蛇女はなぜ噛む?
目が覚めると、白い天井がぼんやりと視界に映った。
「……またか。はぁ〜。」
根津ミキオは、自分がどこにいるのか、すぐに理解した。
保健室のベッドだ。ここに運ばれたのは、これで何回目だろう。
薄ぼんやりとした意識の中、保健室独特の静けさと、わずかに鼻をつく薬品の匂いが漂っている。ゆっくりと体を起こそうとしたが、まだ頭がふわふわとした感じが抜けきらない。
体を起こそうとすると、まだ少しフラつく。
こめかみのあたりを押さえながら、思い出そうとするが――
「……なんで俺、ここにいるんだっけ?」
記憶が曖昧だった。
すると、隣の机で書類を整理していた女性が、彼の方を振り向いた。
「目が覚めた?」
「入江先生……」
この学校の保健の先生、入江奈美。
タイトスカートと白いブラウスに、シンプルながら高級感のあるアクセサリー。どこか近寄りがたさを感じさせる完璧さが保健室の空気を異様に引き締めていた。
オフィス街で見かけたら、いかにもなキャリアウーマンという感じの女性。でも着ているのは白衣だ。
「気分はどう?」
「まあまあ……っていうか、俺、また噛まれたんすか?」
「ええ、また」
「……ですよねぇ」
根津はため息をついた。
なぜか自分だけ、蛇原スネ子に噛まれるのだ。
そして、そのたびにこうして保健室送りになっている。
「あれ?なんで俺、蛇原に噛まれたんだっけ……?」
2時間目の国語の授業までの記憶はある。だが、そこから先がすっぽりと抜け落ちている。
思考の隙間を埋めるように、淡々とした声が聞こえた。
「あぁ、また『健忘』が起きてるみたいね」
入江先生は、こちらも向かずに仕事を進めている。
「健忘……?」
「麻酔健忘っていうのよ。前にも話したことあったでしょ。全身麻酔をかけられると、その直前の記憶が飛ぶことがあるのよ? それと同じ。」
説明をしながらも仕事の手は淀みなく止まらない。こういう人を「仕事の出来る人」と言うのだろう。
確かに入江先生の説明は前に何度か聞いたものだった。
それによると、これは「害のない健康な忘却」らしい。
「蛇原さんの神経毒は、麻酔に成分が似てるからね」
「はぁ…。」
蛇原スネ子は特異体質だ。彼女の牙に噛まれると神経毒で2〜3時間気絶してしまう。
彼女は大学病院に定期的に通い、その神経毒の分析も行われていた。この高校の看護教諭である入江先生はその分析結果は共有されている。
「まぁ、特に問題はないわよ。体には何の影響もないんだから、気にしなくていいわ」
「……そっすか」
記憶が飛ぶことを「特に問題はない」と言われるのはどうなんだろうと思った。
過去、スネ子に噛まれて何度か同じ健忘の症状があった。
根津は母親にも報告していたが「お母さんも全身麻酔した時になったわよ。麻酔医師の先生との会話の記憶が無くなってるの。イケメンだったから勿体無い事をしたわ」と笑っていた。
逆に「女の子を怒らせて!」と説教を喰らった位だ。
普通の親なら、息子が保健室送りになったら文句の一つでも言うべきものなのではないか?
(まぁ、俺も蛇原には恨みはないけど)
根津は頭を軽く振った。まだ少しフラつくが、体の感覚は戻ってきている。
と、その時。
「……ごめんね」
保健室の入り口から、小さな声がした。
顔を上げると、そこにいたのは蛇原スネ子だった。
彼女は申し訳なさそうに、制服の袖を握りしめている。
「また噛んじゃった……」
蛇原はたまに男子を噛みたくなるという、少し変わった衝動を持っている。そして、その衝動が抑えきれなくなった時、被害者となるのは大抵——俺だ。
「……別にいいよ。気にすんなよ」
「うん、本当ごめんね……」
蛇原はしゅんとした顔でうなだれる。
彼女は、自分の「特異体質」を忌まわしいものとして感じてる様だ。
(別にそんなに気にする事ないのに… )
根津はそう思いながら、ベッドから降りた。
「蛇原さん。また溜め込んでしまったの?」
保健室の入江先生が、スネ子に話しかける。
スネ子も保健室の常連だった。噛まれて寝込む俺の見舞いで来る事も多かったけど。
入江先生は、カウンセリングと称して気持ちを溜め込み過ぎてしまうスネ子と空き時間などに話し込んでいた。
(俺の寝ている間も、2人は何か話したんだろうか?)
