蛇女は心配する
木曜日、教室の中は午後の気だるさに包まれていた。
窓の外では風が木々の葉を揺らし、遠くで体育の授業の掛け声が聞こえる。
数学の時間、蛇原スネ子は前の席に座る根津ミキオの背中をじっと見つめていた。
妙に彼の背中の事が気になっていた。
「(……噛みたい)」
「背中を噛みたいと話したら根津君は何て言うんだろう」
いつもは根津ミキオの腕に、その白い毒牙を打ち込む蛇原スネ子には、一風変わった「噛み癖」があった。
男子高校生らしく、少し猫背気味な根津の「背中」。
学ランの襟が少しよれている。
根津のその広い背中に自分の尖った牙を打ち立てたい。
授業中、蛇原スネ子はそんな欲求を覚えていた。
「……じゃあこの問題は……」
授業中、突然の先生の発言にビクッと肩を揺らす。先生がこちらを見ていた。
「この問題、答えられるか?」
黒板には白いチョークで方程式や関数が、書かれその下には解くべき例題が示されていた。
「じゃあ、根津」
彼女は、数学教師から指名された前の席の根津に視線を送る。
「……(分かんない!)」
根津は追い詰められ言葉が出てこない。
彼の窮地が背中から伝わってきた
(そうだった……根津君、授業について行けてないんだ。)
根津ミキオは不真面目な生徒では無かったが、彼女の毒牙で授業を度々休むのだ。
理論の積み上げである数学の授業は特に、何度か休んでしまうとついていくのが大変な科目だ。
「根津君が授業に遅れているのは、自分のせいだ…」
蛇原スネ子は、そう考えてしまった。
午後の授業時間。
根津ミキオの背中を見て幸せな気持ちになっていた蛇原スネ子は、この時から心に黒い罪悪感を抱えることとなった。
ーーー
次の日
初夏、梅雨が終わったはずのこの時期に、窓の外にはどんよりとした湿気を含んだ空気が漂っている。
金曜の3時間目、教室は明日からの週末を控え、いつもよりざわめきが増していた。
蛇原スネ子は、自分の机に突っ伏して深いため息をついた。
「……今週は、3回も噛んでしまった」
ぼそっと呟いた。
昨日の一件から、後悔の念が彼女の胸を占めていた。
根津ミキオの腕には、今週だけで3回分の赤い痕がついている。
そのせいで彼は3回も授業を欠席した。
一度噛まれたら彼女の特異体質の「神経毒」で3時間は授業に出られない。腕も痛いだろうし、何より欠席続きで授業についていけないのは当然だろう。
自分も進んで噛みたい訳では無かったが、こと根津の事になるといつもは大人しい蛇原スネ子も見境が無く自分を見失ってしまう。
その結果が「週3回も噛む」であった。
また、心の奥底で「噛みたい」と思っている自分が居た。
彼女は、良心の呵責に苛まれる。
彼女の特異体質——噛んだ相手を麻痺させてしまう毒は、直接的にせよ間接的にせよ今までも度々彼女の大切な人間関係を破壊してきた。
過去の辛い記憶を思い出して蛇原スネ子は自分の特異体質を呪う。
「……根津君に、申し訳ない……」
誰もが楽しみにする週末を前にしても、スネ子の胸のモヤモヤは晴れなかった。
その事を考えると何となく気が引けてしまい、今日は朝から一言も話しかけていない。
いつもなら、もう3〜4回は根津と話しているだろう
(……私は、根津君に良い存在では無いのかもしれない)
そんな不安が、じわりと心を締めつけた。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
教科書を閉じる音や椅子を引く音が、次々と教室に響く。
一方の根津ミキオは、金曜の昼を物足りない気持ちで過ごしていた。
(蛇原、ずっと元気ないよな……)
朝から一言も話していない。
いつもならちょっかいの一つでも出してくる時間なのに、今日は会話すらなかった。
もしかして、体調が悪いのか? それとも、何か嫌なことでもあったのか?
昼休み、根津は後ろを振り返り彼女の方を向いた。
「お前、どうしたの?」
「え? 何が?」
「元気なくない?」
「……何でもないよ」
言葉とは裏腹に、彼女の声にはどこか力がなかった。
「(やっぱり、元気が無い……)」
家庭のこと?それかプライベートな事なのか?
