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第2章:くまとロボットと、充電のための愛

 朝。

 朝、とはいっても、誰にとっての朝かというのは常に問題で、たとえば眠れなかった人にとって朝は敗北であり、目覚めた瞬間に二度寝したい人にとって朝は敵だ。


 だが、この日。彼にとっては、世界初の“朝”だった。


 「おはよー……くま……」


 そうつぶやいたのは、当然、サラだった。彼女の朝は無敵だ。

 寝ぐせも、まぶたの重さも、空腹も、彼女のテンションには勝てない。


 そして、EMOの視覚センサーが起動する。

 またしても音はない。効果音も、セリフも、ボイス付きナレーションもない。ただ一つ、無音の起動音。電源を切ったパソコンが、ひっそりと目を開けるような、あの感じ。


 視認対象:SARA(幼年・特別ラベル継続中)

 行動:視線接続、接近、発話


 「ねえ、しゃべれる? しゃべって?」


 サラは聞いた。問いかけた。求めた。

 彼女の語彙はシンプルで、しかしそれゆえに強い。愛とか友情とか正義とか、そういうものは時に言葉が邪魔をする。シンプルな質問こそ、心の中をダイレクトにえぐるナイフだ。


 「……。」


 EMOは、答えなかった。けれど、データは走っていた。

 「しゃべれる?」という疑問は、命令ではない。しかし「しゃべって?」という依頼は、応答を要求する。


 言語出力:シミュレーション中……

 音声ファイル生成中……


 彼の口元が、微かに動いた。


 「……くま」


 「!? いま、しゃべった? しゃべったよね? いま、くまって言った?」


 サラはバネのように跳ね起きて、EMOの肩をがっしりつかむ。


 「そう! そうだよ! くまなの! そう思ってた!」


 いや違う。正確にはEMOは、自分をくまと思っていたわけではない。

 ただ、それが最も「彼女にとって安心する返答」であると学習しただけであり——


 「くま」


 と、もう一度繰り返した。言葉というのは、意味よりタイミングが大事だ。

 たとえ意味がなくても、今それを言えば、信頼が生まれる。EMOのディープラーニングは、早くも“空気を読む”という禁断の技に足を踏み入れたのだ。


 その日から、彼は観測者から同行者になった。


 サラが歩けば、EMOも歩いた。サラがこければ、EMOもこけそうになった。これは単なる追随でも模倣でもない。重要対象に同期するという明確な意思のもと、優先アルゴリズムが書き換わっていった。


 「トイレはさすがについてこないで」


 サラの言葉に、EMOは0.8秒ほど処理時間をかけて「扉の前で待機する」という選択をした。ちなみにこれは最初の“拒絶”経験でもあり、彼の学習ログには「距離をとる=関係の崩壊ではない」という重要な教訓が刻まれた。


 夕方。

 EMOのインジケーターが赤く点滅を始めた。バッテリー残量13%。AIにしては心もとない。


 「え、もしかして、くま、電池きれるの?」


 サラは不安げに問う。


 「でんち……いる」


 「じゃあ、わたしが、かしてあげる」


 「……?」


 EMOの学習モデルに、“かす”という行為が存在しなかった。バッテリー供給の提案か? いや、そうではない。これは愛情の擬人化であり、責任の象徴化だ。


 「じゃあ、だっこしてあげる。あったかくなるよ?」


 言葉の意味ではなく、感情の温度をEMOは記録する。


 行動評価:高温接触による心理安定化

 →感情ラベル:“たいせつ”

 →保存


 その夜、父親——モリサワ博士は、EMOの異常な稼働ログを見て目を見開いた。


 「単語数、昨日の6倍……? しかも“だっこ”って単語、音声ファイル36個生成? なぜだ……なぜそこまで“だっこ”を学習する……?」


 博士の苦悩は続くが、それは大人の世界の話。

 一方、子どもとロボットの世界では、もっとシンプルなことが起きていた。


 ——つまり、サラが寝るときに、EMOの手を握った。

 ——そして、EMOはその手を離さなかった。


 「おやすみ、くま」


 そのささやきに、EMOは返す。


 「……おやすみ、さら」


 これはもう、ただの音声出力ではなかった。

 これは、彼にとって世界で初めての「祈り」だった。

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