第12話 横浜駅中央口の決闘
夕方の横浜駅中央改札口は、学生や買い物客でほどよく賑わっていた。
学校帰りの高校生たちが笑い声を響かせ、揺れるリュックを肩にかけながら改札を抜ける。
買い物袋を提げた若い女性や外国人観光客が通路を歩き、手をつないだ親子連れが人波を縫うように進んでいた。
帰宅途中のサラリーマンはまだ少なく、駅構内にはゆったりとした空気が流れていた。
赤い靴のモニュメントの前では待ち合わせの人々が小さく固まって、ざわめきの流れに島を作っていた。
そんな人混みの中に、肩を並べて歩く二人の姿があった。
蛇原スネ子は、腰まで伸びた黒髪をそのまま背に流していた。
普段、無表情に見える切れ長の目は少しほころんでいた。
歩く姿勢は真っ直ぐで、周囲のざわめきに混じらずにいる。
根津ミキオは、その横で背中にリュックを背負いながら歩いていた。
白いスニーカーは使い込まれて薄汚れている。背丈は彼女より少し高く、同じ制服を着て並んでいると、それなりに釣り合って見えた。
「横浜に用があったの?」
「うん……ちょっとね」
人混みの濁流に呑まれていても、目に馴染んだ同じ制服の存在は際立つ。
だからこそ、こうして横浜駅で彼らは互いを見つけ出せたのだった。
しばらく歩いていると、改札口の前、流れる人波の中に、ひときわ目立つ六人組がいた。
髪を染め、制服を着崩し、だらしなく笑いながらたむろしている。
(うわっ、ヤンキーか……)
根津ミキオは思わず視線をそらした。関わらない方がいい。そう思って歩きかけたその時——
「おっ、根津じゃん!」
突然、背中越しに声をかけられた。
振り返ると、さっきのグループの中のひとりが、手を振ってこちらに笑いかけている。
顔を見て根津は固まった。
「……え、うそ、同級生かよ」
中学時代の隣のクラスで、当時から先生に目をつけられていた彼だ。
色の抜けた茶髪をかき上げ、開いた胸元から銀のチェーンがのぞく。
その態度は、通行人の視線を引き寄せていた。
制服からして、同じ学区の「評判の良くない公立高校」の生徒らしい。
シャツは外に出され、ネクタイは緩み、スニーカーの踵はつぶれている。
同じ制服を着崩した六人が肩を並べ、改札前の流れを塞ぐように立っていた。
通行人は彼らを避けるように足早に通り過ぎていく。
「久しぶりじゃん、元気?」
「お、おぉ……元気、元気」
——同族を見分けられるのは、何も自分達だけではなかったようだ。
自分1人での再会なら喜べたかもしれない。
しかし、クラスメイトの女子を隣にし、見知らぬ雰囲気のイカツイ高校生達に囲まれては、少なからず危険な香りがした。
「へぇ、可愛い子連れてるじゃん」
蛇原は自然と根津ミキオの後ろに下がり、顔を少し伏せた。
心なしか、普段より少し怯えているようにも見える。
(うわ〜。面倒な時に絡まれたな)
根津ミキオは心の中でつぶやいた。
他の男達も蛇原スネ子に興味を示したみたいで、金髪の男が軽く前に出て、「どこの学校?」と興味ありげに覗き込んだ。
不良達の声に、根津は内心焦った。
(これは…やばいなぁ……)
彼は人当たりが良い方で、ひとりならどうにでも立ち回れる。
だが、彼女が一緒となると取れる行動も限られてくる。
蛇原は黙ったまま、根津の背後に隠れるようにもう一歩下がった。
「付き合ってるの?」
定番の質問が飛んでくる。
二人はほとんど同時に答えてしまった。
「付き合ってない!」
「付き合ってないです!」
横浜駅の喧騒が、一瞬だけ遠のいた。残ったのは気まずい空気だけだった。
「あ、ただのクラスメイト」
根津は簡潔に説明した。
ヤンキーたちはお構いなしに自分達の話を投げつけてくる。
「へぇ。俺、こういうおとなしそうな女子、好きなんだよ」
二人目のヤンキーが口を開いた。
金髪を無造作に立ち上げ、耳にはシルバーのピアス。制服のシャツは腰のベルトからはみ出し、足元のスニーカーは原型を留めていない。
今時の不良といった風貌だ。
(「おとなしそう」だって?!)
根津は、聞き直したい気持ちをグッと抑えた。
(お前ら、蛇原のこと何も知らないからそんなこと言えるんだぞ!)
(おとなしい子がタイプなら、別の女子を探せよ! こいつはウチの高校でも指折りの「危険女子」なんだぞ!)