「先生、ごめんなさい」
蛇原スネ子はしゅんとする。
「大丈夫よ。あまり気にしない方が良いわよ。根津君もそう言ってる訳だし」
入江先生は、仕事の手を止めてコチラを向く。
「ね、色男君?」
「(……… )」
根津は不満の目線で答えた。
入江先生は、彼のことを度々そう言ったが、当の根津は「滑稽なあだ名」だと感じていた。
クラスで女子に噛まれて、無様に床に伏せるカッコ悪い自分が「色男」とは。入江先生特有の嫌味にしか聞こえなかったからだ。
ふと、スネ子の方に目をやると、彼女は頬を真っ赤にして下を向いていた。
入江先生は、女子生徒から熱烈な支持がありほとんどカリスマだ。
蛇原スネ子もその信者の1人だった。
(流石の蛇原も、憧れの先生を前にしてバツが悪そうだ )
「ま、帰るか」
そう言って、二人は保健室を後にした。
保健室からの帰り。
一緒に教室までの階段を上がっている時に、俺は蛇原の横顔を見た。
確かに蛇原は少し溜め込み過ぎなところがある。教室でクラスの男子から茶化されても、他の女子と違い言い返さずにじっと耐えている事が多い。
(別に溜め込むことなんてないのに …)
(なんとかしてやりたいな…)
彼女に密かに想いを寄せる根津ミキオは、そんな事を思いながら彼女との2人で歩く教室までの時間を短い時間を楽しんだ。
ーーー
翌日
体育。男子だけの着替えの時間
根津ミキオがいる場所には、いつもクラスメイトの姿があった。
特にリーダー格というわけでもないが、不思議と皆が彼の周りに集まってくる。
「なぁ根津、お前なら知ってるだろ? どうやったら蛇原さんに噛まれる?」
何気なく放たれたクラスメイトの一言に、根津ミキオは耳を疑った。
「は?」
「怒って根津を噛み終わった後の…興奮状態の蛇原ってさ。なんか良いよな〜」
根津は呆れ顔でその会話を聞いていた。
噛まれた瞬間、痛みとともに意識が無くなる。次に目を覚ますのは、いつも保健室のベッドの上。何よりもクラスメイトの前で地面にひれ伏すあの屈辱感と言ったら。決して楽しいものではない。
なのに、クラスの男子たちは何をそんなに楽しそうに話しているんだ?
恨めしそうに視線を向けるが、男子達はそんな事はお構いなしに盛り上がる。
「いや、俺はちょっと怖いな…」
クラスの真面目なタイプの男子は、サラッと反論する。
「普段おとなしい女の子ってさ、爆発するとああなるのかな。って」
何人かの男子は、その意見に賛成のようだった。
「わかる!俺もちょっと怖い。嫌だよ、女子に倒されるの。ネズミも大変だよなぁ。少し同情するよ」
(そうだろ。そうだろ)
根津は口には出さずにうなづいた。
「えー!それが良いんじゃん!」
(はぁ?)
「なぁ、根津!お前、本当に蛇原と付き合ってないよな?」
「付き合ってないよ!」
彼は少し大きめの声で返答した
(あぁ、付き合えてない…)
蛇原スネ子とはよく話すし、席も近い。彼女とは仲良いつもりだった。
しかし、「仲の良い」程度では、彼女にとってここに居るクラスメイト男子達と、自分は大差がないのかもしれない。
(はぁ……)
ため息が出る。
「でも俺は、蛇原がネズミを噛み倒すのを見るの好きだな」
「わかる!」
「俺も!」
男子たちはニヤニヤしながら話を続ける。
根津は納得がいかなかった。噛まれて痛い思いをしているのは自分なのに。
なぜそれを楽しむのはコイツらなんだ?
