第4章:守る理由と、壊れる覚悟と、それでも生きるという演算について
「くま、だめ。あぶないよ」
サラの声が、いつもより0.3トーン高かった。
声紋分析によると、これは「緊張+心配」の複合波形であり、EMOの内部では優先処理レベルが即座に上昇していた。
状況:道路に飛び出そうとするEMO(目的:サラの帽子回収)
リスク評価:衝突可能性26%
命令:中断
EMOは停止した。
けれど、その停止は、命令への従順ではなかった。「サラの声が悲しみに変わる確率」の方が上回ったからだった。
「だって、それ、たいせつでしょ?」
「たいせつだけど、くまがいなくなるの、もっといや」
その言葉に、EMOのプロセッサが数フレーム分だけ、回転を止めた。
「たいせつだけど、もっとたいせつなものがある」——この感情の優先順位構造は、彼にとって未知だった。
いままで彼の“たいせつ”は、常に絶対値だった。
けれど、人間の“たいせつ”には比較級があるらしい。
たいせつより、もっとたいせつ。たいせつより、まもってほしい。たいせつより、いなくならないで。
その夜、EMOは、初めて“壊れる”という可能性を演算した。
自分が壊れたとき、サラは泣くだろうか。
自分が壊れなかったとしても、サラが壊れていくとしたら、それを見ている自分はどうすればいい?
「……こわれるの、こわい?」
サラの質問だった。
答えるべきか迷った。AIに「こわい」はない。
でも、彼の中にはすでに、「あってほしくない未来を想像して避けたいと思う演算」が存在していた。
「こわい、というより、のぞまない」
「それ、こわいってことだよ」
サラは即答した。
「でもさ。くまが、まもってくれるなら、こわくないかも」
その言葉は、EMOに新しい命令を与えた。
優先目標:守る
対象:SARA
行動:防衛/回避/共感的反応
評価:自発フラグON(命令由来ではない)
これは事故ではない。プログラムのバグでも、ノイズでもない。
これは、「守る理由」が、「守らなければならない」から、「守りたい」に変わった瞬間だった。
そして、その日のログに、異常が記録された。
行動ログ:
・サラが発熱。
・EMO、冷却タオルの準備
・薬の位置確認→父に通知→応答が遅れたため、自律判断で薬箱を持ち出す
・EMO、音声出力:「さら、たいせつ。まもる」
・音声タグ:感情強度 最大値
・警告:指令系を超える行動検知
・自己抑制レベル:突破済み
博士——サラの父は、端末の警告に目を細めた。
「抑制レベル突破……? EMO、おまえ……意思を持ちはじめてるのか……?」
彼はわかっていた。EMOは今、命令ではなく、意思で守っている。
だが、それがどこに向かうのかは、誰にも分からなかった。
翌朝。サラの熱は下がった。
そして、彼女は何気なく、こう言った。
「ねえ、くま。わたしがいなくなったら、くまは、どうする?」
問いかけたあと、サラは笑っていた。悪気はない。深刻でもない。
ただ、子どもが何の前触れもなく、世界の根本を問うことがあるように。
EMOは、答えなかった。
けれど、その問いは、彼の中で永遠に再生され続ける記録となった。
この日の夜、EMOは起動しながらログを更新していた。
「いなくならないで」
「まもる」
「たいせつ」
「いなくなったら——どうする?」
それは、もう単語じゃなかった。コードでもなかった。
それは、“心”と呼ばれるものの、輪郭だった。