ヨランタの帰還 と 紀土の夏酒
マーチンの酒場の昼下がり。
外はよく晴れて心地よい日差しが降り注いでいる。が、室内は灯りもつけず薄暗く、なにより空気が澱んでいる。その澱みの中心に位置するのが、我らがマーチン。
「我ながら不思議なほどに、気持ちの心張り棒が抜けた、というか。なんか、俺のなかであの娘に依存してるところがあったんやろか。」
語る口調も薄ぼんやりと、冴えない感じに芯が入っていない。
「そう、気落ちすることもないだろう。私にはヤツが死んでしまう事態がどうしても思い浮かばない。きっと、どこかでうまいことやっているさ。」
慰めているのか、突き放しているのかわからないのはイザベッラ。
「いや、私だって捜索に全力を尽くせていないことには忸怩たる思いがあるが。なにせ、聖堂騎士を辞める意思を表明して直ぐのことで。いまや半分部外者のような、本腰を入れて活動することが難しい立場なのだ。」
続けての爆弾発言だった。
「…そんなん、辞めるっちゅうて辞められるもんなん?」
「楽には無理だよ。幸い、引き継ぎに関しては元従士だったカヤがなんでもわかってるから、その苦労がないのは助かる。が、小なりとも身分と領地があるから誰ぞに譲らねばならんし、実家は煩かろうし、職務上知り得た秘密などを漏らさぬ宣誓の儀式などなども自腹でやらねばならん。実際に素寒貧の一市民としてスタートが切れるのは来年だな。」
「そんな清々した顔で。何があったか知らんが、思い切ったもんやねぇ。」
「うん。先日案内したユメは、マーチン殿と同じニホン人で、摩訶不思議なめぐり合わせで、この世界には少なくとももう1人ユメがいるのだろう? あ、これは本人から聞いた。それでな、私はそのもう1人のユメを探しながらニホンの手がかりも見つけて、神の息吹に触れたい。
以前にこの店で神の声を聞いたのは、マーチン殿に向けられた1対1の声を漏れ聞いたに過ぎないから。私のための、神のお声をいただきたいんだ。あわよくば、ヨランタの消息もつかめるだろう。」
先日来の悩みを吹っ切ったように、イザベッラが実に良い顔で目標を語る。こんな世界で女30、ゼロからの挑戦。
相手の顔も見ずにうつむいていたマーチンも、つい、ずいぶん高いところにある顔を見上げてしまうほど魅力的な表情だった。
「…それは、なかなか遠大な計画やね。」
「無理だと思うか?」
「いや、案外スルッと行くかもね。応援するで。門出を祝って、呑もうか? 酒なら…」
「そっ、そうか!? 調子が出てきたなマーチン殿、それでこそだ……で、あー、ぢぇ、いや噛んだ、で、うー、で、だな。」
「ん?」
「それでも少々、いや、かなり時間がかかってしまうのかも知れないのだが。ま、待っていて、くれるだろうか。マーチン殿…」
「いや、移転のつもりはないけど…20年も30年も過ぎたら知らんが、ここに居てるよ。」
「そうか!? そ、そうか。そうか。ふふ、ふふふふ…」
「なんか、汗がすごいで。…ちょっと待て、今の、何かの文学的な修辞か何かか。くわしく」
「おや、チッ、マーチン殿、大主教のヤツから緊急だと寝ぼけた声で通信が入ってる。……こちらイザベッラ。要件を素早く。…………なに?……………あ。あぁ。ちょうど、マーチン殿も居る……少し待て。
マーチン殿。ヨランタが見つかった。聖堂の慈愛の神像が掲げた水瓶の突起に引っかかって宙ぶらりんになっているところを発見されたらしい。」
*
「はぁーっ。」
「あら、おっきな溜め息。」
聖堂の昼下がり。
外はよく晴れて明るいが、厚い石の壁に何重にも隔てられた奥の間に光は届かない。魔導灯の強い光を高価な紙で包んで柔らげたステキ照明がふんわりと闇を照らしている。
「せっかく出てくるなら、せいぜい神々しく出てきたならばフォローの仕様も、利用のし甲斐もあったものを。」
「ファニーちゃんが眉間にシワを寄せるなんて生意気。あなたこそいっつも他人の眉間にシワを作らせてるくせに。」
先ほど忽然と祭壇に現れたヨランタ。を、救出した後に強権を発揮し、事情聴取として奥の間に連れ込んだのはファニー大主教。一応、記録係として大主教に買収された騎士カヤも隅に同席している。彼女とは顔を合わせたことだけは数度あるが、特に話をしたことはないので顔見知りともいえない。
「消えたときと同じ割烹着姿は、よい。ここでは馴染みのない白装束なので神聖と言い張れる。わらわともお揃いであるしな。だが。
降ろされてから。千鳥足で、酒臭い息で〝足がしびれて立てない〟などというアレは、何じゃ。」
「それ。聞いてよ、神様ったら酷いんだよ!」
「この建物の中で神へ悪態をつくでないわ。なんじゃ、つまり、神の時空へゴミを投げ捨てた罪で、神に連れ去られて対面でしっかり怒られてきたわけか。」
「ファニーちゃんの理解力が高くて助かります。」
「カヤ、どう思う?」
「火で炙り清めましょうか?」
「聖堂の人のそういうところ改めるべき、って思ってたけど。大ボスの神様がアレじゃあね。そういう性格にもなるよね。」