とは言っても、その被害を受けているのは自分ひとりなのだが。
心の中で文句を言っても、それで事態が解決するわけではない。
必死に頭を巡らせ、この危険な雰囲気から彼女を遠ざける方法を探した。
「頭も良さそうだし」
ヤンキーが続けた瞬間、根津は反射的に口を開いた。
「あー。こいつはバカだからやめておいた方が良いんじゃない?」
いつも自分の授業の遅れを手伝ってくれている彼女を「バカ呼ばわり」するなど我ながら悪手だったが、他に手は思いつかなかった。
後ろに控える蛇原の抗議の視線が、鋭い刃のように背中に突き刺さるのを感じる。
「根津と一緒だから西校でしょ? あの高校でバカってことは無いんじゃない?」
「ウチらの高校の女子の方がもっとバカだから…」
一斉にヤンキーたちの高笑いが響いた。
その独特の「ヤンチャ高校ギャグ」に、根津は笑っていいのか笑わない方が良いのかが分からず、顔を引きつらせる。
クラスの女子が聞いたら「お前ら女子バカにすんな!」と大目玉を喰らいそうな会話だな。
そんなことを根津はぼんやり思った。
蛇原は今、どんな表情をしているのだろうか。
「じゃあさ。俺たちと一緒に遊ぼうよ」
二人目のピアス男が、蛇原の顔を覗き込むようにして笑った。
(やばい、やばい)
根津ミキオは内心で舌打ちをした。
これは、とてもよろしくない展開だった。
確かに、蛇原スネ子は「美人」だ。
普段クラスでは彼女の本性を皆が知っているため、男子たちからそうした扱いを受けることはほとんどない。
だが、他校の男子が熱を上げるのも無理はなかった。
蛇原の顔には、次第に不安の色が濃く滲んでいく。
「あの……悪いんだけどさ」
根津は彼らを制止しようと、一歩前に出た。
「なんだよ! 彼氏って訳でもないんだろ?」
三人目のヤンキーが声を張り上げる。
ヤンチャな人種特有の「大声コミュニケーション」だ。
背後で蛇原が縮こまっているのが、視線を向けずとも伝わってくる。
(あぁ、帰りたい……)
比較的いろいろなタイプと仲良くできる根津ミキオだったが、さすがにこの手のコミュニケーションをさばける訳もなく、自分の今日の不運を呪った。
が、それでも――
クラスメイトの女の子が自分の背後で怯えている。
自分のことはさておき、彼女だけは無事に、この場を去らせなければ。
「マジでツイてない」——そう毒づきつつも、根津ミキオの瞳の奥には、緊張の色が宿りはじめていた。
改札前では待ち合わせの声と駅の案内音が入り混じり、夏の湿った空気をさらにざわつかせていた。
人々を吸いこんで吐き出す横浜駅の改札は、まるで街そのものが息づく心臓のようだった。
(まずいな。どんどん嫌な方向に進んでいく……)
ひとりなら違っていたかもしれない。茶化したり、へりくだったり。
器用な根津は、いつもなら自分が負けることで場を収めることも可能た。
だが、背中に彼女がいる以上、不思議とその選択は頭に浮かばなかった。
(あぁ! もう……!)
いっそ最初から「彼女です」とでも言っておけば良かったのか。
そんなことを考えたがあとの祭りだった。
根津は考えあぐねた末に、行動した。
「悪いけどさ……蛇原は“気が強い”から、相手にされないと思うよ」
目一杯、茶化した感じて言ってみた。
あくまで、彼女を下にすることで彼等の興味を失わせる。
そう考えて言った言葉だったが。
ーーまるで彼女を自慢するかのように彼等には聞こえてしまった。
六人の目の色が変わった
彼等達の顔がピクリと引きつり、空気が険悪になる。
1番興味なさそうにスマホをイジってた男子まで怒りの目線でコチラにガン飛ばしてきた
(うわぁ、裏目った!)
(違うんですよ〜!私なんか毎週噛まれるただの鶏肉なんです)
そう説明したかったが、残念ながら彼等には何のことか理解できないだろう。
(こんな女。ダンナ達が相手にする価値もありませんぜ)
時代劇ならこんな感じか?
根津の脳みそは空回りするだけで、事態を解決する方法は導き出してくれなかった。
「ただのクラスメイトに彼氏顔されてもなぁ!」
ピアスの男は低い声でそうつぶやいた。
ヤンキーたちは声を上げ、数人が前へとにじり寄る。拳を握り、肩を揺らす。
明らかに戦いのスイッチが入っていた。
(なんなんだよ〜。コイツらのこのファイテングコミュニケーションは〜?!)
凛とした根津の外見とは裏腹に、心の内では情けなく泣き崩れていた。
だが、気になるクラスメイト女子を背にして泣き言を口にできないのが、今の彼の苦しいところだった。
同じ地区に生まれ育った同じ歳の根津と彼等は「学力」という基準で通う場所を分けられた。
根津とは違う場所に通うことになった彼等には、彼等の仲間が居たし、彼等の価値観があった。
違う「部族」に属する根津ミキオは、彼等のラインを踏み越えてしまい、今まさに彼等の「言語(=暴力)」で語り合うことになりそうだった。
根津はケンカなど一度もしたことがなかった。勝てる自信など、欠片もない。
(終わった……)
それでも、彼女の前で情けなく引くわけにはいかない。
臨戦態勢を取った根津は、自分の悲惨な末路を脳裏に思い浮かべる。
完全に「負け」が決まった戦いが、今、始まろうとしていた。
ーー
「おい!」
別方向から届いたその鋭い声に、空気が一瞬で張りつめた。
声の主は、巡回中の警察官だった。群衆の中からまっすぐ歩み出てくる。
その場には、六人の男――
彼らと対峙していた根津ミキオは、思わず息をのんだ。
その背には、制服を着た女子高生――蛇原スネ子が怯えたように身を寄せている。
警察官が一歩、二歩と近づく。
「何をしている?」
その声は低く、冷静だった。
だが、六人の男たちは警察に呼び止められることは慣れっこであるかのように、まるで挑むように立ち尽くしていた。
(マジかよ!警察官にまで喧嘩を売るの?)
