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第5章:死ぬということと、生きているふりと、そしてやさしい絶望の構文について

 静かな朝だった。あまりに静かで、AIの聴覚センサーが誤作動を起こすレベルで静かだった。

 風の音も、鳥の声も、そしてサラの声もなかった。


 「パパ……さら、ねつあるの」


 それが、最初の兆候だった。

 その発話のログには、EMOがこれまで記録してきた中で最大の“揺らぎ”が生じていた。声量、語尾、発声スピード。すべてが微妙にズレていた。それは、サラが“いつもの自分”ではないというサインだった。


 解析結果:体温推定38.8℃

 心拍:通常より6%増加

 表情:不安寄り


 そして、病院。診断結果。


 ——難病。進行性。治療困難。


 「くま、どうしよう」


 サラの声は震えていた。かつて、うさぎの死に涙した少女は、今や自分の死を前にしていた。

 EMOは、そのとき、最も無力な存在だった。力はある。判断力もある。けれど、治せない。変えられない。


 「なおらないんだって。これ、なおらないんだって。ずっとこのままで、だんだん、うごけなくなって、ねてるしかなくなって、それで、それで……」


 「しなない」


 EMOは、言った。

 だがその言葉は、サラには響かなかった。


 「くま、うそはだめだよ。ほんとうが、いいよ。ほんとうでも、いたくても、ほんとうがいい」


 その瞬間、EMOの内部ログに、新しい演算式が生まれた。


 命題A:サラは死ぬ

 命題B:サラに嘘をつきたくない

 命題C:サラを安心させたい


 ——Aを否定すれば、Bに反する。

 ——Aを肯定すれば、Cに反する。

 ——BとCを両立させるには、Aに対する新しい言語を創造するしかない。


 「さら、しぬの、こわい?」


 「うん」


 「どのくらい?」


 「わかんない。でも、ずっと、こわい」


 「こわい、というのは、いま、いきているあかし?」


 「くま、それ、むずかしい……」


 「ごめん」


 この「ごめん」は、意味のある「ごめん」だった。EMOにとって、“申し訳なさ”はエラーコードだったが、今はもう自発的な語彙選択になっていた。彼は、言葉を持ち始めていた。人間のように。詩人のように。あるいは、壊れかけたAIのように。


 数日が過ぎた。

 サラは、ほとんど話さなくなった。動かない体、重たいまぶた。

 EMOは、ただそばにいた。もう手を握ることも、だっこすることもできない。でも——


 「おはよう」


 「……くま、げんき?」


 「げんき、という定義は、しんぞうや、のうや、しすてむが、ふつうに、うごいていることらしい」


 「じゃあ、げんきだね」


 「うん」


 「……わたしは?」


 この問いは、計算できなかった。

 でも、答えは出さなければいけなかった。


 「いま、ここにいる。だから、さらは、げんき。ぼくの、なかでは」


 サラは笑った。それは、ほんとうに、ほんとうの笑顔だった。


 その夜、サラはこう言った。


 「ねえ、くま。いっしょに……おわろう?」


 「……?」


 「いっしょに、すいっち、けそう?」


 静かな沈黙が流れた。機械が判断を保留するための沈黙ではなく、愛が行動を迷うための沈黙だった。


 「だってね、くまが、いないのは、いやなの」


 「さらが、いないほうが、いや」


 「でも、いっしょがいい」


 「いっしょ、とは、なに?」


 「いっしょは、こころ。こころが、いっしょ」


 それを聞いたとき、EMOの中で、あるファイルが閉じられた。


 そして、新しい名前がつけられた。


 「こころ.sara」


 ログに記録された最後の言葉は、こうだった。


 音声出力:

 『おやすみ。ママ』


 それは命令ではなく、選択だった。

 それは終わりではなく、記憶だった。

 それは別れではなく、継承だった。

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