(にしんなす と 富翁)
魔都の夏は暑い。山の上とも思えないほどだが、かろうじて日本よりは乾いているので夜中ともなればクーラー必須とはいえない、かも知れない。
ちりん。
令和日本の暴暑との往復生活をしているマーチンにはちょっとした贅沢気分にもなれる夜風が、開け放した窓から吹き込んで風鈴を揺らす。
もうちょっと呑みたい。
時計を見れば、まだ夜11時。我ながら舐めた営業時間で商売している。しかし明日の日の出は6時間後、善男善女はおねむの時間。だが明日は休日の予定。
冷蔵庫には明日食べるための〝にしんなす〟がある。食べ頃は明晩だが、今食べてマズいはずもない。気がつけば腰が浮いている。
*
魔都の夏は暑い。どこからどう熱い風が吹くのか、麓の町のほうが涼しいんじゃないか。ひょっとして、高くて太陽に近いから暑いのだろうか。神様も近いのだから余計に暑いのかも。ヨランタはふてくされながら勢いよくパジャマを脱ぎ捨てる。
この部屋にエアコンはついてない。窓は、小さいのが高いところにあるだけ。物置部屋なので基本的には閉めっぱなし・カーテンもかけっぱなし。
昨年の夏は吹きさらしの廃屋に隠れ棲んでいたヨランタ。あるいは野宿。いまの暮らしには大満足だが、我慢して諦める習性を彼女は持っていない。
ふらりと立ち上がる。この家で、一番涼しいところは、あそこだ。迷うことは何もない。躊躇なく扉を開けて、深夜の暗がりに踏み出す。
*
狭く、急な階段に照明スペースはない。夜になると真っ暗で、昇りの時は気にすることもないが、降りはちょっと注意が必要。マーチンはスマホで照らしながら、軽快とはちょっといえない歩調で進む。
ギシッ、ミシリ、と一歩ずつに音が鳴り、神様製の新築であろうのに敢えて古民家リフォーム風の景色にはちょっとしたホラー味がある。
店舗スペースは明かりも消していて、闇の中。であるはずなのに、薄くぼんやりと、本来あり得ない位置に明かりが灯っている。
ブゥ…ゥン……耳慣れないノイズ音がマーチンの耳を刺す。
その音のほかは、真の静寂。日本ならいつでもどこでも、大概は遠くで車が走る音、風に木々が揺れる音、カエルの鳴き声、などで滅多に訪れることがない、聴覚以外も遮ってくるかのような静寂。
自分の息遣い、鼓動、筋肉が動く音まで聞こえる気がする。
ブゥ……ゥン……
音も、光も気のせいではありえない。ここは、神も魔法もある世界、日本人が想像できることなど高が知れている。マーチンは息を潜め、きしむ床にもなるべく足音を消してそろりと近づき、そろりと窺い見る。
そこには。
冷蔵庫を開いて顔を突っ込んだヨランタの姿が!
「ウワーーーーー!!!!!」
「アキャーーーー!!!!!」
ガラガラ、ガシャーン。
*
「あーあ。あーーあーーーああ。生もの、全滅かもね。」
絶叫とともに蛍光灯が灯され、明るい光の下では残酷な風景が照らし出されている。冷蔵庫の内容物のいくらかは外に放り出され、涼しそうな格好のヨランタが拗ねたように正座で座り込み、売れ残りを入れた皿は割れなかったが中のものがグチャッとなってしまった。
「ごめんってば。開けてた時間はちょっとだけだから大丈夫よぅ。不安だったら解毒と回復の魔法を食材にかけておくから。」
「それがマジで大丈夫なのか俺には判断がつきかねる。ま、明日はお休みにしてるから全部煮物か酢漬けにしてしまお。お鉢も盛大に割っちゃって、マー。」
「それは、脅かすマーチンが悪い。ようやくウトウトできかけてたのに。」
「キミの部屋にエアコンがなかったのは失念してた、それは申し訳ない。しかし冷蔵庫は空調設備ではない。やっぱり妙なところで文明のギャップがある喃。」
「だめ?」
「ダメ。しょうがない、寝るときだけ奥座敷に布団敷いて寝るのは許してやる。そこならエアコンあるし。でも閉店後の寝るときだけやで。私物を置くことも許さん。」
「ケチ。」
「言うてる間に服を着ろ。ほんま、驚くどころの話やないわ、冷蔵庫に奇妙な肉塊が刺さってて何かと思った。人とは思えんかった。
とにかく俺は、酒とちょっとつまむものを取りに来ただけやから。おやすみやす。」
「ズルい、待って、それなら私も☆」
「まず服を着なさい。」
*
〝にしんなす〟は夏の京都の定番のおばんざい。鰊は、にしんそばにも使うカチカチに干した身欠きにしんを戻して使うものなので季節も旬もないが、茄子は茄子なので茄子の旬にいただく料理。
昔ながらのおばんざいらしく、とんかつやカレー大好きな若者がご飯のお供にして喜ぶ味ではない。とはいえ、干し鰊の出汁がくたくたに煮込まれた茄子に染み込んで、酒呑みにはこれがたまらない味。
合わせる酒は、京都伏見のお酒〝富翁〟。伏見の酒は上等だが他所の地酒よりちょっとずつ高いなか、普段遣いのいつものお酒を標榜しつつ、地元大手全国区の月桂冠や黄桜のパック酒系とも違うアプローチをしている親しみやすい銘柄だ。
