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駆け引き



 ガブリッ。



 小さな音とともに、腕に痛みが走った。

 噛んだのは、蛇原スネ子だった。


 彼女は、少し変わった体質を持っている。

 噛みつくことで、ごく微量の神経毒を相手に送り込んでしまうのだ。

そして、根津ミキオは毎回の様に噛まれていた。


 わずかな間を置いて、景色がゆっくりと歪んだ。

 足元がふわりと浮かび、次の瞬間、意識がブラックアウトする。


***


 教室の喧騒の中、蛇原スネ子は噛んだ直後の高揚感に包まれていた。

 噛みつく時は、どうしても興奮してしまう――それは、自分でも制御できない衝動だった。


 けれど、しばらくしてその感覚が去った後、猛烈な後悔が押し寄せてくる。

当然だが、クラスの男子を噛んではいけないし、失神させてもいけない。

 毎回、保健室のベッドに横たわる根津を見て、胸の奥がズキリと痛む。


 (はぁ〜。また……やっちゃった……)


彼女は後悔した。


 この噛み付きの失神のせいで、根津の勉強は遅れていた。彼はそれを取り返すために頑張っていたはずだ。

 分かっていたはずなのに、なんで――。


 休み時間にスネ子は半ば泣きそうな顔で、根津が眠る保健室へと向かった。


***


 静かな保健室の中。

 根津ミキオは、薄く目を開けた。


 白い天井を見上げながら、ぼんやりと思う。


 (あ……またか)


 体に力を入れると、少し頭がぼんやりした。


(えーっと、なんでだったっけ?)


 噛まれた時根津は時々、軽いた「健忘 (けんぼう)」を起こしていた。

 噛まれた前後数十分の出来事が、まるでフィルムの一部が切り取られたように抜け落ちてしまうのだ。

全身麻酔をした患者に広く一般的にある症状だ。

 


 ゆっくりと体を起こすと、そばに心配そうなスネ子の顔が見えた。


 「あ……根津君……」


 スネ子の声は、どこか申し訳なさそうで、震えていた。


 根津は小さく笑いながら言った。


 「あー……今回も、噛まれる前が、記憶が曖昧だわ……」



 スネ子は、驚いたように目を見開いた。


 「え? そうなの?」


 根津は、少しだけ視線をそらしながら、言葉を続けた。


 「うん。ごめんな」


 謝る必要なんてないのに――と、スネ子は思った。

 むしろ、悪いのは自分のほうなのに。


 「そ、そうなんだ……」


 スネ子は、小さく呟くように言った。


 保健室の静寂の中で、2人はしばらく、何も言葉を交わさなかった。


 



 保健室のカーテンが風に揺れた。初夏の陽気が、少しだけ入り込んでくる。


 スネ子は、ベッドに腰掛けている根津の横にちょこんと座って、手を膝の上でぎゅっと握った。


 (根津君の、好きな人を知りたい――)


 その気持ちは、彼女の中で特に最近、日に日に強くなっていた。



 (もしかして、私のこと……)


 根津のことを考えると、胸の奥がじんわり熱くなった。


 最初はただ、席が前になっただけの普通のクラスメイトだと思っていた。


 でも今は――ちがう。

 ほんの些細なことで、嬉しくなっている自分に気付いてしまった。


 (知りたい。……根津君が、誰を好きなのか)


 自分じゃないなら、それを知って、きっぱり諦めたかった。



 逆に、自分だったら――自分はどうなってしまうんだろう……



 確かめたい。けど、正面からは聞けない。



「あ、ごめん。俺の好きな人は別に居るんだよ」


「蛇原。勘違いさせちゃってたら、なんかごめんな」


などと言われたら……。

とてもじゃないが、自分は耐えられそうにない。

 明日からの学校生活を、一体どの様に過ごせばいいのだろう?


 でも、でも今は――彼が「健忘」を起こしている。


 記憶が曖昧な今なら。

 今なら、聞き出せるかもしれない。


 スネ子は、自分の良心と葛藤していた。

 ウソをつくのはよくない。けど――



 保健室の入江先生が、前にこう言っていた。

 

 『恋愛ってね、ウソはダメだけど、駆け引きはしてもいいのよ。女の武器なんだから』


 スネ子は、先生みたいに「強い女性」になりたいと、ずっと思っていた。


 だから今――ちょっとだけ、駆け引きをすることにした。


ーーーー



 言葉少なくいつになく深刻な顔をした蛇原に対して、根津ミキオは尋ねた。


 「俺が噛まれる前に、何があったんだっけ?」


(俺はまた、何かやらかしたんだっけ?)