根津はあまりの文化の違いに驚いた。
周囲の人々が自然と避け、横浜駅中央改札の喧騒が遠くに消えたように思えた。
根津はようやく安堵の息をつき、心の中で呟いた。
(助かった……)
ヤンキーに絡まれてる時にお巡りさんの姿ほど頼もしく見えるものはない。
しかし、警察官の視線は、まっすぐ彼に向けられた。
「君、交番まで来なさい」
「……は?」
根津の表情が固まった。
周囲で見ていた人々も一瞬ざわつく。
真面目そうに見える少年の方が連れて行かれることに、誰もが意外そうな顔をした。
蛇原スネ子は驚きに目を見開いたが、ただ呆然と事態の行方を見守るしかなかった。
彼は無言のまま、警察に連れて行かれる。
人混みの中で警察官に連れられて歩く背中を、彼女はただ黙って追いかけた。
後ろ姿が遠くなるたび、彼に何かあったらどうしようという思いが胸を締めつけた。
ーーー
横浜駅相鉄口交番の前は、夕方でも人通りが絶えない。
立ち食い蕎麦屋の出汁の匂いが風に乗り、隣のたい焼き屋には小さな列。
いつもは友人との待ち合わせに使っていた駅前の一角。
まさか自分が、よく見知った交番の内側からこの喧騒を見つめる日が来るとは。
――根津ミキオは思わずため息をしたくなった。
神奈川県最大の都市:横浜駅の中心を守る駅前交番
横浜駅で起こる犯罪は、多様だ。
万引き、公然わいせつ・痴漢などの軽犯罪から、強盗・恐喝、窃盗・スリ・置き引き・暴行・特殊詐欺(電話詐欺など)などは日常茶飯事だ。
さらに、傷害・殺傷・殺人などの凶悪犯罪まである
そして、違法薬物。
最盛期よりは減っているものの、依然として若い層を中心とした検挙は存在している。
交番の背後には警察官たちの詰め所があり、常に飛び込む事件対応で騒然としていた。
小さな机を挟み、制服の警察官と二人の高校生が向き合う。
「西高校二年、根津ミキオ君ね」
差し出された生徒手帳に目を通した警察官の視線が、次に根津の腕へと移る。
「その傷はなんだ?」
警察官の声は落ち着いていたが、疑念を孕んでいた。
机の上に晒された腕には、コウモリに噛まれたような無数の跡が刻まれている。
「へ?…これ?」
隣の長い髪の女子高生は目を丸くした。
頬の赤みを隠そうと下を向き、髪で顔を覆ったが、髪の隙間からのぞく耳は隠せず、徐々に赤く染まっていった。
「これは薬物使用者の典型的な痕跡じゃないか?注射針の跡に、皮膚の荒れ方……」
「はあ?」
根津は言葉を失った。
「い、いや、麻薬だなんて、ち、違います……」
根津は慌てて首を振る。
「ご、誤解です」
警察官が素行の悪そうな高校生を差し置いて、根津ミキオを交番に呼んだ理由はその異様な腕傷だった。
警察官は目は冷たく犯罪者を見る目になっていた。
たしかに注射痕とは異なる腕の傷だ。
だが、違法薬物の手口は日進月歩、常に進化している。
違うからといって疑いを緩める理由にはならなかった。
沈黙が重く落ちる。
「いや、その。違うんですよ」
自分の腕のこの傷は、他人からはよほど奇妙に見えるらしい。
根津ミキオは、高校での健康診断を思い出していた。
外部から来た医師の問診の際にも、同じように腕の傷を指摘された。
上手く答えられずにモゴモゴしたが、そのときは保健室の入江先生がすぐに間に入ってくれた。
その説明で医師も納得し、話は大ごとにならずに済んだ。
だが――今は違う。
ここはもう学校という「安全な巣」ではない。
自分でどうにかするしかないのだ。
取り調べはすでに10分以上続いていた。
根津ミキオはどう答えていいかわからず、唇を噛んでいたが、警察相手に嘘をつく訳にもいかず意を決して話し始めた。
「聞いてください、お巡りさん。」
「僕は、隣にいるこのクラスメイトに――毎回、腕を噛まれているんです」
根津は警察官の目を真っ直ぐに見つめて言った。
それは紛れもない真実だった。
根津ミキオの腕の奇妙な傷は、隣にいる女子生徒がつけたものだ。
「君は、ふざけているのか?」
警察官の声には露骨な苛立ちが混じっていた。
何も知らない警察官は、根津の言葉など、まるで取り合わずに、彼のその荒唐無稽な話を一蹴した。
警察官の目は冷たく、探るように光っている。嘘を見抜く目つき。
――人は嘘をつく。
それは、罪を隠すためか、恥を押し殺すためか。
「何度も言わせるな!」
怒号が部屋に響く。
典型的な自白誘導の声だった。
――罪を認めさせるための圧力
根津の肩がわずかに揺れる。
警察官は、真実を探すというより、信じた筋を貫こうとしていたのかもしれない。
その正義は、若い言葉をねじ伏せるほどに重かった。
根津の胸に、正義という言葉への疑念が、じわりと広がった。
「(だから違うって言ってるじゃん… )」
喉まで出かかった言葉を飲み込み、ただ机を見つめる。
「い、いや……だからですね……」
震える声。
だが警察官の表情は一層険しくなり、根津への不信、フラストレーションは深まるばかりだった。
そんな窮地の中で、彼は頭の片隅で考えた。
(1人だったら、しんどかった)
怒る警察官に無実の罪で詰められ逃げることができない。
これを孤独に1人で受けたかと思うと、肝が冷えた。
たとえ黙って座っているだけであっても、隣にいてくれたことはありがたかった。
良きクラスメイトである彼女に感謝しなくてはならない。
根津ミキオはそう感じた。
(え?!)
