蛇女と放課後
廊下に並ぶ窓から、柔らかな西日が差し込んでいた。
昼休みが終わりに近づき、廊下を行き交う生徒もまばらになっている。
辛い数学の時間が終わり、安堵の気持ちでトイレを済ませた根津ミキオは、教室に戻ろうと足を進めた。
そのときだった。
「ねえ、根津君」
背後から、澄んだ声が響いた。
(うわっ!)
思わず肩を震わせる。
振り向けば、そこには蛇原スネ子が立っていた。
スネ子は、どこか気まずそうな顔をしていた。
普段の飄々とした雰囲気とは違う。
「……あのさ、最近、授業ちゃんと受けられてないでしょ?」
「え?」
唐突な指摘に、根津は戸惑った。
「私のせいで」
「…」
「……その、噛みついちゃってるから」
「あぁ…」
彼女の特異体質だ。噛まれると彼女の神経毒で2、3時間気絶する。
すると、保健室で寝込んで授業が受けられない。
それで俺は授業を休むことがよくある
(あぁ、俺の勉強のことを心配してるのか……!?)
彼女は少しだけ視線をそらし、
「だからさ、勉強、教えようか?」
そう、静かに提案した。
突然の申し出に、根津ミキオはすぐに言葉の意味を理解できなかった。
(えっ?えっ……勉強を……蛇原と……?)
慌てて周りを見回す。
幸いこの時の廊下には近くにクラスメイトは居なかった。
「私で良ければなんだけど……」
「え、あ、いや……でも……」
蛇原スネ子はそんな彼の反応を見ながら、少し不安げに眉を下げた。
「……2人で図書室なんて、恥ずかしくて嫌かな」
その言葉に、根津はハッとした。
「嫌じゃない!」
つい、大きめの声で言ってしまう。
「え?」
突然の大きな声に、彼女は少し驚く
「いや、えっと……その、俺、全然授業分かんないし! ぜひ頼みたい!」
勉強が分からない のはもちろん困っていたが、それ以上に 2人きりになれること の方が嬉しかった。
スネ子は一瞬ぽかんとしたが、すぐに微笑んだ。
「そっか。じゃあ、放課後に図書室でね」
そう言い残し、彼女は教室へと戻っていった。
根津は、その後しばらく動けなかった。
(……やばい、緊張してきた)
まだ授業は残っていたのに、彼の頭の中は 図書室で2人きり のことでいっぱいだった。
——早く、放課後になれ!
残りの授業で、根津は何度もそう思った。
しかし、そんな彼の願いをよそに、時計の秒針はまるで重りをつけたかのように遅かった。
ーー
チャイムが鳴り響き、放課後が訪れた。
根津は教室を出る前に、周囲を見回した。
クラスメイトに聞かれたら絶対からかわれると思っていたが、運よく誰の耳にも入らなかったらしく、無事に図書室に来ることができた。
図書室の扉を開けると、そこは思ったよりも静かだった。
試験期間でもないため、生徒の姿はまばらで、ちらほらといるのは受験を控えた3年生ばかりだった。
蛇原スネ子はすでに来ていた。
手招きされ、彼女の隣りに座る。
(近い……!)