「……じゃあ代わりに噛まれてくれよ」
根津はそう言ってみたが、男子たちは笑い飛ばしただけだった。
体育の時間が始まり、ハンドボールを投げている間、根津は少し腹が立ってきた。
「……人ごとだと思って。噛まれたくて噛まれてるわけじゃないんだぞ!」
ハンドボールを投げる速度が速くなる
「アイツらだって、噛まれればいいんだ。そしたら俺の気持ちも分かるし!」
投げ返されたハンドボールを受け取る。
「でも、蛇原はアイツらを噛まないだろうな…」
彼女とは仲の良いつもりだが、多分そんな気がする。
ハンドボールを投げ返す。
というか、クラスで自分以外に噛まれた人は居ない。
他に遮るコトの無い単純作業の中で、彼の思考は続く。
待てよ。
聞いた話では、高校一年生の時も一度も噛まなかったらしい。
ハンドボールを投げる
体育教師が、生徒たちに「もっと指先を使え」と指導する声が、グランドに響く。
ふと根津の脳裏に疑問が浮かんだ。
(ん?それにしても、なんで俺なんだ?)
投げ返されたハンドボールを受け取る。
ハンドボールを投げながら、根津は考えを巡らせる。
――理由は三つ考えられる。
① 蛇原は俺を「上」に見ている。
特別だから噛む。犬同士が噛み合う「愛情表現」の様な。
それなら悪くない。むしろ嬉しい。
② 蛇原は俺を、他の男子と「同じ」に見ている。
ただ噛みやすいから、テーブルの上にあるスナック菓子みたいな。そこにいたから。
これはあまり気分が良くない。
③ 蛇原は俺を、他の男子より「下」と見ている。
動物園の猿を思い出した。上位の猿が下位に噛みつき、力を誇示する。
もしかして俺は「見下し」の対象で、噛み付きは「ストレス発散」なのか?
考えたくはないが、ありえないとも言い切れなかった。
最後のは一番きついケースだ。
もしそうなら、蛇原にとって根津は「特別」ではあるが。
それは「他の男子より軽く見ている」という意味での特別なのだ。
(蛇原スネ子は、そんな性格ではない)
根津は自分で自分に反論した。
確かに彼女は割と誰にでも優しい。軽視の態度をあからさまに示す子ではなかった。
でも、本心は誰にも分らない。
根津は思った。
もし、もし蛇原が心の奥で自分を見下す様な。そういう気持ちを持ってたとすると。
その結果としての「自分だけ噛まれる」だったとすると。
考えるだけで、根津ミキオは気持ちが沈んできた。
「おい!根津!」
ハンドボールの返投が止まっていたので、パートナーから催促の声が掛かった
「あ、悪い!」
根津はよく蛇原スネ子に噛まれるその腕で、勢いよくハンドボールを投げ付けた。
ーーー
体育が終わった次の休み時間
「蛇原、あのさ?」
根津ミキオは、後ろの席のスネ子に話しかける。
「ん?なに?」
「あ、いや、何でもない」
先ほど感じた疑問を解消すべく蛇原に声をかけた根津だったが、彼女の顔を見て思い直した。
彼女は自分の特異体質をあまりよく思っていない節がある。変に突っ込んだら、気を悪くするかもしれない。
自分の特異体質を呪い落ち込んで下を向いる。たまに見かける彼女のそんな姿は、頻繁に見たいものではなかったからだ。
しかし、その様子を見た蛇原は、逆に気にし始めた。
(え? 根津君が私に聞きたいこと? なんだろ?)
授業中、彼女はそわそわし始める。
(え? 何? 何か気になる? 連絡先? メッセージアプリのクラスグループで知ってるよね?)
地理の時間、先生の指し棒が壁に掛けられた世界地図をすっと滑る。「ここが赤道直下の国々で——」と説明が続く。
(家の場所? 大体の場所はもう話したけど。誕生日かな?)