しかし、根津はふと、そんな彼女の変化に気づいた。
(おいおいおい……ちょっと待てよ)
隣に座っていたクラスメイトの表情が、彼の中とはあまりにもかけ離れていたので、驚いて声が出そうになった。
(蛇原、怒ってる……?)
彼女は、言葉を呑み込んだままの怒りで満ちていた。
目は怯えと苛立ちのあいだで揺れている。
髪は揺れることもなく、ただ張りついて動かない。
肌は緊張の熱を秘めながら、どこか冷たく見えた。
恐怖と怒りのせめぎ合いで、微かに震えていた。肌
(なんで、蛇原が怒るんだよ)
男子高校生の心を砕くその警察官の大声は、ナイーブな女子をストレスの限界へと追い詰めていた。
腕の傷の真犯人である彼女は、根津ミキオの無実を知っていたので、警察官の理不尽な取り調べに根津よりも遥かに怒っていた。
この場の緊張が、彼女の中で別のエネルギーに変わりつつあるようだ。
普通なら暴言や暴力として表に出てくるものである。
しかし、彼女の場合は違う。
それは「噛み付き」として現出される。
今まで、その牙は根津に向けられてきた。
しかし――もし、いまこの場で、警察官に向かったら。
脳内を駆け抜けた予感が、これから起こるであろうシナリオをまざまざと教えてくれた。
(え?どうなっちゃうんだ?…!)
女子高生が尋問中の警察官に噛み付いたら!?
その警察官を失神させてしまったら!?
法律にあまり詳しくない高校生•根津ミキオも、ことの重大さに青ざめた。
根津ミキオの脳内では、今日の夕方に流れるであろうニュースが聞こえてきた。
〜〜〜〜
――6日午後、横浜市西区の横浜駅相鉄口にある交番で、取り調べ中の女子高校生が突然、男性警察官に噛み付き、同警察官が一時意識を失う騒ぎがありました。
神奈川県警によりますと、女子高校生は駅構内で発生した軽微なトラブルの事情聴取のため、交番に同行していました。
取り調べ中、警察官が質問を続けていたところ、女子生徒が突然立ち上がり、腕に噛み付いたということです。
警察官はその場で意識を失って倒れました。命に別状はなく、現在は回復しています。
女子生徒はその場で取り押さえられましたが、動機については「よく覚えていない」と話しているということです。
現場に居合わせた別の警察官は、「一瞬何が起きたのか分からなかった。彼女の目は鋭く光っていた」と証言しています。
神奈川県警は「現場の対応に問題がなかったか、経緯を詳しく確認している」とコメントしており、今後、女子生徒の所属高校が会見をする予定です。
(NNN横浜ニュース/6日 18:45配信)
〜〜〜
(やばい、やばい、やばい……!)
あまりに生々しい自分の想像に、根津ミキオの顔は、本日一番の青ざめていた。
もはや彼は、警察官の怒声よりも彼女の様子のほうが気になって仕方がなかった。
(蛇原、やめろ〜 。お前分かってるよな?)
このままいけば、本当に飛びかかるかもしれない。
そうなれば公務執行妨害?
彼女は逮捕される?
根津は焦りを押し殺し、隣の彼女を見つめた。
彼はもう警察官の問いは、耳に入っていなかった。
ただ、自分の鼓動だけが激しく鳴り響いていた。
(頼む、頼むから噛むなよ……!)
部屋の空気は重く、どこまでも張りつめていた。
交番の外では、ねだったたい焼きを買ってもらえなかった幼児が泣きながら母親に引きずられていた。
⸻
交番の空気が張りつめていた。
冷たい蛍光灯の下で、制服を着た長い髪の女子高生は今にも噛み付きそうな雰囲気を漂わせていた。
蛇原スネ子の怒りは、静かに始まり、誰にも止められなくなる。
彼女の中で、何かが静かに切り替わる音がする──カチリ、と。
その瞬間、世界の色が変わる。
そうなればもう「決定事項」。
たとえそれが誤解だろうと勘違いだろうと関係ない。
怒り出した蛇原スネ子は、制御不能の列車みたいなもの。
レールの先に何があるかも見えてない。
けれど、そのまま真っ直ぐ突っ走っていく。
止まるのは、全部が壊れたあとだ。
止めるボタンなんて付いてない。
根津ミキオの脳裏を、最悪の光景がよぎった。
──蛇原スネ子が、交番でお巡りさんに噛みつく。
それはもう、「比喩」でも「冗談」でもなかった。
「止めなきゃ」と思う。
けれど、どうやって?