根津はゆっくりと上体を起こし、ぼんやりと天井を見上げた。


 「根津君ね、私に教えてくれるって言ってたよ」


 意を決した様に、スネ子は話し始めた。


 「……ん?」


 彼女は、ぎゅっと唇をかみ、視線を落とす。

 

 「……根津君の……好きな人……」


 根津の体が動きを止めた。


 「……は?」


 彼女から発せられた言葉を、根津は聞き返した。


 「……私に教えてくれるって」


 小さな声。けれど、根津にははっきり聞こえた。


 「え?」


 「それ、ほんと?」


 根津の問いかけに、スネ子は一瞬、言葉を失った。



 でもすぐに、うつむいたまま、小さくうなずいた。


 「……ほんと。本当……だよ」


 嘘に慣れていない彼女が、根津の心の奥をのぞこうと必死にもがいて出した返答だった。

 


根津はしばらく沈黙したのち、戸惑いの色をじわじわとその顔ににじませた。


(気絶する前の俺……!?なに言ってるんだよ……)


 頭の奥底から答えを引き出そうとするが、健忘による「記憶喪失」という名のカーテンが、その試みを容赦なく遮っていた。


「え? なんで……俺、そんなこと……」


質問とも狼狽とも分からない声が漏れた。



彼の疑問は、もっともだ。


だが、それでも蛇原スネ子は、自分の言葉を引き下がらせる訳にはいかなかった。


なぜなら、これは彼女の——生まれて初めての「駆け引き」だったのだから。


彼女が今、世界のどんな事よりも唯一つだけ知りたいもの。


それは、根津ミキオの「好きな人」が誰なのか——ただ、それだけ。


その答えを手に入れるために、彼女は無垢な少女の殻を割り、まだ不慣れな感情を武器に変えて、今まさに大人の女性としての一歩を踏み出そうとしていた。


そして、沈黙。


自分の言葉を待つその時間が、どれほど痛みに満ちているかを、根津ミキオはまだ知らない。


ーー



「なんで?」


根津は答えを待つ彼女に、そう質問した。


「え?!なんでって?」


スネ子は意外な質問に少し驚いた。


「どういう流れでそんな話になったの?」


「………。」


(しまった!考えてなかった〜)


蛇原スネ子は心の中で悲鳴を上げた。

彼女はウソをつくのがあまり得意ではなかったので、細かいディテールを用意しているわけでもなく、当然、穴も多かった。


「あー、なんか。根津君が『言いたい〜!』みたいな? ははは……」


苦し紛れにひねり出した言い訳に、自分でも首をひねりたくなった。

けれど、今さら引き返せない。


「そんな事言ったのか?」


「う、うん。い、言ってたよ」


彼女の全身から汗がにじむ。

言葉を信じてもらえている気配はまるでなかった。


スネ子は、無理やり明るく振る舞った。


「私も聞きたいな〜。根津君の好きな人。」


心臓がドクドクと脈打っている。

ごまかすための軽いノリすら、震えそうだった。


目は真剣に彼を見つめていた。


「いや」


あっさり言われて、根津はベットの上で後ずさった。


沈黙の時間は短かったが、保健室のベッドに座っている2人には、とても長く感じた。


「あ! 私、恋バナ好きだし!」


あまりにも「聴きた気持ちが過ぎる」と、自分の真意が透けて見えてしまう。


そう思ったスネ子は、取ってつけた様に別の理由を付け足した。



「ねぇ、教えてよ」


スネ子は食い下がる。

もう、引くに引けなかった。


グイッ


聴きたい気持ちが抑えきれずに、体を彼の方に乗り出す。



 いつも噛まれるのに追い込まれる根津だったが、今日の彼女は噛み付く”攻撃体制”ではなかった。


 振り払えるはずなのに根津は不思議といつも以上に身動きが取れなかった。


「蛇原…。あのさ。ち、近くない?」


 勢いに押された根津ミキオは、保健室のベッドで今にもくっつきそうな程の蛇原スネ子の勢いを、必死に制した。


「知りたい」


スネ子が絞り出すように言った。


 根津の制し虚しく、彼女の勢いは全く止まらない。

 求めた答え以外では、彼女の不器用な熱意を止めることは難しいだろう。


ベッドの端に追い詰められるように、根津はわずかに身を引いた。


蛇原はためらいがちに、それでも諦めきれない様子でそっと距離を詰めた。



 彼女の、届きそうで届かない距離が、切なさを滲ませていた。



(言えるわけがない…)