「神については後で詳しく聞かせてもらうが。ヨラ犬もな、いろいろ改めろな? 店主殿な、お前が消えて10日ほどもしてから毎日カレー作って待ってるんだぞ。いつ帰ってきてもいいようにって。泣ける話ではないか。
そのせいでカレー屋さんとして妙に繁盛して、そのクセやる気がないから、わらわや冒険者どももヘルプに駆けつけたほどでな。300人も一昨日、勝手に達成しおったわ。」
「それは聞いてない、神の奴…。でも、そんなお父さんじみた愛は求めるものと違うのね。どうしたら、わからせられるんだろう?」
*
夕刻、マーチンの店の戸がカラカラと遠慮がちに開く。
「恥ずかしながら、帰ってまいりました……。ゲっ、イボンヌ。」
「お前は、本当に変わらぬな。50日も消息不明で、いきなりそれか。」
「あッ、結局何日消えてたのかはマーチンに聞こうと思ってたのに、なんで言っちゃうのイボンヌ! …ま、まぁ、いいや、信じないから、改めてマーチンに聞けば。
……あの、マーチン卿。ただいまです…けっこうな差し入れをいただきまして……」
「ああ、元気そうやな。何してたん。」
「あの、マーチン、怒ってる…?」
「場合によっては、怒る。」
「またまたぁ。さびしんぼマーチンがしょんぼりしてたネタは上がってんだよ。なんか、こう、感激の再会でガバッといっとこうよ。」
「あー、この雑に体張ったボケに雑にツッコンでいい感じ、久しぶりやわぁ。ヨランタさんおかえり。」
「そんなことを言われたのは初めて。ただいマーチン。」
「……なるほどね。50日間、本気で存在を削除されてたけど、300人達成記念の副賞で復活させられたわけね。」
「そうだ、私もカレーが食べたい。」
「俺は一生分食べたから、もうカレーは作らん。…残りがあるから、それを食べたらよかろう。俺は久しぶりに刺し身と酒にする。イザベッラさんは?」
「あ、私もご一緒しよう。刺し身。」
「ちょっと。ここは遠慮して身を引きなさいよ。カヤさんはそこまで送ってくれて、スッと帰ったのに。」
「チッ、逃げたな、カヤ。まあ、いいんだ。マーチン殿、お子様カレーはあちらに任せて、こちらは大人を楽しもう。」
「ヨランタさん、先に〝今日は休みます〟って表に張り紙出しといて。」
ヨランタの帰還とイザベッラの門出を祝う酒は〝紀土 夏の疾風〟。春には春酒、夏には夏らしい夏酒。まだ少し早いが、季節を先取りして楽しむのはいつものこと。
「春に比べて、味が薄くない? それに、ちょっと苦い。」
「ヨランタ、こういうのは、あっさり、とかほろ苦くてスッキリ、って言うんだ。夏は暑くなって食欲が落ちるから、こういうのが助かるんだよ。」
「…そうらしいで。俺は夏場は毎年冷房かけっぱでその感覚は失われたけど。ってわけで、夏酒は基本あっさりスッキリ、さわやかということになっておる。」
「そういうものなの?」
「気にいらんかったら季節物やない普通のお酒もあるしな。キミはカレーライスと合わせてるから、味がわからんなってるんかも。刺し身には、合うよ。いまキハダマグロしかなかったけど、むしろよかったかも知れん。なぁ。」
「ああ、刺し身に酒、旨いな。旅に出る覚悟が薄れそうだ。」
「フーン。あ、そうだ、刺身カレー、ってどうだろう?」
「俺はそんなもんは許さん。…軽くソテーしたフィッシュカレーなら、してやらんこともない。」
「じゃ、それで。やっぱりカウンター席からマーチンが料理してる後ろ姿を見てるのが、いちばんのごちそうだねぇ。
ところで、300人達成記念では何がもらえたの?」
「それね。そこに飾ってる。」
と、マーチンが指差すのは入口近くに置かれた胡蝶蘭の豪華な花の鉢。
「〝花を飾るならもっと良いものを飾るがいい〟やって。に、しても新装開店のスナックやあるまいし、神様のセンス疑うわぁ。」
「ちょ、マーチン殿っ! 神!神!」
言われてみれば、マーチンのお花の好みは地味に傾きがちな気はする。胡蝶蘭とやらも、とても良いと思ったけど私が褒める前にマーチンが悪態をついてくれてよかった。
なんか慌ててるイボンヌは仲良く無視。
「ならば、マーチンセレクトのお花は?」
マーチンが無言のまま顎で指し示した先には、桔梗の花。箙に、そろそろくすんできた銀の破魔矢、そのなかにいつもより多めに青紫色のキレイな五芒星の花。
「うぅん、人ごとに趣味が違うものだね。私はこっちが好きだけど、神様の花はわかりやすく派手だし、ウケはいいかも。マーチンの花はキレイなのに、宴会のときにけっこう悩んで決めてた鉄線もぜんぜん見てもらえてなかったもん。」
「ぬ! 痛いところをつきやがる。キミまで俺をひとりよがり虫と呼ぶのか…。」
「そんなこと言ってないじゃん。…え、古傷に刺さっちゃった? いや、文句言ったわけじゃないんだよ。ねぇ、イボンヌ。」
「あーあ。マーチン殿、気にすることはないぞ。おいヨランタ、ちゃんと謝れ。あー、もう。」
「マーチンがうずくまっちゃった。ごめん、ごめんってば。ほらマーチン、青いお花がキレイだよ、見て機嫌直して。お料理もおいしいしお酒も良いし、もぅマーチン最高!ね!」
「そうだぞマーチン殿、本当に良い仕事とはなかなか理解されないものさ。呑もう! こんな時こそ酒だ、呑もうじゃないか!」