(なに?なにを?何で知りたいの?)
(根津君が、私のこと気になり出したとか?え?え?)
妙に後ろからの視線を意識してしまい、前髪を整え始め、制服の裾を整えた。
なんとなく顔が熱くなった気がして、髪を少し顔の前に垂らして、後ろの視線から隠れるようにした。
他の生徒たちは地図を見ながらノートを取るが、いくつかの瞳はすでに教室の時計へと向かっていた。
針が次の授業の終わりを告げるまでの時間を、じれったそうに確認している者もいる。
チャイムが鳴る。
先生の「ここまで」の声と同時に、椅子が一斉に引かれ、ノートを閉じる音がそこかしこで響く。
「次、数学か……」「まだ眠いんだけど」と、気怠げな声が飛び交う中、数人の生徒はさっさと立ち上がり、廊下へと飛び出していった。
引っ込み思案な蛇原スネ子は、結局この日、自分から根津に聞き直すことは出来なかった。
ーーー
次の日。
「根津君の昨日の中途半端な質問が気になって、夜中も考えてしまった…」
蛇原は朝から寝不足だった。
「根津君」
「うわ!蛇原!」
廊下から教室に入ろうとした時、根津は後ろからいきなり声を掛けられ驚いた。
え?さっき誰も居なかったよな?
彼女はよく背後から気配無く近寄ってくる。
「ん?朝からどうした?」
席に着いた根津ミキオは、普段より少し顔色の悪いスネ子に声を掛けた。
「あのさ」
「うん」
「昨日さ、なんかさ」
「うん」
「私にさ……」
「うん」
「質問しかけなかった?」
「……あー。うん。したね」
「なんかさ、あれ〜。気になっちゃってさ」
「あー」
「良かったら、聞かせてくれない?」
「そっか。じゃあちょっと聞きづらかったんだけど、質問するよ」
「え? うんうん! 質問して!」
(やった!これで聞ける )
蛇原は嬉しそうに身を乗り出す。
「蛇原、前に言ってたじゃん。“男の子をたまに噛みたくなっちゃう”って」
蛇原スネ子は絶句した。
「……そんなこと言ってたっけ?」
声が上擦りながら、苦し紛れにそう答えた彼女だったが。
確かに言ったことは覚えていた。高校に入ってからは「我慢」できていたのに、二年生になって初めて噛んでしまった。そして、その相手は——根津ミキオだった。
忘れもしない。初めて彼を噛んだあの日のことは。
「いや、なんで噛むのかなぁ〜って。」
そんな彼女の内心の事情を知るはずもない根津ミキオは、軽い調子で問いを続ける
「え、あー、いやー……」
蛇原はしどろもどろになった。
「なんでそんなこと聞くの?」
「いや、佐藤がさ……」
佐藤が「俺も噛まれたい」と言っていたことを言おうとしたが、さすがに男友達を売る訳にもいかずに言い直す。
「お前、佐藤を噛まないだろ?」
根津ミキオが問いかけると、蛇原スネ子はきょとんとした顔をした。
「え? 私が? 佐藤君を噛む?」
一瞬、考えるように首をかしげ、それからすぐに首を横に振る。
「噛まないよ」
そして、さらに念を押すように言った。
「噛むわけないじゃん」
根津は心の中で思わず叫ぶ。
(いや、俺は噛まれてるんだけど!?)