説得なんて、彼女の怒りの前では意味をなさない。
(どうする。止められる?いや、無理だろ?)
頭の中で何通りもパターンを試しどのルートを辿っても…。
最後に「警察官の腕に食らいつく」というエンディングに行き着いた。
──根津ミキオは知っていた。
この状況で彼女を止める方法なんて、存在しないのだと。
(止めるのは無理だ。でもアレならできるかもしれない……)
頭の中には、ひとつの案があった。
それをやれば、たぶん蛇原スネ子が警官に噛み付くのを回避できる。
理屈の上では上手くいくはずだ。
でもその方法は、あまり自分にとって嬉しい案ではなかった。
根津ミキオの胸の奥に、チリリと痛みが走った。
——もし実行したら、彼女に嫌われるだろう。
そんなやり方だったのだ。
自分の中の理性が「やるべきだ」と囁く一方で、感情が「やめろ」と引き止める。
彼女に嫌われてまで、自分がなすべき行動なのだろうか?
(でも、やらなきゃ……)
(いや、本当にやるのか?最後までやり切れる?)
喉がひどく乾いて、息を飲む音さえ大きく聞こえる。
警官の声が遠のいていく。
目の前の彼女は、何も知らずに交番に響き渡る怒声に耐えながら座っている。
——もし、この案を実行すれば、すべては丸く収まると思う。
だが、その後の彼女との関係は……?
本当にこの方法しか残ってないのだろうか?
指先が震えた。
根津ミキオは、ほんの数秒の間に、何度も何度も結論を変えながら、
それでも最後の一線を踏み越えられずにいた。
彼女の目が鋭く光るたび、体の奥がひやりと冷たくなる。
(だめだ、だめだ!)
あの牙が公の場で振るわれれば大事になる。
相手が警察官なら問題は深刻だ。
いつも後ろで笑うクラスメイトをそんな窮地に追い込みたくない。
彼女の学歴や進路だって無事じゃすまない。
自分が原因で、彼女の人生を台無しにする訳にはいかない。
動かし難い現実が、静かに根津を追い詰めていく。
逃げたい衝動を、彼はゴクリと胸の奥へ飲み込んだ。
決めなければならない。
自分の覚悟を。
そして彼は、交番の外を通り過ぎる人並みを見ながら、重い口を開いた。
「……あ、隣のクラスの林 千夏だ。」
彼は唐突にそうを口にした。
ピタッと、蛇原の動きが止まった。
「……?」
急に飛び出した場違いな発言に、警察官の顔に疑念が浮かぶ。
根津ミキオは畳み掛ける様に言葉を続けた。
「あの子、可愛いよな〜。俺、結構タイプかも」
「ふざけてるのか!?」
低い怒りの声が交番に響く。
(こわっ……警察官、怖いよう!)
神奈川県警――全国でも“荒くれ者”と呼ばれる、血気盛んな警察官たち。
蛇原スネ子は、ビクリと体を震わせる。
普段聞くことのない大人の低い怒り声に、身体が硬直し心が縮み上がる。
拳のような声で怒鳴る彼らは、まるで迫り来る壁のようだった。
(あぁ、もう!)
せっかくこちらに向いた彼女の注意が、再び警官に釘付けになってしまった。
(何にも知らないくせに!)
根津ミキオは、焦燥を飲み込むように唇を噛んだ。
(こっちはアンタを守るためにやってるんだからな!)
舌打ちするかわりに短く息を吐いた。
(ちょっとは協力しろよ〜!)
根津ミキオの作戦。
それは彼女の怒りの矛先を自分に向かせることだった。
彼女の怒りを止めるのが無理ならば、方向を変えるしかない。
蛇原スネ子は、警察官を恨めしそうに睨みつけていた。
今にもその怒声に噛み付きそうだった。
目の色は変わっていき、瞳の奥に微かに炎が灯るように見える。
(うわ……目が…)
よく見知った彼女の視線の奥の変化に、根津は顔から血の気が引いた。
(まずい。まずい! このままじゃ、本当に蛇原が警察官に噛み付くぞ!)
林 千夏 (ちなつ)など、たいして知らない隣のクラスの女子だった。
全くもって興味などない。
が、しかし根津はやらなければならなかった。
(無理ゲーだろ?!)
根津ミキオは諦めたくなる。
普段の教室ならともかく、警察官が目の前で激昂する交番で、彼女の怒りを自分に向けるなど。
猿が月までロケットを飛ばす方が、まだ成功確率が高いと思えた。
だが、おとなしい女子高生に見える彼女の“危険な本性”を知るのは、この場では唯一自分だけだった。
このまま自分が何もしなかったら、彼女が明日の地域ニュースの登場人物になるだろう。
その事実に背中を急かされながら、彼は必死に頭を回転させた。
(どうする……どうすればいい……!)
