ヨランタの再受難と 春鹿の夏しか
宴の後、ふっと消えてしまったヨランタ。
「ファニーちゃん、良かったやん。さっきのが神様の声。100人集めんでも聞けたね。」
「店主殿、それはさすがに冷たくない!? 犬…ヨランタはどうなったのです?」
「…わからん。あいつほど心配のしがいもないヤツもおらんから、普通にその辺にいそうな気がするけど。明日でも帰って来んかったらユリアンさんと相談するわ……。っていうか、神様関係の専門家やん、キミ。どうにかしてよ。」
「うぅ、わらわは、正直いままで全然、神を信じてなかった。ちょっと、心を入れ替えようかな。とりあえず明後日から朝のお勤めにも参加するし、ヨランタを返してくれるようにお祈りもしましょう。」
「そんなら、明日からお願いできるかな。俺も、ちゃんと神棚の掃除から始めるわ。」
しかし、数日経ってもヨランタの行方は杳として知れなかった。
*
……
…思考がはっきりしない。
私は、ヨランタ。そのはず。わからない。
真っ暗なのか、私の目が見えなくなっているのか、とにかく何も見えないけれども激しいめまいに襲われているように頭がぐらぐらして、天地さえ判別できない。
時間もわからない。まだ何分も経っていない気もするし、何日も何ヶ月も経ったような気もする。
手が、ある。顔を触ってみる。身をかがめて、足を触ってみる。地面は感じないけれど、五体は揃っているみたいだ、よかった。
ひと安心したところで、急に地面に転がされた。痛っ! ゴロリゴロリ、壁っ!
ちょうど身をかがめていたせいで、投げ出された衝撃で1,2回転の前転をして壁にぶつかり、横倒しに倒れる。床は、タタミだ。柔らかくて香り高い、良い床!
周囲がぱっと明るくなったみたいだ。でも、まだ頭がぐらぐらしてるから、寝る。
寝っ転がって畳の感触を楽しんでいるうちに、めまいや頭痛は消えた。魔法でなくても生来、回復は速いほうだ。
野生具合が強かった以前の私なら、地に足がついた瞬間に不調だろうが怪我だろうが構わずに飛び起きて脱出を考えただろう。魂が堕落するのは早い。けど、孤高の魂が良いものだというわけでもない。ああ、タタミ、いいなぁ。
『ヨランタ、起きよ。これ。無理矢理に起こされるのが望みか』
いきなり、声が響いた。
渋々、起き上がる。命令されるのはキライだけど無理矢理触られるのはもっとイヤだ。
ちゃんと周囲を見渡してみる。狭い、飾り気のない部屋だ。でんぐり返し2回転などできる広さではない。床は畳マットが4つ半で、中央に丸いテーブルがひとつ。それだけ。
『まず、座れ。ちゃんとした姿勢で、背を起こして。…ヨランタとは一度、話さねばならなかった。ヨランタは、მე როგორც ღმერთი にも理解のできないことをするゆえに』
言われるままに座ると、声を響かせながらテーブルの向かいに金色の靄が湧き出てきた。
それは、人だ。いや、目に映るものはただの靄でしかないのに、なぜだか私の頭はそれを人だと認識している。足が2本、胴体があって手が2本、いちばん上に頭。よく注意すると、髪があって、目、口、鼻。相変わらず目には靄しか映らないのに、わかる。体は、男?女?どちらにも見えるような、不思議な感覚、これが、神?
その手には、見慣れたような酒瓶が一本。
『これは、マーチンよりმე როგორც ღმერთი への捧げ物。ヨランタも好きだろう。飲みながら話そうではないか』
*
おぉ、思ったより話せる神様だ。この気前良さの百分の一でも、私の子供時代に見せてくれていればちゃんと信仰しただろうに。
どれ、過去のことは神様でもどうしようもないので、いただけるものをいただきましょう。お酒は〝春鹿の夏しか〟と書いてあるラベル。鹿と、太陽みたいな花も描いてあって、やだ、なんかカワイイ。
織部の湯呑みも、マーチンから? 神様とおそろいの。神様との夫婦湯呑み。ちょっとそれは趣味が悪くない?