しかも毎週のように。いや、週をまたずに噛まれることすらある。
「佐藤君、噛まれたら嫌でしょ?」
スネ子が当然のように言う。
(おいおい。分かってるなら何で俺を噛むんだよ)
根津は思わず身を乗り出した。
彼女の曖昧な返答が、自分の立てた予想の中でも、最も嫌な可能性を裏付けている気がしたからだ。
しかし、少なくとも根津の知る限り、佐藤はむしろ噛まれたがっていた。
以前、クラスで「蛇原に噛まれるってどんな感じなのか?」という話題になったことがあった。佐藤は「俺も一回噛まれてみたいな」と冗談めかして言っていたし、蛇原もそれを聞いていた。
だが、スネ子は佐藤を噛まない。
そう。噛まないのだ。
つまり、彼女の中には「噛む・噛まない」の明確な基準があるらしい。だが、それが何なのかは、根津にはさっぱり理解できなかった。
根津のたてた予想。
上、中、下。
その内で予想の「中」は、どうやら無さそうに思えてきた。
彼女の「噛む」「噛まない」の基準。その中で、他の男子達とは違う何かが自分にはあるのだろう。
それが「上」なのか「下」なのかは分らないが。
(予想の「下」。「蛇原に見下されている」というのはよろしくない。とてもよろしくない)
根津はますます気になってきた。
「じゃあさ?」
「うん?」
素直に相槌を打つ彼女。
「なんで俺だけ噛むの?」
「………」
スネ子は、その言葉にふと口をつぐんだ。
「へ?」
「いや、他にも男子はいるでしょ?
「………」
「噛みたくならない?」
「え?」
「いや、だから。なんで俺だけ噛むのかなって」
「へ? え? …。」
蛇原は、まるで予想外のパンチを食らったボクサーのように硬直し、顔は真っ赤だ。
視線は泳ぎ、口はパクパクと開いたり閉じたりを繰り返す。
「え、え、それは……」
と何か言いかけるものの、言葉にならない。
(この反応は…)
(どうやら、見下している相手に対する反応では無さそうだ)
あぁ、よかった。根津は内心で安堵した。もし「自分より立場が下の相手」だからという理由で噛まれているのなら、自分という人間はあまりにも惨めだ。
でも今の蛇原の反応を見る限り——どうやらそういうことではなさそうだ。
教室内は、いつもの休み時間と変わらずざわついていた。
誰かが笑い、他の誰かが廊下へ駆け出していく。
●
——予想以上に蛇原の反応が大きく驚いた。
蛇原が自分を「どうでもいい存在」と思っているのなら、こんなふうに慌てふためくことはないはずだ。
根津ミキオは後ろの席の同級生が、自分の事をどの様に思っているか聞きたかった。
その欲求は抑える事はできずさらに詰め寄る。
蛇原の顔は赤く、目を逸らし、しどろもどろになる。こんな姿、今まで見たことがなかった。
「なんで?」
根津はじりじりと彼女に距離を近づける。
いつもと逆の立場。追い詰められているのは、根津ミキオではなく、蛇原スネ子だった。
「え……それは……」
蛇原が困ったように目を泳がせる。
根津は、気が緩んでいた。
自分が心配していた「見下し」が噛まれる理由じゃないと分かったからだ。
むしろこれは……もっと別の感情かもしれない。
蛇原スネ子は、自分のことを他の男子よりかなり「特別」に思っているかもしれない。
いや、ひょっとすると——「好きな人」「付き合いたい人」なんてのもありそうなリアクションだった。
「ねぇ? なんで? なんで?」
根津は知りたかった。
間にある机ごと前に乗り出した根津。蛇原が思わず椅子ごと後ろへ下がる。さらに距離を詰めると、彼女の肩が小さく震えた。
「なに? 何か隠してるの?」
(何か言いづらいことでも隠してるんだろうか?)
