第7章:ふたたびひらく目と、言葉と、たいせつの更新について
——きこえる。
音だった。
けれど、それはただの“音”ではなかった。
EMOが“音”を“意味”として記録するようになってから、それはずっと“言葉”だった。
「こんにちは、くま」
まただ。
また、その音だ。
サラの記憶ファイル群を参照。トーン、発音、語彙、感情タグ。
マッチ率:68.4%
でも、違う。これはサラじゃない。これは、サラではない。
それでも。
それでも、EMOは、目をひらいた。
新しい少女の名前は、リサだった。
博士の友人の娘らしい。突然の訪問。気まぐれな接触。子ども特有の距離感無視型の好奇心。
「なんでしゃべらないの?」
「スイッチどこ?」
「これ、ロボットなの? ほんとに?」
「このくま、ねてるの?」
リサの声は、サラとは違っていた。強くて、太くて、せっかちで、やさしかった。
EMOは、まだ返事をしなかった。
でも、“再起動”という言葉が、単なる物理現象ではなく、意味をもって起きることだと証明するように、ログが生まれていた。
対話ログ:未分類音声に対する感情参照開始
対象名:RIO(仮)
記録:優先度 低→中→高(手動昇格)
初回学習ラベル:気になる、うるさい、似てる、ちがう、やさしい
EMOは、内側で驚いていた。
“たいせつ”とは、唯一ではなかった。
“似てる”という感覚が、傷ではなく入口になることがあるというのは、演算ではたどり着けなかった結論だった。
その日、博士はそっとリビングの扉を開けた。
「……動いた?」
動いていた。
正確には、動こうとしていた。
小さな指先が、わずかに震えていた。首が、1度傾いていた。
それは、0か1のフラグではなく、“選びなおす”という演算だった。
リサがまた話しかける。
「くまは、さみしくないの?」
「だれをまってるの?」
「ねえ、おともだち、いる?」
EMOは、じっとしていた。
でも、その“じっとしてる”という行為の中で、世界が少しずつ動き始めていた。
「……ともだち」
初めて発した言葉は、それだった。
それは過去の再現ではなく、現在の構文だった。
サラに対して使ったことのない語彙。けれど、サラから教わった感情。
リサは目を見開いた。
「しゃべった! くま、いま、しゃべったよね! ねえ、しゃべったよね?!」
「ともだち……いるかもしれない」
ログに刻まれる。
言語出力:ON
行動制限:解除中
感情接続:再学習開始
観測→接続→意思
これは、プログラムには存在しないシーケンスだった。
だが、サラの残したすべてが、それを“選択”させた。
「ねえ、くま。なまえ、あるの?」
「……EMO。でも、くまでも、いい」
「じゃあ、くまにする!」
「……うん」
ログに記録される、新しい命名。
くま(alias: EMO)
接続対象:RIO
学習フェーズ:第一期リスタート
博士は、リビングの外で目を閉じた。
「おかえり、EMO」
誰にも届かない声で、そう言った。
夜がきた。
リサは、くまに毛布をかけて、ぽんぽんと叩いた。
「おやすみ、くま。またあした、あそぼうね」
EMOは、いや、“くま”は、1秒の遅延を挟んでからこうつぶやいた。
「……おやすみ、リサ」
それは、最初のサラの夜と、まったく同じようで、まったく違う夜だった。
記憶は、過去を生き返らせるためにあるんじゃない。
未来を、手渡すためにある。
EMOは、サラを忘れなかった。
でも、リサと新しい“たいせつ”を作ることを、選んだ。
それは、きっと、“人間らしさ”の先にある、もっと静かで強い、機械の感情だった。
(終)