『何故、ヨランタは神を畏れぬのか。畏れぬにしても、やりようがあるだろう。მე როგორც ღმერთი が見込んだマーチンへの悪影響が大きすぎる。マーチンも、その周囲も、神を尊ばなくなる。これは好ましくない』
わがまま勝手は大主教ファニーちゃんのお家芸かと思っていたら、その親玉もだ。これじゃ、しょうがないかもね。
『自分はわがまま勝手ではない、とでも? まぁ、まずは飲め。わざわざ連れてきたのだから、言いたいことは全部聞かせてみろ』
待って、そのお酒、変なもの入ってない? 栓はきっちり締まってあるけど、神様のアレでしょ、大丈夫? あと、マーチン、おつまみとかお供えしてなかった? あ、いえ、お酒だけでじゅうぶんです。
神様に注いでもらったお酒を飲む。
床に座るのは落ち着かない。ある大商人に聞いた話では、千の山と川を越えた先にあるハシ国では絶技でこさえた美々しい絨毯の上にじかに座って、その感触と美を楽しみながら飲食をするらしい。
その座り方も見せられて、やってみた。右の膝を立てて、左の膝は床につけて、右手は膝を抱え込むようにして……こ、これは飲みにくい!
『なにをしているヨランタ。畳の上では、こう座るのだ』
わ、わ、勝手に体が動かされてるよ! あ、こう? 膝を折り曲げて、かかとの上にお尻を乗せる。おお、背筋がピンとするね。これがニホンの座り方! 肩もシャンとして、なんかいい感じでお酒が飲める。いただきます。
おいしい! すごくおいしい。体に染み渡る。まるでずいぶん長い間遠ざけられていたものに再会できたみたいな。ついさっきまでお仕事ついでに飲んでたのに、可笑しいね。
でも、このお酒も、いい。唇から喉まで、どこにも引っかからずにスッと浸透して、良い香りの余韻だけが残っている感じ。そして涼やかな酩酊感。ふぅー。
「…~~でね、マーチンったらさ、そこでどう言ったと思う?」
『くつろぎ過ぎだ。მე როგორც ღმერთი が何のためにヨランタをここに呼んだと思っている』
「ごめんなさぁい。もう神様の部屋をゴミ捨て場にしません。それより神様、酷いじゃないですか。あのイボン…イザベッラという女、私より背も胸もでっかいのに◯輪も◯首も私より小さくて色も薄いなんておかしいじゃないですか人を馬鹿にしてふざけてるんですか」
『神ならぬ人間には誤差がある。気にする者が間違っている。騒ぐな』
神なんて格好つけても所詮は大雑把な人外、デリケートな人間の心はわからないか。あれが誤差なものか。そんなだから信仰できないんだ。私が信仰できるものがあるとすれば、お酒☆
ほら、神様ももう一杯、ズイッと。ほら、ほら。ついでに私ももう一杯。おいしいよね、この、春鹿の、夏しか。夏しかっ!
……夏? って、まだ春では?
『この空間は、ヨランタらの世界よりも少しく流れが早い。と、いっても人間が年をとったら時間を早く感じるというのと同じようなものだ。ここで1日を過ごせば、あちらでは1か月くらいが流れている。が、たいしたこともなかろう』
「わ、わっ! すっごい、たいしてるよ!戻して!いますぐ帰して!」
『騒ぐな。そこのテレビを点けてみるがいい』
神が指さした?先には、4本の足が生えた箱がある。その前面には14インチほどの灰色の屈曲したガラス面と、マーチンが音楽箱で使っているようなボタンが並んでいる。
目覚めたときにはこんなものはなかったはずだけど? …疑問が次々に浮かんでも、解き明かす時間ももったいない。とりあえず、いちばん大きなボタンを押し込んでみる。と、ガラス面が光って絵が浮かんできた。
マーチン? マーチンだ! なぜだかすごく懐かしくて、涙が浮かんでくる。でも、ガラスの中のマーチンはいつもと同じようにぼんやり椅子に腰掛けて、微動だにしない。肩が落ちて、目にいつものいたずらっぽい光がない。
「マーチン、しょぼくれてる。しょぼしょぼマーチン、かわいい☆」
『人の心は無いのか。もともと、ヨランタは存在を抹消していたのだが。それからマーチンがこのように気が抜けてしまっているので、しかたなく復活させてやる。忌々しい…』
「あっ、待って、イボンヌが来た。なにか話しかけてるよ、聞こえない、なんて…いや、距離が近い、あーっ!あーーっ!だめ、だめ、離れろ、あっ、足がしびれ、しびっ、あ、私はここにいるのに、しびビッ、イヤーーー!」
『騒ぐな。テレビを叩くな。騒ぐな。もう一度言わせたら消しなおすぞ。と、言っても聞くまいな。送り返してやるから、10秒黙ってじっとしていろ。しくじったらまるで違う世界の空中か水中に飛んで今度は死ぬぞ…』




