挿話 (2)
早朝、ゲストの都合に合わせて、全然暗いうちから朝食の準備。
数時間前に翌日の予定を打ち合わせていたキッチンでヨランタが食器を用意し、鍋を火にかけ、卵を割ってカシャカシャと溶く。
味噌汁も、教わったとおりにお湯を沸かして、料亭の味を溶き入れる。マーチンが店で出すなら味噌も出汁も凝るが、身内用の朝食なら手早くそれだけ。
豆腐を手のひらの上で切るのだけは最後まで嫌がって、まな板の上で切る。ヨランタは手が小さいし背も低いので、マーチンとしても見ていて危なっかしいということもあった。
「そうか、こういう展開ならゆうべの保温ご飯やなくて、朝から炊きたてを用意する時間もあったな。」
「今からする?」
「次からね。…お、玉子巻くん上手くなったやん。いつの間に。」
熱した卵焼き器に卵液が流し込まれ、じゅうっと心地よい音とともに魂に馴染んだあの香りが広がる。
「フフン。なかなかのモンでしょ☆」
「あ、味噌汁が煮える。」
「あ、待って、いま言わないで。あっ、」
「俺が火ィ止めた。」
「あぁー。ちょっとくらい煮えたって変わんないでしょ。このグチャッとしちゃった玉子焼きはイボンヌのぶん。」
「言われてみれば、俺も煮えた味噌汁を飲んだことがない。今度、沸かして飲み比べてみよう。どうせ、わかるほど変わらんと思うけど。」
韜晦するマーチンだが、怒ったポーズで頬を膨らませてみせるヨランタを見ると、やはりどうも子供っぽさが増している気がする。悪いこととは言い切れないが、正直頼りなくて以前の独立不羈ぶりを知る周囲としては少々歯がゆい。
「いいな。いいなぁ。2人で料理、いいなぁ。」
「おはようイザベッラさん、服着てきた? 甚平似合うね。でも胴が余って袖とズボン丈が足りてへん、ちくしょう。」
「えっ、甚平?いいな、私も欲しい!私も!」
「人のもんばっかり欲しがるのやめよし。子供か。…ハイ、完成ー。イザベッラさんも配膳手伝い。」
*
蛍光灯の明かりの下、温かい湯気が立ち上るテーブル席を3人で囲む。甚平姿の外人美女は言葉にすると異様だが、絵的には案外よく馴染む。
食卓にはご飯に豆腐の味噌汁、玉子焼き。小皿にひじきと大豆の煮物、小鯵の南蛮漬けをちょっとずつ。豆皿にこんもりと、木の芽煮。器は、ヨランタセレクトで汁椀以外すべて備前焼、素朴さが裏目に出て貧乏くさく見えるセンス。
とにかく、ごきげんな朝食だ。
「こ、これを、ヨランタがっ?」
「いや、玉子焼きと味噌汁がヨランタさん謹製。アジ南蛮は今晩の突き出し用、ひじきは、この辺の野郎どもはどうせ食わへんから俺用。…あ、こいつホンマに失敗作を客用にしとる。」
「味は、一緒☆」
「それは、そう言うて自分で処理するときの言葉ね。すごいな、その根性。…うん、しょっぱい。若者にはいいくらいかもね。醤油がいらんくらいかな。」
「私は、マヨネーズかけたいなぁ。」
「いや、卵、ちゃんと美味だ。驚いた。そういえば、ユメ殿も器用に作っていたな。私にも作れるだろうか…。
小魚のフリットのマリネ? これも、たまらなく旨い。もっと…いや、朝から貪るべきではないな。夜に…いや、毎晩豪遊もよくない、清貧、清貧……。」
「小うるさいねぇ☆」
「やかましい。それで、この黒いもじゃもじゃは? ヨランタの頭か?」
「こいつ、陰毛刻んで混入してやろうか」
「黙れヨランタ二度とその口を開くな。マジで客商売に向かんヤツ。ひじきは、そういう海藻やで。俺も海に生えてるところは見たこと無いけど。旨いし、誓って混入はないから安心して食べて。」
「……うん、食べたことのない味と食感だ。でも、おいしい。素朴な味だ。大豆も、人間の食べ物だったんだな。」
「コイツ、納豆地獄に叩き込んでやろうか」
「マーチン、落ち着いて。自分だって納豆そんなに好きじゃないって言ってたじゃない。」
「失言だった、すまない。いやぁ、うまいな、うまいぞ。」
