き気がするほど、静かだった。


医務室のベッド。そこには、志願した仲間たちが、シーツの皺一つなく整えられ、まるで眠っているかのように横たわっていた。

その傍らで、艦長は九条のノートを聖書のように抱きしめ、祈るような仕草で椅子に座り込んでいた。


「艦長! 無事ですか!」


隊員が駆け寄る。艦長はゆっくりと、救済を確信した聖者の顔で微笑んだ。

その瞳は、深海よりも深く、暗い虚無に沈みきっている。


「……ああ、ようやく来たか。見てくれ。私は、彼らを正しく『冬眠』させた。

九条のような削減さつりくではない。……私の、この優しい手で、一人残らず眠らせたんだ」


救助隊の医師が、並んだ乗組員の一人の手首に触れた。

次の瞬間、医師の顔が、恐怖で石のように固まった。


「……全滅だ。バイタルなし。瞳孔散大。……死因は、劇薬の過剰投与と、不適切な処置による窒息……」


……そうか。

艦長は「殺戮」を拒み、素人同然の善意で「救済」を試みた。

その結果、処置を受けた全員が、眠るように、確実な地獄へと突き落とされたのだ。

九条なら、あるいは数名は救えたかもしれない命。

それを、艦長の「震える正義」が、一人残らず摘み取っていった。


「……なぜ運ばない。彼らは、もうすぐ起きる。……ほら、ノートには、救助が来たら起こせと……書いて、ある……」


艦長は震える指で、九条の返り血で滲んだ「配合ミス」のページを、隊員に必死に見せつけていた。


俺は、運び出される担架の群れを見送った。

九条は、一部を殺して、一部を救おうとした。

艦長は、全員を救おうとして、全員を殺した。


救出される俺の視界の端で、艦長が子供のような声で泣き崩れるのが見えた。

彼が守ろうとした「誇り」は、今、冷たい亡骸の山となって、その両肩に永遠に降り積もった。


ハッチの外。

そこには、太陽の光が溢れていた。

だが、それは地獄を生き延びた俺たちを温めるには、あまりに冷たく、白々しい光だった。


俺の手には、まだあのピンセットが握られている。

獣になって仲間を裏切り、生き延びた。その証拠品だけが、俺の掌で鈍い熱を持っていた。

最適解を求めると袋小路に嵌ってしまう。

そのモヤモヤの、例えば一つの解を知りたくて執筆しました。

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