午後の蛇姫は、ご機嫌ななめ
【第3回
午後の蛇姫は、ご機嫌ななめ
昼休み、根津ミキオは机に突っ伏しながら、隣のグループの会話をぼんやりと聞いていた。
「踏みたい背中だよ。小説のタイトル」
「へぇ〜、なんか痛そう」
「いや、文学的な意味があるんだろ。読んでねえけど」
すると、突然クラスメイトの一人が、蛇原を指さしてニヤリと笑った。
「蛇原の場合はさ、“噛みたい腕” だよな」
ドッ!!
教室が一瞬で爆笑に包まれた。
「確かに!」
「蛇原って、根津のこと噛むもんね」
「もうタイトル変えちゃえよ、『噛みたい腕』で」
「あ、あははっ…(苦笑)」
話題の中心になった蛇原スネ子は、クラスメイトの男子に言い返す勇気も無く引きつった笑みを浮かべて、自分のその特異体質を呪いながらその場を耐えていた。
多様性教育の賜物か、蛇原スエ子の特異体質はこの高校ではすんなり受け入れられていた。
この程度の嘲笑は、過去幼稚園•小学校•中学校で彼女が受けた扱いに比べれば可愛いものだった。
もう1人の当人である根津は、小説のタイトルにまで格上げされた自分の腕を見ながら深いため息をつく。
「全然笑えない……」
ため息と共に本音がこぼれ落ちた。
ーー
この日、蛇原スエ子は根津に話し掛けるのを我慢していた。
午前中にクラスメイトから茶化されたからではない。
彼女の特異体質(神経毒)の効果。
度重なる保健室送りで根津が「授業に出られない事が多くなってる」と心配していたからである。
一度、彼女の毒牙にかかると約三時間程度、保健室で寝込むことになる。
授業にすると2〜3コマだ。
不用意な「噛み付き」に発展しない様に、彼女の方から根津と距離を置き自分をセーブしていた。
そんな事はつゆ知らず、根津は5時間目の授業前に他のクラスの女子と仲良さそうに話していた。
少なくとも蛇原スネ子からはそう見えた。
欲求不満の「蛇姫」には、充分に癇に障る行為だった。
休み時間が終わり、根津が廊下から教室に入ると、背後から静かな忍び寄る影があった。
「ねぇ、根津君」
「うわ!蛇原」
いつも彼女は唐突に後ろから現れる。
「今日、初めて喋る。ね?」
「え?そうか?」
意を決して満遍の笑みで話しかけた彼女に対して、根津ミキオの受け答えは淡白だった。
せめて「そうだな。俺も寂しかったよ」位の返答をしていれば違ったのかもしれない。
しかし、平均的な男子高校生である彼はそんな高度な受け答えをする技量を持ち合わせてはいなかった。
蛇原スネ子は口を尖らす。
「(へー、そうですか)」
「(コチラは我慢して、授業に影響の無い様にずっと我慢してきたのに!)」
「(ソチラは、気にすらも留めてなかった訳ですか)」
根津からの思わぬ質素な回答に心が折れそうになる。
が、蛇原スエ子は頑張って会話を続けるために切り返す。
「私には喋りかけないのに、隣クラスの子に話し掛けるんだね」
平静を装って絞り出した彼女の返答。
だが、その言葉の中には明らかな「棘」を隠しきれずに含めてしまった。
そんな彼女の心の攻防にはお構いなしに、根津はマイペースに応答した。
「え?いや、ただ聞かれたからプリント見せただけだぞ」
根津のあまりに気の抜けた返しに、彼女のボルテージが高まる
「いーや、めっちゃ楽しそうだった!」
蛇原スネ子は、声を荒げて根津を睨み付ける
「はぁ!?」
根津は眉をひそめる。
「 なんだよそれ!言いがかりだよ!」
身に覚えの無い糾弾に、根津も言い返した。
「これじゃ、私がバカみたい」
「は?」
朝から決行されていた蛇原スネ子の大作戦は、根津ミキオからは見えないオペレーションだった。
「あの子は、根津君にとって大切な子なんだね」
血が音を立てて逆流するような感覚とともに、彼女の瞳が鋭く光った。
「え?ただの去年のクラスメイトだぞ」
午後の休み時間の終わり。
これから始まる退屈な授業を前にして、突然始まったマッチアップに、クラスメイト達も盛り上がる。
クラスメイト1「お!始まった?」
クラスメイト2「いけー!やれー!スネ子」
クラスメイト3「ネズミ〜。また怒らせたの?」
「だって、あの子最近よく来るじゃない」
蛇原スネ子は食い下がる。
「いや、隣クラスだし。来るのは普通じゃ?」
「ほら!やっぱり庇った!」
「かばってねえよ!お前の理不尽な追求に文句言ってるんだよ!」
「そんなに肩を持つなんて……もう許せない!」
「話、聞けー!!」
蛇原スエ子は、普段は大人しく控えめな性格である。
根津も彼女とはかなり馬が合い、彼女との会話をとても楽しんでいる。1番楽しい会話相手と言っても良かった。
