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正義という名の地獄

「……あと三人の『削減』が必要です。そうすれば、救助までの酸素は足ります。あなたと、その観測員だけは、……『人間』として地上へ帰れる」


「冬眠装置を使え。それが、この艦のルールだ」


九条は初めて、歪な嘲笑を浮かべて振り返った。


「電力が足りない。装置を起動した瞬間に、生命維持システムは完全に沈黙する。

二十四時間後の未来を買うには、今、この手で心臓を止めるしかない。私は職務を全うしているだけです」


「貴様がやっているのは、ただの屠殺だ」


「いいえ。『管理』です」


九条が、透明な毒液の満ちたアンプルを掲げた。

その刹那、艦長の右腕が電光石火の速さでしなった。


放たれた刃が空気を切り裂き、正確に九条の喉元を貫く。

銃声も火花もない。

ただ、肉を断つ嫌な衝撃音だけが密室に吸い込まれた。

九条の首筋から溢れた鮮血が白衣を汚し、彼は声も上げず、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。


アンプルが床に落ちて砕け、無色透明の死神が、九条から流れ出した鮮血に混じって広がっていった。


艦長は、空になった右手を固く握りしめたまま、肉塊となった戦友を見下ろしていた。


「……間違っているのは、私か」


その呟きは、誰にも届かない。

彼は、乗組員の命ではなく「軍人の誇り」を守ることを選んだ。だがそのために、この地獄で唯一「生存の解」を持っていた男を殺したのだ。


「艦長、……どうするんです。あと二時間で、酸素が……」


生き残った数名が、幽霊のような足取りで艦長を囲む。

艦長は、まだ温かい九条の指先から、ボロボロに使い込まれた医学ノートを奪い取った。


「私がやる。……私が、船医の代わりを務めるだけだ」


艦長は、死体が転がる横の椅子に座り、狂ったようにノートを捲り始めた。

紫に変色した指先が、九条の整然とした文字をなぞる。


「士官学校で、基礎医学は修めている。……そうだ、ここに書いてある。薬学の配合、投与量、バイタルの管理。

今から覚えればいい。まだ間に合う。私が、君たちを『正しく』眠らせてやる」


それは、正視に耐えない光景だった。

艦長は、九条の返り血で滲んだページを、必死に指で拭いながら文字を食い入るように見つめている。


一時間後。一人の乗組員が、極度のパニックを起こした。

「嫌だ、出してくれ! 殺される!」

暴れ回る男。艦長は、震える手で注射器を構えた。その瞳には、焦点が合っていない。


「大丈夫だ。……私は今、君を救っている」


艦長が、男の腕に針を突き刺した。

だが、それは九条の記した「冬眠」の処方ではなかった。酸欠で機能不全を起こした脳が、劇薬の配合を致命的に見誤っていた。


男の呼吸が、不自然なほど深く、ゆっくりになった。

安堵したのも束の間。男の喉の奥から「ゴボリ」と濡れた音が漏れる。

投与された毒が、肺胞の機能を麻痺させたのだ。男は意識を失ったまま、溢れ出す自分の唾液で溺れ始めた。


「よし、……眠った。成功だ」


艦長は、痙攣する男の胸を愛おしそうに撫でた。

その瞳には、凄惨な失敗が「救済」として映っている。

艦長は死体に向かって、慈しむように話しかけ続けた。


「次は、もっとうまくやる。……なあ九条、見ていろよ。私はお前を超えてみせる」


彼が守りたかった「正義」は、今、彼自身の無知とプライドによって、九条の「殺人」よりも遥かに残酷な地獄を招き寄せた。

次の「患者」として呼ばれるのは、おそらく俺だ。


胃の奥から酸っぱいものがせり上がる。

吐き気は、もはや生理現象ではなく、この艦に満ちた死の臭いへの拒絶反応だった。

通路の影で、蠢くものがある。

整備士の佐藤と、航海士の田中。彼らの顔は非常用ライトの赤光に焼かれ、剥製のように生気がない。


「……ハルキ、こっちだ」


佐藤の指が、俺の腕に食い込む。熱を失った氷のような指だ。

配管の死角。三人の呼吸が重なり、互いの酸素を奪い合う。


「……見たか」


田中の声は、乾いた砂を噛むようだった。

「九条は、……一瞬だった。静かだった。……でも、艦長は、違う」


田中の瞳が、小刻みに揺れる。

「音が、するんだ。……肉が、……焼けるような、……水に溺れるような。あんなのは、『眠り』じゃない」


「次は、……俺たちの番だ」


佐藤が工具袋から重厚なモンキーレンチを取り出した。

震える手でそれを握りしめる。鉄の冷たさだけが、彼の理性を辛うじて繋ぎ止めているようだった。


「……どうする」


俺の声は、自分でも驚くほど細かった。

田中が、酸素の薄い空間を、さらに削り取るように顔を寄せてくる。


「……閉じ込める。……あの中に」


「……え?」


「……ハッチを外からロックする。……あいつを、死体と一緒に、……あそこに捨てていくんだ」


田中の言葉は断片的だった。二酸化炭素のせいか、思考がまともに機能していない。

だが、その結論だけは、生存本能が弾き出した「正解」だった。


「でも、……あそこには酸素が……外にいたら、俺たちは、……」


俺が言いかけた口を、佐藤が力任せに塞いだ。


ギィ……。


船殻の悲鳴ではない。

医務室の重いハッチが、ゆっくりと開く音。


ズルッ、……ズルッ。


重いものを引きずる音が、通路に響く。

それは、死体が床を擦る音。

そして、場違いなほど優しく、湿り気を帯びた艦長の呟き。


「……ああ、そうだ。計算は合っている。九条、見ていろよ……。私は、失敗しない。……次は、田中だ。あの子は、よく頑張った」


鉄の床を叩く軍靴の音。

艦長が手にしているのは、九条の形見ではない。

何度も、何度も、中身を詰め替えられ、先端が歪に摩耗した――ただの、汚れた注射器だ。


「……やるぞ」


田中の短い合図。

俺は、震える手で観測用の鋭利なピンセットを握りしめた。

武器と呼ぶにはあまりに無力な、ただの細い金属片。


俺たちは、「正義」を捨てたのではない。

そんな高尚なものは、水深4000メートルの水圧でとうの昔に潰されている。

俺たちはただ、隣で溺れている仲間を蹴り飛ばしてでも、水面へ顔を出そうとする「獣」に退化しただけだ。


通路の角から、艦長の影が伸びる。

その影は、手にした注射器を、まるで迷える子羊を導く杖のように、大切そうに抱えていた。

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