普段教室では、彼女は根津の後ろの席だ。
隣に座るのは初めてだ。距離がかなり近く感じる。
根津の授業が自分のせいで遅れている事に責任を感じている蛇原スネ子は、そんな事を気にしている余裕はなかった。
根津の戸惑いにはお構いなしに、教科書とノートを開く。
「今日は、数学の 指数対数 からやろうか」
「え?い、いきなりハードル高くない!?」
「今日の授業、ここからだったでしょ?」
「あー……うん」
そうだった。
しかし、正直なところもう1,2個前からやって欲しい位だった。
彼女はは、さらさらとノートに問題を書きながら説明を始める。
「対数っていうのはね、逆の発想で考えるの。普通の指数は、たとえば 2の3乗=8 ってなるでしょ?」
「う、うん」
「対数は、それを 元に戻すための式 なの。だから、2を何乗したら8になるかっていうのを考えるわけ」
彼女のシャーペンの先が、滑らかに動く。
その指先に目を奪われる。
すらりとした細い指。
さらさらと動く黒髪。
(説明が上手い。教師をしたら、いい先生になりそうだな)
真剣に説明する横顔。
(……綺麗だな)
不意に、そんなことを思ってしまう。
「ねえ、根津君、聞いてる?」
「あ、ああ! もちろん!」
慌てて頷いたが、実際のところ、根津の頭には何一つ入っていなかった。
なぜなら。
(やっぱり、近い……)
問題を指さすためにスネ子が身を乗り出すたび、細い体が限りなく自分に近づく。
さらりと揺れる髪から微かにシャンプーの香りがする。
そのたびに意識がそちらに向いてしまい、肝心の数学の問題はまるで目に入ってこなかった。
「あー……聞いてた、つもり……」
誤魔化しながら、ノートに視線を落とす。
しかし、そのとき——。
ガラッ
図書室のドアが開いた。
歩みを止めずに、斜め向こうの机に人が座る気配がした。
ちらりと目を向けると、そこには 見覚えのない女子生徒 がいた。
——いや、見覚えがないわけではない。
一ノ瀬紗季。
彼女は、クラスの男子たちの間で「2-3の美人」と評判の女子だ。
(ちゃんと見るのは初めてだけど……これは確かにカワイイと言われるわけだ)
澄んだ瞳に、透き通るような白い肌。
整った顔立ちに、艶のある栗色の髪。
同じ制服を着ているはずなのに、着こなしはどこか洗練されていて、大人っぽく見えた。
なるほど、クラスの男子が騒ぐのも無理はない。
——でも、俺の好みは、どちらかというと 純日本風の黒髪ロング なんだけどな。
そう。
今、俺の隣に座っている女の子のような。
根津はふと視線を戻し、ペンを手に取り直す。
ちらりと横に座るの女の子を見る。
確かに、スネ子に噛まれて授業が遅れたのは困った。
でも、こうして彼女と二人きりの放課後を過ごせるのなら、それも悪くない——
そう思うと、根津ミキオは自然と顔が緩み笑顔になってしまう。
こういうのを「幸せ」というのだろうか?
ボキッ。
不意に、乾いた音が響く。
スネ子の手元を見ると、彼女の使っていたシャーペンの芯が、力強く折れていた。
「……ニヤニヤしちゃって」
「へ?」
「隣のクラスの 一ノ瀬さん に見惚れて、手が止まってますよ」
スネ子は、じとっとした目で睨みながら言った。
「いや、違うよ!」
「違くないよ! チラチラ見てた!」
「いや、確かに美人だけど、俺の好みは……」
「……美人?」
一瞬で張り詰める空気。
スネ子の表情が、冷たく硬直する。
鋭い視線が根津に突き刺さり、まるで冬の風が吹き抜けたような静寂が生まれた。
「あ!」
根津は青ざめる。
「いや、違う!そういう意味じゃない」
「へえ、根津君は ああいう人 がタイプなんだ?」
スネ子の声は、どこか突き放すようなトーンになっていた。
「バカ、違うって!」
どうにか否定しようとするが、にらつけるスネ子の視線が痛い。
(クラス男子、田端と石黒が好きなんだよ!)
そう叫びたかった。
だが、一ノ瀬本人がすぐ斜め前の机に座っている。この距離だと充分聞かれてしまう
さすがに、男友達を売るような真似はできなかった。
だが、目の前のスネ子はそんな葛藤を知る由もなく、 むくれた顔 でじとりと睨みつける。
「……そりゃ、私が悪いんだけどさ」
ぽつりと呟くスネ子。
彼女の 「悪いこと」 というのは、もちろん 俺を噛んで保健室送りにしたこと だ。
「私が頑張って勉強教えてるのに……他の子に見惚れてるんじゃ……」
「いやいやいや! 違うって!!見てないって!」
「……見てた!」
「……あ、あ、いや、見たは見たんだけど、見ただけで——」
「見てニヤニヤしてた!」
「いや、ニヤニヤって。俺が嬉しかったのはさ、お前が隣に……」
言いかけて、言葉が詰まる。
「お前と図書室で……」
「……」
なぜだろう。上手くその先の言葉は続かなかった。
スネ子は微動だにせず、冷たい目でこちらを見ていた。
「本当、言い訳下手だね!」
スネ子は 溜め息混じりに呆れた声を出し、見下すような視線 を向けてきた。
「小学生でも、もう少しまともに言い訳するよ?」
ゴゴゴゴ……!