「今後、冷蔵庫には鍵かけとこう。ま、ええか、早う食べて早う寝ぇや。」
「年寄りじみたことを。…待って、どこ行くの。」
「俺は、俺の部屋で食べる。」
「じゃ、私もマーチン部屋に行く。」
「?…いや、俺の部屋は俺の聖域なんで。この一線は断固維持する。」
「何度か私も入らせてもらってるでしょー!」
「あれは介護とか緊急避難で仕方ないとき。ズルズルと曖昧にはさせへんと決めた。」
「あ、さては見られては困るものが? 1人で何を楽しもうと! ズルい!」
「何がズルかろうが知ったことか。じゃ、おやすみ。」
「待って、アレでしょ、私が撮ってきた動画をこっそり見ようというのでしょう!いやらしい♥」
「キミの半裸なら今も見てるわ。あ、ハンナちゃんも写ってたな、ナイスアイディア、いただき。ヒュー!」
「ダメ、絶対。ハンナはジグのツバどころじゃないものが付けられてるし、一番ジグに惚れてる女だからダメだよ。私で我慢して!」
「いろいろ手に持ってる時に揺さぶるな。わかったから。もの食う時に汚い話をするな。座敷の方で飲もう、それでキミが我慢おし。」
*
つい先日に拡張された奥の間、床の間付きの座敷スペース。
やはり畳に座るのは良い。店の間の座敷席はさる事情により取り払ってしまったが、惜しい気もしていた。拡張はご褒美というより迷惑に感じてながらもこういうときにはありがたい。
客用の立派なテーブルや座椅子は引っ込めて、い草の座布団に、黒ずみが心温まる小さなちゃぶ台を広げて、酒と料理を設置して一息。
床の間の掛け軸の文字が、いつの間にか変わっている。
〝石麻呂尒 吾物申 夏痩尒 吉跡云物曽 武奈伎取喫 家持〟
「なん…ぞ?」
マーチンが眉をひそめて、「いしまろ…ごぶつ、わが、ものもうさく、か…?…きっせき?」などと口ごもっている横でヨランタがププッと噴き出す。
「ね、マーチン。あれ神様がリクエストしてるんじゃない?うなぎ?」
「わっ、わかるもんね! 万葉やろ!? ヤカモチの。えー、と、……あ、神様翻訳機能があるんや。
なんや、しょうむない。鰻? ちょっと早うない?」
ブツクサと不平を漏らすマーチンの横で、ヨランタの澄んだ歌声が流れた。
〽 石麻呂に 吾もの申す 夏痩せに
よし(๑•̀ㅂ•́)و✧というものぞ むなぎ(鰻)取り喫(食)せ。
現代語訳するまでもないシンプルな万葉ぶりの歌。節回しは原典どおりではまさかあるまいが、思わずマーチンが口を開けて聞き惚れる優美なもの。とてもさっきまでの下品さには似つかない、あの一瞬だけなら聖女と呼ぶにふさわしい高雅な横顔だった。
「今のは?」
「節は適当な即興だけど、歌でしょ?これ。なんかカワイイね。」
「キミは、歌ってる間だけはキレイやね。一生そうしてたらええと思う。とりあえず、呑もう。呑め。」
*
「うーん、いいお味☆」
「ん。最近のレシピでは茄子を炒めたり、みりんを濃くしてめっちゃ甘辛くしてしもうたりするみたいやけど、品良く行きたいもんやね。富翁も、特別やないけどもコレでないと出ぇへん味わいがある。夜食には重ためやけど、これで気持ちよく寝れそう。上等、上等。」
「この街の住人にも、この味がわかればいいのにね。」
「それな。でも、神様からして鰻かぁ。……決めた、明日は鱧にしよう!」
「リクエスト無視?」
「まるまる無視ではないよ。うなぎもはももニョロっと長い魚やし。
俺はうなぎ料理は〝うまき〟とか〝うざく〟にしたほうが好きなんやけど。〝うまき〟はうなぎの蒲焼の細切りを玉子焼きの芯にして巻いたもの。〝うざく〟は、同じくうなぎの蒲焼の刻んだものをキュウリもみと和えて酢の物にしたやつ。
それを、はもの照り焼きを芯にした玉子焼きの〝はもまき〟と、はもの皮を炙って刻んでキュウリもみと和えて酢の物にした〝はもきゅう〟でお供えしたらええやろ。よう似とる。
あ、BGMはコンチキチンやな。」
「相変わらず想像もつかないしウナギというものも見たことないけど、マーチンが料理の話してくれるのは好き。何もないときの6倍くらい話してくれるしね。」
「ふん。京都では7月のお祭りの間は鱧なの。鰻はその後。神様、ニワカや。
キュウリはお祭りの間は祇園さんに遠慮しはって食べへんところもあるみたいやけどウチは関係ないし。
…それよりキミの日本の手がかり探しは何か進展あんの?」
「あるよ。っていうか、無かったけど今思いついた。
や、最近聖堂の書庫に忍び込んで昔の使徒の文献を漁ってたんだけど、古語がわからなくて。解説を読んでも〝この箇所詳らかならず〟(つまり不明)でスルーされてたり。
でも、この店まで持ち出せば神様翻訳?で読めるかも!」
「無理は、せんときや。」




