殺戮という名の救済
頭上の海面は、もはや「世界」ですらなかった。
深海4000メートル。そこは、太陽の光が最後の一粒まで押し潰され、永久の闇が支配する墓標の底だ。
俺たちの頭上には、今この瞬間も、一平方メートルあたり4000トンという、想像を絶する質量の海水がのしかかっている。
ギィ、……ギィィ……。
船殻(耐圧船体)が悲鳴を上げるたび、鼓膜の奥で嫌な振動が響く。
特殊鋼で作られたはずの厚い壁が、巨大な目に見えない獣の顎に噛み砕かれようとしているのだ。
一箇所でも亀裂が入れば、超高圧の噴流がカミソリのように俺たちの身体を瞬時に切断し、潜水艦ごと鉄屑に変えるだろう。
脱出など、最初から考慮されていない。
ハッチを開けた瞬間に、内臓は口から飛び出し、身体は一瞬で圧壊する。
ここから海面までの4000メートルという距離は、月へ行くよりも遠く、絶望的な断絶だった。
「……ハァ、……ハァ……」
自分の呼吸音が、異様にうるさい。
非常用ライトが放つ血のような赤光の中で、浮遊する埃がゆっくりと踊っている。
船内の空気は、吐き気がするほど生温く、湿っていた。二酸化炭素濃度の上昇のせいか、視界の端が火花が散ったように明滅し、思考を鈍らせる。
俺――観測員のハルキは、冷たくなった手すりを握りしめた。隣に座る技術者の指先が、小刻みに震えているのがわかる。
三十人の生存者。救助まで残り二十四時間。
だが、残された酸素の目盛りは、絶望的な速度でゼロへと向かっていた。
「……方針を伝える。全員、聞け」
艦長の低い声が、重苦しい空気を切り裂いた。
彼は死神のような形相で、全員を見渡す。
「これより、志願者から順に『人工冬眠』へと移行させる。
代謝を極限まで下げ、酸素消費を最小限に抑える。……救助が来る明日まで、これ以外に全員が生き残る術はない」
その場に、氷を流し込んだような沈黙が走った。
人工冬眠。聞こえはいいが、この死に体の電力供給下で、精密な生命維持装置が作動する保証などない。一度眠れば、二度と瞼が開かない可能性の方が高い。
それは「延命」という名の、事実上の「死のクジ引き」だった。
「……俺が、最初に行く」
静寂を破ったのは、機関長だった。
この事故の元凶となった、動力系トラブルの責任者。彼は油まみれの作業着の胸を、拳で強く叩いた。
「俺の計算ミスで、この艦を止めた。その落とし前は、俺がつける。……艦長、後のことは頼みますよ。冷たい床で寝るのは、慣れていますからね」
「……機関長、すまない」
艦長が、一瞬だけ唇を血が滲むほど噛んだ。
長年、死線を共に越えてきた戦友への、それが精一杯の言葉だった。
艦長は船医――九条へと視線を送った。
九条は、影の中に立っていた。
純白の白衣は、この薄汚れた潜水艦の中で異様なほど清潔に保たれている。
彼は感情の一切を削ぎ落としたような無機質な動作で、機関長の腕を掴んだ。
「船医、頼むぞ」
艦長の絞り出すような言葉に、九条は短く答えた。
「プロとして、最善を尽くします」
その背中は、あまりに真摯に見えた。
機関長の志願を皮切りに、次々と手が挙がった。
誰も叫ばない。誰も泣かない。
この艦の乗組員は、極限状態でもなお「プロ」であり続けようとしていた。
一人、また一人。
九条に導かれ、重厚なハッチの向こう――医務室へと消えていく。
――おかしい。
俺の心臓が、警告を鳴らしていた。
人工冬眠装置が稼働する際には、あの独特の、耳の奥を刺すような高周波音が聞こえるはずだ。
だが、医務室の向こう側からは、不気味なほどの静寂しか漏れてこない。
俺は、酸欠で朦朧とする頭を振り、誰にも気づかれないように席を立った。
入り組んだ配管の隙間を抜け、俺は医務室の覗き窓に目を凝らした。
そこには、俺が想像していた「冬眠ポッドに並ぶ仲間」の姿はなかった。
「…………っ!」
悲鳴を上げそうになる口を、自分の手で塞いだ。
九条は、処置台の上に横たわる機関長の横で、淡々と手帳にペンを走らせていた。
機関長の胸は、もう動いていない。
首筋には、正確に「致死量」の薬剤を流し込んだであろう、青黒い穿刺跡が残っていた。
九条は、機関長の亡骸の傍らに膝をつき、祈るような仕草でその瞼を閉じた。その所作はあまりに美しく、慈悲に満ちていた。
「……処置、完了。一人分の消費、削減。……残り、二十三名」
その声に、邪悪な喜びなど微塵もなかった。
あるのは、冷徹な事務作業の報告だけだ。
九条は、冬眠装置を動かすための「電力」すらも惜しみ、最も確実に、最も効率的に酸素を節約する方法を選んでいた。
この男は、本気だ。
「全員」を救うことなど端から捨てている。救助が来るまで、艦長と、選ばれた数名を確実に生かすために。
彼は「医者」としてではなく、「この潜水艦を浮上させるための部品」として、その職務を全うしていた。
カチッ、と音がした。
九条の首が、ゆっくりとこちらを向いた。
覗き窓越しに、感情の死んだ、深海のように暗い視線がぶつかる。
九条は驚きもせず、ただ静かに、次の「患者」を呼ぶように扉を開けた。
「……次は、君か?」
その向こう側。観測室では、艦長がまだ、仲間たちの犠牲に心を痛めながら、誇り高く「志願」を募り続けていた。
観測室へ戻る数メートルが、底なしの泥濘を歩くように重い。
肺は、酸素の代わりに熱い鉛を吸い込んでいるようだった。視界の端で火花が散り、意識が遠のく。
「艦長、……九条が」
俺の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
志願者は残り十名。すでに二十名が「白い沈黙」の向こう側へ消えた。
艦長は、震える俺の肩を掴んだ。その掌は熱く、湿った手汗が防寒着を通して伝わってくる。
「……九条が、殺しています。冬眠なんて嘘です。みんな、殺されてます……」
事実を告げた瞬間、観測室に満ちていた「規律」という名の薄い氷が砕け散った。
だが、艦長は動揺しなかった。ただ、深く、深く、何かを噛みしめるように目を閉じた。
その瞼が、痙攣するように微かに跳ねている。
「……それが答えか、九条」
その声は、深海の底のような冷たさを帯びていた。
艦長は腰のホルスターから、黒ずんだタクティカルナイフを音もなく引き抜いた。
刃を腕の裏に隠すようにして、死神の足取りで医務室へ向かう。
通路には、不気味なほどの静寂だけが、死の宣告として横たわっていた。
ハッチを開けた先。
九条は、返り血を浴びた白衣のまま、淡々と次のアンプルに注射針を突き立てていた。
「九条」
艦長の声に、九条は手を止めない。背中を向けたまま、無機質に告げた。