彼女との距離を「近い」と感じていた根津ミキオは、自分の「自惚れ具合」に苛立っていた。
午後の授業が終わり、帰り支度をする頃になっても、蛇原スネ子の元気は無かった。
そして、彼女はカバンを持ち、教室を出ようとする。
「(——あ、月曜日まで会えないぞ)」
そう思い付いて、根津ミキオは帰り支度を中断して彼女を制止する。
「——蛇原、ちょっと待て」
教室を出ようとした彼女に声を掛けた。
彼女は、根津の強引な呼び止めに機械的に振り返った。
「やっぱ、元気ないじゃん。どうしたの?」
心配そうな顔で問いかける根津。
彼女は聞かれた質問について無機質に答えた。
「今週は三回も噛んでしまったでしょ。根津君、私のせいで寝込んじゃって、授業に出られなかった」
落ち込んだ声で、心の内を吐露する。
しかし、その後の言葉は続かなかった。
「根津君が授業に遅れているのは、自分のせいだ…」
スネ子は少しだけ涙が出そうになった。
クラスメイト達はすでに半数は教室を出ていた。机から椅子を引く音が、ぽつぽつと響く教室で、突然根津が笑い出した。
「あははははは!」
蛇原スネ子はキョトンとする。
「え……何が面白いの?」
困惑するスネ子に、根津は肩を震わせながら「ごめんごめん」と笑い続ける。
「そんなことだったんだ。ずっと元気がなかったの」
「え?」
無機質な人形の様な彼女には、根津の言葉の意味がわからなかった。
根津は笑いながらも話を続ける。
「元気なかった理由が、そんなことだったなんて」
「……そんなことって」
スネ子は元気の無いままの低い声で、反論した。
「大事なことじゃない」
「どうでもいいことだよ。俺にとって。授業出られなかったなんて。成績が悪くなるなんて」
「え? なんで? 大事なことでしょ?」
ずっと下を向いて話していた蛇原スネ子は、やっと上を向いて彼に話しかける。
「……まあそうか。確かに大事かもしれないけど」
少し考え、根津は言葉を続ける。
「うん。そうだな。成績悪くなったら困るしな」
「ほら、そうでしょ?」
「でもさ——」
笑いで目を潤ませながら、根津は言った。
「蛇原が、元気なく一日を過ごすことに比べたらさ。そんなの、本当にどうでもいいことだよ」
「……は?」
「本当どうでもいい。俺にとっては」
「……何それ」
家庭で嫌な事があったのかも。体に病気が見つかったのかも。
根津ミキオは、彼女の元気の無い原因について、終日そんなことを考えていた。
全て自分にはどうしようもないと、この日根津は無力感を覚えていた。
それなのに。蓋を開けてみれば、彼女の元気の無い理由は「噛まれたことで、自分の成績が悪くなるかも」であった。
そんな答えが返って来るとは思わなかった根津は、「安堵感」と「自分の無駄な努力に対する滑稽さ」で、体の中から込み上げる笑いが止まらなかった。
「あはははは!」
根津がまた笑う。
何がそんなに面白いのか?
蛇原スネ子は、ポカンとする。
でも、心の奥から湧き出てくる暖かい気持ちで、彼女の塞ぎ込んでいた目に活力の光が少し戻った。
教室の窓は開いていて、外の風が入ったのかふわりとカーテンが揺れた。
2年2組の生徒達の机の上には、プリントが無造作に広げられていたり、誰かの置き忘れた消しゴムが転がったりしていた。
そんな、何気ない放課後の教室の景色の中で。
あっけらかんとして彼女の不安を吹き飛ばす根津ミキオの笑い声は、彼女が「呪われた特異体質のみじめなヒロイン」ではないと感じさせてくれた。
「何それ…」
根津の笑いは止まらない
「私だけがバカみたいじゃない……」
蛇原スネ子は顔を下に向け、黒くて長いその髪は重たらしく地面に向かって伸びていた。
そして、彼女の口が真一文字に開く。
彼女の白い牙がチラリと見えた!
突然変わった不気味な雰囲気に気付き、畏怖を感じて根津ミキオは後ろに飛び去った。
さっきまで笑っていた彼の顔は一転、恐怖で凍りついた。
彼の目は、異様な蛇原スネ子に釘付けとなる。
「へ、蛇原?」
一瞬の静寂の後……
彼女の声がこだまする。
「あは、冗談だよ」
彼女の真一文字の口は、なんとも可愛らしく三日月の形をしてケタケタ笑っていた。
「な、なんだよ!冗談かよ」
まだ恐怖に引きつる顔の根津ミキオは、そう言うのが精一杯だった。
桜色に染まる頬が印象的な彼女の笑顔は、根津が今日一日見たいと思っていた表情だった。
「仕返し…」
蛇原スネ子は、笑いながらそう続ける。
「え……仕返し?何の?」
根津は聞き返す。
帰る途中だった蛇原スネ子は、「彼ともっと会話していたい」という気持ちを抑えて、「恥ずかしさ」から会話をそこで切り上げた。
そして足早に廊下に出る。
廊下には下校する生徒が居たが、彼女はお構いなしに走る速度を上げた。
校舎の階段を素早く駆け降りながら、蛇原スネ子は、心の底から湧き上がる暖かい気持ちと共に、思ってしまう。
そういう人なのだ……。
彼女と何気ない会話をしてくれるクラスメイトは。
見惚れてしまう教室の前の座席の背中の持ち主は。
彼女がいつも、抑えられない怒りを覚えてしまうその男性は。
そう。
根津ミキオという人間は、そういう人なのだ。
昇降口から外に出ると、先程まで感じていた外の重たらしい空気はすでにどこかに消えていた。
初夏の風が吹き抜けていく。
彼女の気持ちを表した様な清々しい風だった。
(つづく)