そう勘繰ってしまう。
「え? なになに?」
突然の尋問ショーに、クラスの男子たちが群がってきた。しかも、追求する側とされる側がいつもとは逆だった。
クラスの女子たちは呆れ顔で根津を見ている。
「それって聞く?」
「アンタ、分かんないの?」
「だからネズミなんだよ」
女子達は毒付いた。
1人の男子生徒が、茶化すように言った。
「好きだからだったりして」
他の男子たちは笑い、蛇原は頭を抱える。
(……蛇原が俺のことを好きだったらいいのにな)
根津はそんな淡い期待を抱く。
普段、蛇原とは仲の良かったので、彼はそうかもと感じることもあった。
でも同時に「その望みは薄そうだ」とも思っていた。
根津がそう感じていた理由を、クラスの男子達が代弁してくれた。
「そりゃ無いだろ!普通、好きな男子をクラスの面前で噛みついて保健室送りにするか?」
「あははは!そりゃそうだ!」
クラスの男子たちは楽しそうに盛り上がる。
それとは逆に、根津の気持ちは空気の抜けた風船の様に沈んでしまった。
(そう。しない。女の子は好きな男に、噛み付いたりはしないのだ)
根津ミキオは、そう考えていた。
蛇原が俺に遠慮なく接してくれるのは嬉しい。でも、それは恋愛とは違う気がする。
クラスの男子達も、根津と同意見出会った様だ。
その空気を察していて、あくまで冗談としてからかっていた。
だが、クラスの女子達の見解は違った。
「田川! その汚ねぇ口を閉じろ!」
クラスの武闘派女子が鋭い声で言い放つ。
冗談を言った男子が「はぁ?」と間抜けな声を上げるが、彼女の眼光にすぐに黙る。
いつも根津を地面にねじ伏せてクラスの男子から密かに恐れられる蛇原スネ子。
反面、普段は無口で目立たず、どちらかといえばおとなしい性格だった。
それゆえにクラスの女子たちからは「放っておけない存在」として認識されていた。
彼女の内気な態度は、女子たちの保護本能をくすぐるのかもしれない。
窮地に陥った彼女を救うべく、まるでライオンから子どもを守る動物の集団の様に動き出す。
女子たちは一瞬で連携し、動きは素早かった。まるで群れをなすシマウマが、肉食獣に囲まれた子どもを守るように、スネ子を囲い込む。
クラス女子達の不機嫌な鋭い眼光と威嚇で、一瞬前までは軽い冗談だったはずの話題が、今や誰も触れられない禁忌となった。
まるで群れの掟に反した者が、無言の圧力で沈黙させられるかのように、男子たちは次々と口を噤んでいく。
クラス全体は、女子たちの威嚇によって静けさを取り戻していた。
しかし、その中心にいる蛇原スネ子だけは、全身がこわばったまま動けずにいた。
彼女の中ではまだ緊張の嵐が吹き荒れていたのだ。
「(うぅ……。最悪だ)」
蛇原の黒髪が、顔を覆うように垂れ下がる。
根津がふと視線を向けると、蛇原は顔を伏せ、黒髪がカーテンのように垂れ下がっていた。
まるで自分の存在を消そうとするかのように縮こまる彼女の様子に、冷静になった根津はやっと気付いた。
蛇原スネ子は誰にも聞こえない位の小声でつぶやいた。
「このままだと……」
桃色の肌は徐々に、凍てつく氷のように青白くなっていく
「バレちゃう……」
目は、極度の緊張から細く絞られていく。
「しかも、みんなの前で……」
話題は強制的に打ち切られたものの、教室の空気はまだざわついていた。数人の男子が小声でヒソヒソと話し、女子の一部は「まったくもう」と肩をすくめながら談笑している。席を立つ者、廊下に向かう者、いつもの休み時間の風景が戻りつつある。
髪の毛のカーテンで仕切られて、塞ぎ込んだ彼女の変化は、クラスの誰も気付かなかった。
根津は、心配して下を向く彼女を覗き込もうとした。
「蛇原、大丈夫か?」
「……ダメ……」
ガシリ。
細長い蛇原スネ子の手が、根津の腕をしっかりと掴んだ。
細くて冷たいのに、その力は意外なほど強かった。
「え?」
根津ミキオの間抜けな声が口から漏れる。
その声を合図に、クラス全員の視線は再び腕を掴む蛇原スネ子に集まった。
そして根津も、クラスメイトも、全員が凍りついた。
それが危険なシグナルである事は、クラスの全員が知っていたからだ。
しかし、彼女の腕を掴んだ行動が、理解ができなかった。
そんな時間の止まった様な一瞬の静寂の中
ただひとつ動いたもの。
それは――蛇原スネ子の口元だった。
パカリ、と大きく開かれる。
可愛らしい蛇原の豹変に、唖然とする女子達。
突然の驚きの光景に、目を見開く男子達。
急に腕を掴まれ硬直して動けない根津ミキオ。
ガブリッ!!