「ええけど。白ご飯も食べや。」
「あ、あぁ。しかしこれは、独特の匂いと食感だし、味は薄いし、どう食べればいいのだ?」
「あぁ、そういう人ね。ヨランタさんは最初から馴染んでたけど。白米さえ人類に普遍ではないらしいな。
そのための、この木の芽煮。これをパラパラとご飯に乗せて、一緒にパクっと。…うん、うん。」
京都・鞍馬の名物の木の芽煮。山椒の実とお昆布を細かく刻んで炊いた、ご飯の友。保存食なのでいつでも食べられるものだが、山椒の実が採れる晩春から初夏の季節を先取り、ないし追体験、な味覚。
「ん!んーっ!」
「あ、気に入ってもらえたらしいな、そんなら良かった。」
基本的には昆布の佃煮だが、一般的なそれより細かく、しっかり硬めに炊かれていて、山椒の風味ともあいまって口の中での存在感が強い。味は、見た目の期待と予想を裏切らない。昆布の佃煮に山椒の風味がする。
そもそも京都は山椒好き文化で、丼ものやうどんにおでん、焼鳥、天ぷらにも粉山椒は欠かせない。
親戚である中華の花椒ほど辛さは要求しないが、独特の風味のためには粉にする前の〝実山椒〟〝花山椒〟、若い葉の〝木の芽〟なども好んで料理に投入する。
有名なのはちりめん山椒やたけのこ山椒だが、好きが過ぎる人は某わさび丼のように木の芽丼、花や若葉を山盛りにして頬張るらしい。マーチンは、そこまでではない。
しかしそれでも〝これがあるなら酒は無くてもいい〟とマーチンが思うほどに愛している、それが木の芽煮。
「舌がシビシビする。…ねぇマーチン、玉子焼きに木の芽煮を乗せてもおいしいよ。ここにマヨネーズかけてもいいんじゃないかな。」
「まずは普通に食べなさい。飽きた頃の味変に、ね。」
*
「それはそうとして、今朝のマーチンの用事ってなんだったの?まだ大丈夫?」
「あぁ、まだ、ようやく雀が鳴き出したくらいやから、お茶飲んで一服して、それから出るくらいやね。洗い物はよろしく。
いや、今日はクヮクスのために並びに行くだけでムリならムリで良かったんやけどね、ヨランタさんがいてくれて助かった。」
「「クォックス!?」」
「違う。誰やそれ。ま、そういうわけなんでヨランタさん、お茶。ティーバックのほうじ茶でええわ。」
「ちょっと待って、朝食当番って食事作る以外の仕事が多くない?」
「なにを、あたり前のことを。イザベッラさんのぶんもやで、意地悪しなや。」
「はい、はい。のんびり待っててね!」
「お茶!」はいつもの「お酒!」の意趣返しだろうか。慌てて南部の鉄瓶でお湯の用意を始めるヨランタ。
「コーラじゃダメ?」
「うん。温かいお茶。キミのは好きにしたらええ。湯呑みは青磁の貫入が入ってる、そう、それ。」
「見つけた。この細かいひび割れ模様のやつね、ワン。」
「犬より役に立つな、さすがヨランタさん。」
「お茶っ葉、どこだっけ?」
「そこ、掘れ。」「ワンワン。」
「いやぁマーチン殿、他人の働く尻をこうやってのんびり眺めているのは良いものだな。部下だと、こうはいかん。」
「わかる。そうよな、いつもノルマ労働やと、特にね。え、背中やなくって、尻? …まぁ、それもわからんでもないな。ぷりぷりと小気味よく動いとる。」
「……私だって、」
「は?」
「私だって、いろいろ考えては、いるんだ。聖堂の今後とか、自分の世間的評判とか。」
「俺は ようやらへんけど、何のためでも必死で頑張れる人は立派や思うし、好きにやればええと思うよ。」
「自分の〝好き〟がある人間って、マーチン殿が思うよりずっと少ないさ。だから迷うんだ。私は、どうしたいんだろう?」
これは、答えを求めての問いではないのかな。どうにも、本人にも曖昧な部分が多いようだ。マーチンも黙って、隣の彼女と同じ方をぼんやり眺め、時が過ぎるのを待つ。
「ちょっとお二人、視線がうるさい! ちゃんとやるからちょっと黙ってて!」