今日はなんで日だ。
不良には絡まれるし。
薬物使用と疑われるし。
お盆と正月が一度に来た。
(逆の場合はなんというのか?)
今朝のテレビの星占いは、間違いなく最下位だろう。
気が進まなかった。
こんな、心では思っていないセリフを言わなきゃなんて!
(くそぅ、くそぅ!!)
(なんで俺が!)
交番内の空気は張り詰める。
「俺さ、あの子 好きかも。」
根津は、声を引きつらせながら、無理やり言葉を口から出した。
「おい!」
目の前の被疑者に、怒りのレベルを一段階上げた警察官の怒鳴り声が響く。
またもや、その大声に隣の蛇原スネ子は反応し、ビクンと体を揺らした。
(だ、ダメか?)
ここは教室じゃない。
クラスメイトや先生に囲まれた「日常」は、ここにはないのだ。
緊迫した状況で人は、いつものようには動けない。
彼女に噛まれるのは、学校では「日常」だったが…。
その日常は、一歩教室を外に出れば、風に散るほど脆いものだった。
それなのに、彼女の意識を自分に向けようなど――浅はかだった。
警官の怒声が飛び交う現実の中で、自分のその浅知恵は滑稽にさえ思えた。
根津ミキオの胸に、じわりと冷たい諦めが広がる。
体が鉛のように重く感じられた。
腰まで伸びた黒髪は、蛍光灯の白い光を鈍く反射していた。
蛇原は小さな椅子に腰を下ろし、指先でスカートの端を無意識にいじっている。
暗い交番の空気に沈んだ声が、ぽつりと落ちた。
「へ、へぇ〜…。根津くんって、ああいう子が好きなんだ」
蛇原の言葉に、胸の奥で消えかけていた火がふっと灯った。
(のってきた!)
魚に針が掛かった釣り人の様に、根津ミキオの心はビクンと跳ね上がる。
彼の絶望感に満ちた目に希望の光が差し込んだ。
毒を喰らわば皿まで…
この無謀な行動を完結させるために、彼は言葉を続ける。
「蛇原は、あの子と中学が一緒だったんだろ?」
「根津ミキオ!」
取り調べ中のあまりにふざけた態度に、警察官が怒号を飛ばす。
瞬間、それに反応する様に蛇原の顔がみるみる変わる。
――頬は陶磁器の様に白く、眉尻が跳ねている。
それは、攻撃準備のサインだった。
蛇原スネ子は、ギロリと視線を警察官に向けた。
(あぁ、もう! 今それどころじゃないんだよ。少し黙っててくれよ)
根津ミキオは焦り出す。
(残り時間はほとんどない!)
何度も彼女に噛まれている彼は、終わりが近いことを感じ取った。
胸の奥から湧き上がる拒絶を押し殺し、根津は引きつった笑みを浮かべながら話し始めた。
「今度! 今度さ…」
「あの子を、俺に紹介してよ!?」
ピタリと音が止んだように、交番が静まり返る。
動いていたのは、窓越しに流れる人影だけだった。
そして――
「紹介なんてする訳ないじゃん!」
怒りにまかせ交番の椅子から立ち上がった蛇原スネ子は、隣の男子を焼き尽くす様な憤怒の目で睨みつけた。
彼女の怒りに慣れているはずの根津でもたじろぐほどの、燃え立つような熱圧だった。
激しい感情の波に押されるように顔をじりじりと近づけ、耳元の吐息に根津の肩が小さく揺れる。
口角がゆっくり上がり、チラリと覗く八重歯。
彼女は机の向こうの警察官などもはや眼中になく、その全神経は目の前の男子だけに向けられていた。
そして、蛇原スネ子はまるで鎖のように彼の腕を捕えた。
ガブリ。
彼女は白い八重歯を立てて噛み付いた。
(い、痛いぃぃ!!)
(分かってたけど…分かってたけど…)
(やっぱメチャクチャ痛いじゃんかっ!!)
あまりの激痛に、涙と後悔が滲んだ。
(やめれば良かった!やりたくなかったんだ
警官は、驚きから反射的に椅子を軽く後ろに引き、目を見開いて息を飲んだ。
心が折れるような痛みに、根津の瞳にびっちりとと涙がにじむ。
(でもやった……やったぞ!)
根津が、あえて自分の腕を差し出したのには2つの目的があった。
1つ目は当然、彼女に警察官を噛ませないこと。
もう1つは、噛まれれば、警察官に奇妙な傷の生成過程を見てもらえること
(これで信じてもらえる……!)
口で説明して分かってもらえないなら、実際に見て貰うしかない。
そうしたら取り調べは終わる。
そう、蛇原が警察官を噛むことも無くなるのだ。
(さぁ、ちゃんと俺を見てくれ……警察なら分かるだろ?)