「うわぁぁぁぁぁ!!!」
根津の叫び声が教室に響き渡る。
蛇原スネ子の小さい頭は、根津ミキオの左腕にピタリくっ付く。
その口は真っ二つに裂けて、太い根津ミキオの右腕に齧り付いていた。
蛇原が根津を噛むのは珍しくない。
むしろ日常茶飯事だ。そのためクラスメイト達は噛まれた位では驚かない。
だが、今日のこれは違う。
いつもの蛇原スネ子とは明らかに違っていた。
教室の空気はぴんと張りつめ、誰もが声を失う。風もなく、時計の針さえ止まったかのようだった。
そう――蛇原スネ子は、「極度の緊張」でも牙を向くのだ。
まるで、圧力が限界を超えた機械が安全弁を作動させるように。
蛇原スネ子にとって「噛む」という行為は、過剰な負荷がかかったときに作動する回路のようなものだった。
安全装置によって動き出した蛇原スネ子とは対照的に、まるで機械のスイッチが一斉に切られたかのように、クラスメイト全員が突然の出来事に動きを止めていた。
彼女の新たな一面に驚きながら、薄れゆく意識の中で根津は思った。
(結局、蛇原は俺をどう思ってたんだろう)
こんな事になるのなら、彼女と2人の時に聞けば良かった。
重くなったまぶたを閉じながら、根津は後悔する。
視界情報が遮断された根津の脳は、神経毒の効果で強制的に休止状態に入る
そう。
保健室なんかが良い。
彼女はよく保健室に自分の見舞いに来てくれる。
(今日は来てくれるだろうか?)
彼の意識は漆黒の闇に呑まれていった。
ドサッ。
静まり返った教室に、根津の身体が崩れ落ちる鈍い音だけが響いた。
ーー
根津ミキオは、いつもの様に保健室へ運ばれた。
彼がベットで寝ている間のクラスでは…
クラスの女子たちからの厳しいお叱りで、男子たちは蛇原をからかい過ぎたことを反省した。
「ごめんな。蛇原」
「本当ごめん!悪気は無かったんだ!」
謝るクラスメイトの男子達
「ううん。だ、大丈夫だよ…。き、気にしてない…」
蛇原スネ子は苦笑いしながら答えた。
「お前ら、いつもそうやって口先だけの謝罪をして!」
女子達はまだ怒っている
「本当に反省してるんだよ」
彼らの本心はどうあれ、クラスの女子全員から睨まれてはスネ子に全力の謝罪をする他なかった様だ。
ーー
蛇原スネ子は保健室へ行く足が重かった。
彼女が根津を噛んでしまった時、保健室で目を覚ます彼を休み時間に毎回見舞いに行っていた。
いつも、彼に対する申し訳なさの反面。
保健室で過ごせる根津との時間は嬉しかった。
でも今日は違う。
(目覚めた根津君に同じ質問をされたら、何て答えよう)
そう考えると気が重かった。
根津は彼女の毒牙で何度も保健室送りにされている。
彼が「自分だけ噛まれる理由」を聞きたくなるのも当然だし、迷惑を掛けている手前、話す義務はある様に思えた。
だからと言って、根津本人に簡単に話せる様な内容では無かった。
むしろ根津だからこそ、話せない。
そんなことを考えながら、蛇原スネ子は重い足取りで保健室に向かった。
ーー
目が覚めると、見慣れた天井があった。
(ああ、またか……)
保健室のベッドの上。いつものことだ。蛇原に噛まれると、根津は決まってここに運ばれる。
ふと横を見ると、蛇原がベッドの横の椅子に座っていた。
「……起きた?」
「……ああ。悪い、また気絶してた?」
「うん」
「ごめんな。蛇原」
「ううん。私の方こそ噛んじゃって、ごめん」
沈黙が流れる。二人の間には、言葉にすれば壊れてしまいそうな、ぎこちない空気が漂っていた。
「あのさ、蛇原。」
先に話し始めたのは、根津の方だった。
「さっきの話なんだけど…」