しかし、一度スイッチが入るとこんな感じだ。全く話が通じない。
根津はその様に感じていた。
「蛇原、落ち着けって!」
クラスメイト「なになに?今日の喧嘩のネタは何〜?」
わき上がるクラスメイト達に根津ミキオは苛立ちを覚ええる。
「(ちぇ!みんな他人事だと思って!)」
いつもは男女問わず仲の良いクラスメイト達だが、この件に関しては彼は孤立無縁。誰も頼る事のできない孤独なファイターだった。
なおも、根津ミキオは必死に説得を続ける。
自分は潔白だ。
というのが、彼の主張だ。
しかし、蛇原スネ子という捕食者の獲物、ネズミである彼は、迫り来る毒牙を何とかしなければこの学級では生き残れなかった。
説得虚しくスネ子はズンズン詰め寄ってくる。根津は後ずさるしかなかった。
彼女の優しく済んだ目の瞳孔は、蛇の目の様に縦方向に歪に吊り上がっていた
「わ!蛇原!待て!(ヤバイ!ヤバイ!)」
いつもは健康的なほんのり桜色を帯びた頬は、白磁の肌に変わっていた。その肌は教室に入る午後の光さえも冷たく感じさせ彼女の美しさをいっそう際立たせていた。
彼女の目や肌や雰囲気の変化は、特有の攻撃モードへの移行のシグナルだった。
とは言っても、何度も毒牙を喰らっている「根津ミキオ」位しか分からない些細な変化ではあった。
ぐいぐい
周りの目など気にせずに、自分とくっつく程まで近付く彼女に、根津は恥ずかしさも感じてしまう。
自分の安全を死守せねばならない「逃走者」としては失格の行為だった。
「ち、近いよ!」
香水なのか何なのか。いつもの彼女の良い匂いがする。
根津ミキオは、何度彼女に噛まれてもこの近距離には慣れない。
ドキドキしてしまうのだ。
恐怖なのか異性への照れなのか、彼はいつも混乱してしまう。
「お、おい!や、止めてくれ!?」
声が上擦る。
根津にもう周りの目を気にしている余裕は無かった。
根津は顔を引きつらせながら後ずさるが、遂に教室の隅まで追いやられてしまう。
「(不味い!もう逃げ場が無い!)」
ボクシングで劣勢の選手がコーナーに追い詰められたかの様に!
クラスメイトの、男子の興奮の渦は留まる所を知らずうなぎ登りに沸き立つ!
スネ子の目がギラリと光る!
そして次の言葉が、捕食者から獲物への死刑宣告として告げられた。
「そんなに……あの子と話すのが楽しいんだね?」
蛇原スエ子ともっともっと仲良くなりたいと願う根津ミキオにとっては、別の意味でも死刑宣告だった。
「ち、違う!俺は!俺が話してて楽しいのは、、。」
彼の必死の弁明は、蛇原スネ子の耳には届かない。
美しいその指先は、彼の腕を掴んでいた。
彼女と手をつなぐ形となった。
が、もはや根津ミキオにそのドキドキを楽しむ余裕は無かった。
「待て!蛇原」
「やめ──」
ガブリ!
「ぎゃああああ!!」
蛇原スネ子の尖った歯が、根津の手首に食い込む。
彼女の漆黒の欲望は、美しく白い彼女の牙を通して、根津の腕へと入り込む。
誰もその侵入を止める事はできなかった。
日常生活で充分に愛情を表現できない彼女にとって、「噛む」という行為は自己の存在を相手に認識させる行為でもあった。
現にこの時間、根津ミキオの全身全霊は蛇原スネ子に向けられていた。
クラスメイトの注目も同様だったが、それは今の彼女にとっては目にも耳にも入ってこなかった。
(毎回、後で死ぬほど後悔するのだが)
根津ミキオの体は痙攣すると力が抜け、教室の隅で床に崩れ落ちた。
知らない人が見れば救急車を呼んでしまう様な光景だが、この2年2組にはそんな初心者は居なかった。
蛇原スネ子は、まだ彼の腕から牙を抜かず、彼の手首を握りしめたまま愛おしく眺めていた。
振り乱された長い漆黒の髪が、欲望の終息と共にいつものしなやかで優雅な黒絹に戻っていった。
朝満たされていなかった彼女の欲求不満は、こうして5時間目の始業チャイムの音と共にどこかに消えていた。
──薄れゆく根津ミキオの意識の中に、クラスメイトの爆笑が聞こえた。
「先生ー!根津君がまた倒れましたー!」
「蛇原、噛みすぎ〜!」
「でも、根津君も女の子にちょっかい出しすぎだよね」
「ち、違うんだ〜……」
クラスメイト女子達の彼への批判には反論がしたかった。しかし、彼の体に巡る神経毒は彼にその時間を与えなかった。
バタリ。
蛇原スネ子は、黒髪長身で見た目も悪くない。
大人しく控えめな彼女は、さしずめ「京美人」と言った所だろうか。
しかし、男を1人を簡単にねじ伏せるこの惨劇を目の前に、彼女に公然と言い寄るクラスの男子は居なかった。
教室の床に無様に醜態をさらした根津ミキオは、無事今日も保健室送りとなった。
(つづく)