自分の好きな人を。

蛇原スネ子の前でだけは…。


(本当に俺が言ったのか?蛇原に教えると?俺の好きな人を?)


しかし、記憶は途切れている。

噛まれるずっと前までの記憶しか覚えていない。


(そんなに良い雰囲気だったのか?

気を失う前の俺と蛇原は?)


 もし健忘で記憶を失う前に、彼と蛇原スネ子がそんな事を語り合える位に良い雰囲気だとしたら…。


彼女に恋する根津にとっては、千載一遇という事になる。


(……もし言えたら? 自分の好きな人を、蛇原に……)


根津は、真剣に彼女を見つめた。



一方のスネ子も息を呑んだ。


ウソがバレるかもしれない。

でも、でも。もし聞き出せたのならば——。


そんな思いが彼女の胸を高鳴らせた。



保健室の静かな午後。

二人の間には、ピリピリとした緊張感が漂っていた。


ほんの数分の出来事だったが、2人には何十分の攻防に感じられたほどだった。


言っちゃダメだってわかってるのに、言いたくてたまらなかった


怖い。怖いけど……それでも、伝えたくて仕方なかった


保健室のベッドの上で、彼と彼女の物理的な距離は、もうくっつくほどに近かった。


(ここまで距離が近いのに、「嫌い」ということはないのではないか?)


今にも肌が触れ合いそうな彼女との物理的距離が、根津を安易で楽観的な気持ちにさせた。


根津は、今までの彼の人生の中でも「重大な決断」に迫られていた。



ほんの数秒にも思えた沈黙の末、彼が口を開いた。




「ウソだろ?」



根津からの突然の一言だった。


「え?」


スネ子は、びくりと体を震わせた。


ぎこちなく微笑んだスネ子は、視線を逸らしつつも、羞恥に耐えきれず頬を真っ赤に染め上げていった。



「俺が…そんなこと言うはずないし…」


根津の言葉は、静かだったが、明確だった。



スネ子は、顔から火が出そうだった。 敗北を悟った顔を真っ赤に染め、しどろもどろになった。


(あ、危なかった…)


 彼女に恋する男子高校生 根津ミキオは、自分の気持ちを伝える言葉が、もう喉元まで出かかっていた。



 友人たちとポーカーや人狼ゲームをやり込んだ根津ミキオは、「ブラフの見抜き方」を体で覚えていた。


 相手の蛇原スネ子が、恋の駆け引きの上級者なら結果は違っただろう。


しかし、彼女の絡め手は逃げ場の多い「不完全な罠」だった。


だからこそ、なんとか彼女のウソを見破ることができた。


恋愛には初心者同然の根津ミキオだったが、ブラフの掛け合いならば彼はいっぱしのプレイヤーだった。



初めての恋の駆け引きが、見事に見破られた蛇原スネ子は、消え去りそうな声で言った。


「ほんとだもん……」


いたたまれない気持ちでいっぱいだった彼女は、必死に取り繕うと、保健室を飛び出した。


1人取り残された根津はその場に崩れ落ちるように、自分の体をベッドに深く沈ませた。


「ふぅ〜……」


 午後の保健室で行われた小さな恋の攻防は、かろうじて根津ミキオに軍配が上がった。


しかし根津のこの胸の高鳴りは…。

蛇原スネ子への想いを「もはや否定できない」事を彼自身に知らしめていた。


もし「恋をしたら負け」だとするならば——


彼は完全に、敗北者だった。


しかし、バトミントン試合での「負け」とは違い、その敗北感はなぜか根津を幸福な気持ちにさせた。


 彼はその「不思議な気持ち」に想いを寄せながら、その余韻を抱きしめるように、根津はベッドに体を預けて丸くなった。


(つづく)

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