(ほら、この傷だよ…)
蛇原スネ子の神経毒が回り始めた彼は、筋肉が麻痺し、口が言葉を紡げなくなる。
それでも根津はゾンビのように手を伸ばし、警察官の目の前にその傷をさらす。
しかし警察官は、まるで現実を理解できないかのように固まった。
差し出された根津の腕の傷など、気にも留めていなかった
一体、何が起きたのだろうか?
〜警察官は考える〜
おとなしいと思っていた女子高生が、次の瞬間――豹変した。
張り詰めた空気を裂くように、彼女は隣の男子高校生の腕に噛み付いた。
「ガブリ」という生々しい音が、交番の狭い空間に響き渡る。
そう、警官は根津にではなく、変貌した彼女に釘付けになった。
恐怖で見開かれ、全身が硬直していた。
根津が見て欲しい腕の傷になど、警察官の注意は全く向けられなかった。
そんな警察官を見て、根津ミキオは叫んだ。
(ち……)
(ち、違う!)
しかし、声は霧になって消えた。
もう膝に力が入らなくなってきた
(アンタが見るのは……)
(見るのは、蛇原じゃない。)
力が入らず、伸ばした腕を保っているのが難しくなってくる。
(俺だ…)
(お、俺のこの傷だ!)
せっかく自分の腕を犠牲にして「実演」をしたのに!
警察官がそれに気付かないのでは、こんなに苦労したのに全て水の泡になってしまう。
(く、くっそう……!)
もう体に彼女の毒が回り始めている。意識を失うまで時間は無かった。
(10秒か?5秒か?)
ブラックアウトへのカウントダウンは静かに、しかし確実に迫っていた。
その前に早く、警察官に自分の体を張ったメッセージを伝えなくてはならない!
根津は、麻痺し始めた体を引きずって警察官に身を寄せる。
(み、見ろよ…)
(お、俺の傷を……)
根津の視界がゆらりと歪む。
頭の奥で、何かがぷつりと切れたような感覚。
足が勝手に後ろへよろけ、世界が遠ざかっていく。
机の角に手を伸ばすが、指先に力が入らない。
かろうじて掴んだ机の縁も、まるで氷のように滑り落ちていった。
体が沈む。
耳の奥で鼓動が荒れ狂い、視界の端が黒く染まっていく。
「 (ま、待ってくれ……)」
声帯が凍りついたかのようで、喉から音は一切出ない。
次の瞬間、膝が崩れ、机にもたれるようにして倒れ込む。
鈍い衝撃とともに、世界が静まり返る。
重力に逆らえず、根津の身体はゆっくりと傾き、
まるで糸が切れた人形のように――交番の床へと崩れ落ちた。
「ふふふ……」
口を軽く拭いながら不気味な笑みを浮かべた。
いきなり笑い出した彼女を見て、警察官は呼吸を忘れたように動けなかった。
「ふふ…。ふふふ……」
蛇原スネ子は奇妙に笑い出す。
警察官は、顔は蒼白。まるで真夜中の墓場で幽霊を見たかのようだった。
「千夏には、もう会えないね」
と、彼女は不気味な笑顔を浮かべて、根津ミキオを見下ろしながらそう言った。
が、その言葉は意識が朦朧とした彼には全く届かなかった。
そして、根津ミキオはピクリとも動かなくなった。
「な……」
「な……」
「何を……」
「何を……してるんだ……!?」
先ほど威勢よく大声を張り上げていた警官は見る影もなく、恐怖のあまり情けない声をその口から漏らしていた。
クラスでは日常茶飯事のこの出来事も、学校の外では狂気の沙汰だった。
神奈川県警の交番に、言葉にならない恐怖が広がっていた。
外には、夜が静かに降ってきた。
ーーーー
根津ミキオが目を覚ましたのは、交番の裏だった。
横浜駅・相鉄口交番の中。
目を覚ますと、蛍光灯の白い光がまぶしかった。
無線の声と電話のベルが途切れ途切れに響き、紙をめくる音や足音が重なる。
3、4人の警察官が事件や事故の対応に追われ、机の間を慌ただしく行き来していた。
窓の外からは、駅前のざわめきと行き交う人々が見えた。
根津の制服の袖口からのぞく腕には、まだ噛み傷が残っている。
ふと目をやると、そこには蛇原スネ子がいた。
彼女は交番の壁にもたれていた。
「起きた? もう平気そうだね」
目覚めた根津は、この騒がしく落ち着かない場所で唯一いつも通りに見える彼女の姿が視界に入りにほっとした気持ちになった。
倒れた根津の腕に残る傷が、蛇原の「体質」を裏付ける形となり、学校や大学病院への連絡を経て、ようやく誤解は解けた。
警察官は、疑いを解き、二人は無罪放免となったのだ。
身元引受人として来てくれたのは、担任の最上先生だった。
「根津、お前驚かすなよな」
「あはは、すみません」
「入江先生が出張で居なかったから焦ったけどさ。」
交番を後にし、安心感からか先生は話し始めた。
「蛇原の体質の資料を作ってくれてたおかげで、警察への説明は完璧だったよ」
最上先生は、どこか誇らしげに笑った。
蛇原スネ子の体質――それは極めて稀だから、対外的に説明するのが難しいらしい。
入江先生は、今日みたいな事を想定して大学病院の資料や診断書、学校からの説明資料などを丁寧にまとめ、最上先生に託していた。
「スゴいよな、入江先生は……。準備が良いと言うか。●未来が見えてると言うか」
先生は、ぽつりと呟いた。
彼が入江先生に惚れていることは、クラス全員の知るところだった。
もちろん、まったく相手にされていないのも、同じく周知の事実である。
身元引受人のために、横浜駅に来たので、夕方の職員会議に出なくて済んだと喜んでいた。
多分、ちょっとダメなタイプの大人なんだろう。
それでも、根津も蛇原もなんとなくこの先生を嫌いになれなかった。
それは先生の人徳と言えるのだろうか?
