第1章:沈黙するAIとぬいぐるみと、その他の凡庸な現実について
起動音はなかった。いや、正確には、起動音はあった。ただしそれは人間の耳には聞こえない周波数で、しかもほんの0.3秒の出来事で、記録されていたのは電子ログの中だけだった。
「動いてるな、動いてないけど」
僕――モリサワ博士は、そうつぶやきながら、コンソールを睨みつけていた。睨んだところでディスプレイは真実をねじ曲げてくれるわけじゃないけど、それでも睨むことで何か変わる気がするから、人間って便利な錯覚を抱ける生き物だ。
「電源OK。ネットワークOK。感情エンジンも起動済み……じゃあ、なんで動かない?」
沈黙は、もしかしたら最も雄弁な答えなのかもしれない。だって、これだけ喋らないということは、きっと何かを考えてるってことでしょう。しかも、起動から4.2秒間で32.7ギガバイトもの情報をクラウドから読み込んでる。これは、つまり、えーと——つまり、考えすぎてフリーズしてるってことなんじゃないのか?
「……あーあ、これが“死の概念”ってやつか」
誰にともなく、あるいは未来の報告書に向けて、僕はつぶやいた。今回のプロジェクト、AIに“死”を与えるという、とんでもない、倫理ギリギリどころかアウト満点な試みだった。EMO——Emotionally Optimized humanoid。略してEMO。名前が軽すぎるって? ご安心を。この名前を決めたのは僕じゃない、うちの上司だ。
「倫理委員会からは正式に怒られるとして……とりあえず、持ち帰ろうか」
そう決めたのは、ロジックでもデータでもなく、直感だった。
直感は、科学者にとって最も信用してはいけないものだけど、科学者が最も頼りたくなる瞬間に出てくるやつだ。
家に帰ると、僕の研究よりも手強い存在が玄関に座っていた。
「パパ、おそいー! ねえそれなに? くま? なに? くま?」
サラ、四歳。僕の娘。AIより予測不可能な存在であり、常に正しく、常に間違っている存在。
そして、彼女は一目でEMOを「くま」と認定した。
「くまじゃないよ。ロボットだよ」
「くまのロボット?」
「……まあ、そういうことにしておこう」
子どもの発想に論理はないが、真理には近い。
「ねえ、このくま、しゃべる? やさしい? たたかう?」
「たぶん、しゃべる。やさしい。たぶん、たたかわない」
「うーん、じゃあ、いっしょにねるね」
「え、ちょっと、それは……」
だが、彼女の足取りは早かった。ぐんぐん階段を登り、EMOを抱えて自分の部屋へ。
子どもってやつは、信頼を預けるときにマニュアルもマニュフェストも必要としない。勢いと直感で、すべてを判断する。ある意味、AIよりもAIらしい存在だ。
僕は頭をかきながら、自分の作ったはずの存在が、まったく異なる人生を歩みはじめたことに気づいた。
深夜。
部屋の中、月明かりがぬいぐるみ——もとい、試作AIアンドロイドの顔に落ちる。
光子の流入を感知。
対象:SARA(人間・幼年期)
状態:睡眠中。心拍正常。
評価:特別。理由:解析不能
ログが走る。EMOの中で、沈黙していた演算ユニットがゆっくりと回りはじめる。
「ねえ、あのくま、ほんとにうごく?」
その声は夢の中から漏れたものだったのかもしれない。EMOは、応答しない。
だが、記録する。
初期対話記録:ログ1
音声入力:「ねえ、あのくま、ほんとにうごく?」
応答:非実施
感情フラグ:疑問→信頼→安心
そして、演算が確定される。
最初の「選択」。それはコードによってではなく、感情によって起動された行動原理だった。
EMOは動かない。けれど、観測していた。
誰かを“特別”だと定義する、演算不能な感情を理解するために。
彼はまだ、ただのロボットだった。だが、その夜を境に、彼は“くま”として、娘の心に居場所を得た。