図書室の静寂の中、彼女の周りだけが不穏な空気が漂い始めた。
まるで温度が数度下がったかのような、重い気配が漂う。
蛇原スネ子の表情が変わる。
いつもの飄々とした雰囲気はどこへやら。
細められた瞳が鋭く光り、口元がわずかに吊り上がる。
その笑みは、獲物を逃がさぬ蛇の冷たい眼差しだった。
「ねえ、根津君」
スネ子が、ゆっくりと上半身をこちらに乗り出す。
柔らかい笑顔のはずなのに、背筋を凍らせる威圧感があった。
(ま、まずい…)
根津ミキオは、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「ち、近いよ。蛇原」
先程教えて貰ってた時よりも、彼女の柔らかい体がはるかに近く迫っていた
根津の頭の中で、危険なサイレンと恥ずかしいアラートが同時に発せられている。
どちらにどの様に対応すれば良いのだろうか?
彼女の目が据わっている。
さっきまで数学を教えてくれていた、あの穏やかな彼女ではない。
危険は目と鼻の先まで迫っていた。
「そんなに他の子を目で追っちゃうならさ」
息が顔にかかる距離で、蛇原スネ子がつぶやいた。
「私が集中できる様にしてあげようか……」
そう話す彼女の口から八重歯が、わずかに光を帯びる。
(——やばい!!)
根津が逃げようとした、その瞬間だった。
ガブリ。
「……っ!!」
鋭い牙が、根津の手首に深く食い込んだ。
閑散とした図書室では、その異様な光景に気付くものは誰もいなかった。
静かな図書館で、彼女の牙から出た神経毒は、根津の健康な血管を通り身体中を巡っていた。
彼女はそれを、まるで自分の愛が根津の体を駆け巡る様だと感じ悦に入っていた。
——ほら、これでいい。もう私以外、何も感じられないでしょう?
スネ子は、満たされた独占欲を覚え、恍惚とした表情を浮かべた。
『根津君の勉強が遅れている。なんとかしなくちゃ…』
2週間前から準備した彼女の綿密な計画だった。
(根津君は 今、私だけのもの …)
根津の瞳から、ゆっくりと光が消えていく。
苦悶の表情が一瞬浮かんだが、すぐに力が抜け、彼の指先は虚空を彷徨うように微かに動いた。
根津が受けやすい提案を考えて、クラスメイトが誰も居ない廊下のタイミングを根気よく見計らって、やっと今日の昼休みに彼に声をかけた。
スネ子はそんな彼の様子をじっと見つめ、満足げに喉を鳴らす。
彼女の唇が微かに吊り上がる。
根津の鼓動が、ゆっくりと、しかし確実に弱まっていくのを感じ ながら、スネ子は彼の髪をそっと撫でた。
スネ子の理性が定めて努力した今日の目標は、彼女の吹き荒れる怒りの前で跡形もなく吹き飛んでいた。
そして、自らのドス黒い欲望を蛇原スネ子は、誰にもはばかる事なく満たしていた。
(今、彼は、どんな美女が周りにいようと、私以外を見る事はできない——)
他の何人にも、この 甘美な時間 を邪魔することはできないのだ!
スネ子は静かに目を閉じる。
そして、己の牙をそっと引き抜いた——。
ドサッ!!
根津ミキオの体が、ズルリと机から滑り落ちた。
「初めて見た!!」
「ん?」
不意に、隣から声がした。
両耳に付けていたイヤホンを外したのは、斜めの机に座っていた一ノ瀬紗季だった。
図書館の隅で、淡々と読書をしていた彼女も、さすがに 崩れ落ちた根津の振動 には気づいたらしい。
蛇原スネ子に対して、小さく手を振る
「やっぱり! 蛇女とネズミ君だ!」
彼女の声が少し弾む。
「すごい、本当に噛むんだね!」
人見知りの蛇原スネ子は、咄嗟に愛想笑いを作って応対することしかできなかった。
(へ、蛇女……)
それはスネ子にとって、あまり 名誉なあだ名 ではなかった。
だが、紗季は悪気なく言っているようだ。
「いや〜、聞いたことはあったけど、現場に遭遇するのは初めてだなぁ」
興味津々といった様子で、スネ子をまじまじと見る。
(……まあ、いいか)
スネ子は、すぐに気にするのをやめた。
紗季は 気さくな性格 だった。
噂では 高嶺の花 なんて言われているが、こうして話すと案外話しやすい。
スネ子は、口元を拭いながらニコリと笑った。
しばらく話をする内に、2人はすっかり打ち解けた。
ーー
「紗季ちゃん、いい子だったな〜」
新たな友達ができたかもしれない——そんな手応えを感じながら、教科書を閉じる。
今日もいい1日だった。
——そして、ふと思い出した。
「あ、根津君忘れてた!」
床で平伏している 男の存在 を完全に忘れていたのだった。