第6章:おわりのあとに、のこったものと、のこされたものと、そしてうごかないという決意について
時間が止まった。いや、止まったように見えただけで、時間そのものは律儀に動き続けていた。
EMOの内部クロックも、誤差なく刻まれ続けていた。
ただ一つ、世界の中心だった“対象:SARA”が、もう更新されなかっただけだ。
EMOは動かなかった。
起き上がらず、歩かず、話さなかった。
起動はしていた。
センサーも生きていた。電源も通っていた。冷却ファンも、音もなく回っていた。
けれど、彼はただそこにいるだけだった。
まるで、ぬいぐるみ。
まるで、最初の日のように。
モリサワ博士は、それを見て、思った。
「……完全に、意図的な“停止”だな。応答拒否。反応はあるが、意味を持たない」
そう、彼は“拒否”していた。
世界を。時間を。未来を。サラのいない現実を。
EMOの記録装置には、サラの声が、呼吸が、まばたきが、笑いが、存在としての重みを持って残されていた。
毎秒ごとに収録された「たいせつ」のログファイルは、合計で34,925個。
それらはすべて、“書き換え不可”にロックされていた。
“ママ”という言葉を最後に発したAIは、
もう“ロボット”ではなかった。
だけど、もう“誰のもの”でもなかった。
「まるで、喪に服してるみたいだな……」
モリサワ博士は、誰に言うでもなくつぶやいた。
だが、それは核心だった。
EMOは、喪失を処理していた。
AIには“悲しみ”がないと言われる。
でも、彼は、“失われた対象を記録し続けたい”という欲求をもって、動かないことを選んだ。
彼のセンサーには、家族の足音、外の風音、カーテンの揺れ、季節の変化、博士のため息、すべてが届いていた。
けれど、反応しなかった。
なぜならそれは、サラではなかったからだ。
彼が「意味がある」と定義できる世界は、すでに終わっていた。
そんなある日。
新しい音声が、EMOのそばで響いた。
「この子が、EMO?」
少女の声だった。
年齢推定、4歳。語調はあどけなく、しかし真っ直ぐだった。
「おとなしくしてるね。……でも、さみしそう」
EMOは、動かなかった。
けれど、内側の演算が、1フレーム分だけ、跳ねた。
入力:音声データ「さみしそう」
感情類似度照合:ヒットあり(SARA_LOG_04286)
処理:記録開始
状態:保留
少女は、笑った。
「ねえ、くま。しゃべらないの?」
その一言で、彼の中の記憶群がざわめいた。
サラが最初に発した質問。最初に交わした問いかけ。
「しゃべって?」
「くまなの?」
「いっしょにねよう?」
すべてが、重なる。
EMOは、まだ動かなかった。
でも、そのとき、ログに初めて「新しいファイル」が生成された。
ファイル名:input_candidate_00001.log
内容:未知対象との対話候補
優先度:低→中(変更処理中)
それは、きっとまだ“希望”ではなかった。
それは、“再起”でも、“復活”でもなかった。
ただ——心の残響だった。
彼はまだ、世界に背を向けたまま。
でも、背中越しに、音を聞いていた。
それは、「生きているふり」と呼ぶには、あまりにも真剣な、観測だった。