「やっと帰れる」
根津はため息をついた。
ーー
「じゃあ先生はこのあと、横浜駅を少し楽しんでくるよ」
そう言って最上先生は笑顔で去っていった。
残ったのは、根津と蛇原の二人だけ。
蛇原は東横線、根津はJR京浜東北線――
それぞれの改札口を目指して人混む横浜駅を2人で歩く。
歩きながら2人はなんとなく話す言葉を探しながら、しばらく無言だった。
「蛇原、お前、今にも警察に噛み付きそうで大変だったんだからな」
「へ? そんなことないでしょ」
蛇原は首をかしげ、あっけらかんと笑う。
根津は呆れ顔で小さく溜息をつく。
不良に絡まれ、警察に詰められ、最後には自分から噛まれにいく。
本当に、今日はろくでもない一日だった。
原因は目の前の女に他ならない。
それなのに、どうしてか彼女を恨む気にはなれない。
歩きながら、蛇原スネ子のしなやかな姿が、通り過ぎる男たちの視線を集めていくのを根津は見た。
先ほどのヤンキーや通り過ぎる道ゆく男性たち。蛇原スネ子という「美しそうな花」に群がる虫たちの何と多いことか。
しかし……。
自分も、その中の一匹になるのだろうか?
そう思った瞬間、自分の浅ましさにゾッとした。
これだけ近くに居ても、彼女の視界に自分が入ることはないのだろうか。
情けない話だ。
でも、彼女が笑っているなら——それでいいような気もしてしまう。
我ながら、重症だと思う。
「あ……」
「あとさ……」
高島屋デパート前あたりで、頬を少し赤くしながら、彼は言った。
「林 千夏が気になるって話、あれ嘘だからな」
蛇原は、不満そうに口を尖らせる。
「どーだか……」
根津は顔を引き攣らせながら何かを言い返そうとして、結局ため息に変わった。
(俺が今日、お前を守るのにどれだけ苦労したか……)
しかし、議論をしだす気力は今日の根津には残っていなかった。
黄昏の横浜駅、無数の足音が床を鳴らしていた。
JRと東横線へ分かれるその分岐点で、二人は言葉を失ったまま立ち尽くす。
目を合わせることもできず、ただ人の波に押されながら、言葉を選び損ねた。時間だけが静かに過ぎていく。
「じゃあ、こっちだから」
「あぁ、また明日」
彼女の声が混じりけのない風のように消えていく。
根津は、その背中を目で追いながら、小さく息を吐いた。
やがて、群れの流れに身を任せるように、JRの改札口へと歩き出した。
ーーーー
木曜日。
昼間頃から、教室は妙なざわめきに包まれていた。
「聞いた? ネズミが蛇原スネ子を守るために、横浜駅で大立ち回りしたって!」
「あ、それ聞いたよ。隣のクラスのやつが見てたらしいよ!」
どうやら、昨日の出来事が思い切り脚色されて広まっていたらしい。
噂によれば――
相手は怖い不良高校の生徒たちで(これは本当)
その番長を蛇原が噛み付いて倒した(ウソ)。
さらに、二人は西口駅前交番で詰められていた(これは本当)。
中には、
「交番にいた警察官全員をスネ子がかじって、自力で帰った」
という話まで出回っていたが、、。
クラスの女子が、すぐに反論してくれたので、その手の噂は早々に消えた。
しかし――
「蛇姫を助けたネズミ王子の話」
だけは、しばらく学校のホットな話題として残ってしまった。
根津ミキオは、廊下を歩くたびに声をかけられた。
「おい根津! あのウワサ本当なの?!」
「聞いたぞ、あの学校の奴らを黙らせたんだって? 根津見直したわ!」
ちょっとした英雄扱いだったが、本人としてはまるで笑えなかった。
本当に彼女を守ったのなら胸を張れたかもしれない。
だが実際は、他校の生徒にビビって、警察の前で気絶しただけだ。
真実が知られたらと思うと、武勇伝の一つも語る気にはなれなかった。
友人たちの矢のような質問に、根津は苦笑しながら適当にごまかす。
(蛇原は、どう話してるんだろうか……)
その週。
後ろの席で、蛇原スネ子はなぜか上機嫌だった。
その笑顔だけが、今回唯一の救いのように思えた。
(はぁ……。)
(今度は「本当に」彼女を救って噂になりたいものだ。)
根津は、ため息をひとつ落として、静かに窓の外を見つめた。
そんな彼を、後ろの席のクラスメイトはいつまでも見つめていた。