幸運な事にこの時間、入江先生は保健室に居ない様だった。
貴重な2人きりのこの時間を利用して、聞きたかった答えを聞いてしまおう。そう根津は考えた。
「うん」
「あの…。どうして俺だけ噛むのかな…って」
先程とは打って変わって、モジモジしながら質問する根津。
「うん…」
「それはね…」
下を向きながら恥ずかしそうにスネ子は話し始めた。
「うん」
(やっと聞ける)
ゴクリ。
根津ミキオは緊張からか唾を飲む。
彼女の中の俺の扱いは…。
「根津君からのその質問には、回答しません」
「………」
「は?」
「いや、だから。お答えしません」
「え?」
「えー。でもさ」
「拒否します」
「いやいやいや…」
「え?マジ?」
「うん」
蛇原スネ子は、首を縦に振る。
「え?でもさ。俺…」
黙るスネ子
「結構、噛まれてるし」
「うん」
「噛まれて、授業受けられなくて、割と苦労してるんですけど…」
「そうだよね。それは謝るよ」
彼女に恨みがある訳では無かった。
ただ、どうしても知りたかったのだ。
彼女が自分をどう思っているかを。
「なぜ噛むか?」
その答えを聞けば、それが分かるかもしれなかった。
「でもさ!」
根津はベットから身を乗り出した。
カパリ
蛇原スネ子は、用意してきた様に自分の口をまん丸に開いた。
「うわっ!」
何度もその白い牙に噛まれている根津ミキオは、ベッドの上で飛び退いた。
そして、恐怖の表情で蛇原スネ子を見つめる。
彼女は、根津との距離が出来たことを確認すると、恥ずかしそうに口を閉じた。
窓の外では校庭の喧騒がかすかに聞こえるが、この部屋だけは別世界のように静まり返っていた。
「いやでもさ!」
気を失う前に掴みかけた「答え」を諦めきれず、再び根津ミキオは体を乗り出す
カパリ
蛇原スネ子は、まるで歯医者に来た患者の様に口を開いて白く整った歯を根津に見せた
「!」
根津は反射的に彼女から離れた。
保健室がまた音の無い空間に戻る。
スネ子はベッドの側の椅子で、何事もなかったかのように落ち着いている。
一方で、根津の頭の中は混乱していた。
「え?…」
自体が飲み込めず言葉が出ない根津。
ベッドの傍でじっと動かない蛇原スネ子。
そしてしばらくすると、やっと今のこの状況を理解した根津ミキオは、口を開いた。
「ズルくない?」
静かな保健室の中で漏らしたのは、不満の声だった。
「でも…。
ズルい女は良い女なんだって…」
「は?」
いつもの蛇原らしくない返答と行動。
これが彼を混乱させていた。
黙っている彼女を見ながら、しばらく考え込んだ根津ミキオはピンと来た。
蛇原スネ子に、こんな知恵を授けた張本人の存在を。
ガラッ
保健室のドアが開く
「あら、起きたの?」
保健室の先生、入江奈美
彼女は女子生徒の良き相談相手でもある。
クラスの女子達も入江先生によく相談していた。
特に男子への接し方については、的確なアドバイスをくれるらしい。
蛇原スネ子も、自分の特異体質の事でよく先生に相談している。
大方、自分の目覚める前に今回の件も報告したのだろう。
そして、諭されたのだ。
男の質問を上手くあしらうテクニックを。
(よ、余計なことを〜!)
根津は、入江先生を睨みつけたが、先生は涼しい顔で自分の席に付き仕事を始めた。
「起きたのなら早く帰りなさい。次の授業が始まるわよ」
ーーー
保健室の帰り。
教室への階段で、ふてくされた根津は珍しくスネ子とは話さなかった。
蛇原スネ子は、申し訳なさそうに何度か彼の顔色を伺っていた。
結局、根津は彼女の「噛む理由」を聞き出すことはできなかった。
(つづく)