挿話 ハヤシライス
翌日以降も、毎日のように新・ゆめは店を訪れる。
ただ、彼女らは外交の仕事で魔都にやってきている。必然的に夜には公式の晩餐会が入っているので、空き時間があるとすれば昼間になる。店に来れるのも、昼間だ。だが、前日に予約したり、お使いの少年にメッセージを託したり、現代日本人らしい気遣いは忘れない。
そして今日の居酒屋ランチのリクエストは、ハヤシライス。
「カレーは無理でも、ハヤシならこちらでも再現できるかもしれないでしょ。」
「まぁ、トマトさえあれば、カレーよりは? あと、米さえあれば。あー、そういうことなら後でお土産をあげよう。大荷物運ぶ用意をしてきてな。」
「あら、楽しみ。…ここでは裏の思惑とか考えなくて済むから、ホント助かる。……無いよね?裏の思惑とか。
…あ、ヨランタ師匠、グラス空いてますよ、お注ぎします!」
*
魔都は、都と名が付くが王国の首都ではない。しかし極めて特殊な事情の上に建設された街であり、王室直轄領とされながらも、事情が事情なので、国際的な宗教勢力の〝聖堂〟からはむしろ王国の首都より重要視されている。ゆえに、魔都。
聖堂勢力の中心は聖帝が治める聖帝国の聖都。しかし、現在ではこの魔都こそ神の息吹が最も濃厚に感じられる、聖帝国を二分しかねない政争の都となっているのだ。
そこに外交使節として訪れた新ゆめも、ただの一般人ではない。
もちろん異世界転移者ではあっても、年若く大した知識は持たなかった彼女だが、神聖魔法の才能は豊かに持ち合わせていたので、性格が社交的だったこともあり、うまいこと保護されてそれなりの立場も得ることができた。
旧ゆめが攻撃魔法の才能に優れていても、いろいろめぐり合わせが悪く不運な十年間にピリオドを打ちかけたことと比べると、実際に幸運であったとしかいえないことも多い。
ここでようやくヨランタと新ゆめの関わりの話ができる。
ヨランタの事件は国際的な問題ではなく、聖堂襲撃・奪還事件の容疑者の名も、新ゆめの知るところではなかった。知ったのは、初日の犬の一件の後にイザベッラから聞いたことによる。
とても信じられる話ではなかった。神聖魔法の天才と呼ばれる自分でさえ、それほどの怪我ともなれば匙を投げたくなる。まして、自分の怪我を自分で冷静に対処するなど精神が保つはずがない。
そのうえに、それだけの暴力をふるった相手に冗談交じりの軽口を飛ばし、酒食を共にするとはどういう神経をしているのか。鉄の神経か。あるいは真の聖女。神の如き許しの心を持っているのか。
疑問を明らかにすべく、翌日にも店を訪ねてヨランタと回復魔法談義にふけり、その場で弟子入りを申し込んだ。といっても言葉だけのものだったが、新ゆめにとって得るものは何かしらあったようだ。
*
「ヨランタ師匠、グラス空いてますよ、お注ぎします、水!」
「ん、苦しゅうない。」
一方のヨランタには、彼女が最初の弟子となる。人の師匠になるには、若いし貫禄もない。加えて住所不定の逃亡者でもあった。
ここで初めて師と呼ばれて美々しい装いの大人に傅かれ、チョロくも有頂天になってしまっている。
「弟子よ、本当に一番知りたい回復魔法はハゲ治療で良いのか?」
「師よ、それは現代世界においてさえ男性とその妻女にとって見果てぬ夢です。この技を少数で独占できれば世界さえ支配し得る。私も、旦那の一族を倒せます。」
「危険な、技であるぞ?」
「委細、承知の上です! よろしくお願いします。」
「なにを言うてんねん、アホか。ハイおまたせ、ハヤシライス。」
「わぁい☆」
「師よ! ……いや、食後に。」
ハヤシライス。近代日本料理でありながら名の由来さえ曖昧な謎料理。しかしその味や姿に曖昧な部分はなく、ハヤシライスはどこで食べても、高級でも低級でもハヤシライスだ。
日本にはこれをカレーライスの一派と見る向きもあるが、マーチンにとってはカレーにはじゃがいもが必須で、ハヤシには無いので両者はまるで別のもの、と見ている。ちなみにビーフシチューの方をカレーの偽物と思っているような、そうでもないような。
とにかく、ハヤシライスである。
カレーはキーマカレーやグリーンカレー、納豆カレーや餃子カレーなど自由だが、ハヤシはハッシュドビーフなのでそういった自由度が低い。そのため、先述した〝どこで食べてもハヤシライス〟理論が横行しているのだろう。
豚肉や鶏肉のハヤシライスだって、作れば普通に美味しい。日本の巷には納豆ハヤシやイワシ・サバのハヤシを作る挑戦者だっている。料理は自由だ。
しかし今回はリクエスト料理なので、まったく普通の薄切り牛肉・タマネギ・きのこ類のお家ハヤシライス。どこに出してもハヤシライスな逸品だ。
「この外見だと、とんかつが欲しくなるね」
とは、カツカレー好きのヨランタの第一印象だがマーチンは無視。
「いただきます。そう! これ、思い出した、この味! あー、やっぱり再現は遠いなぁ!」
眉間をもみながら述懐する新ゆめ。
「再現って、どこまで出来てんの?」
「恥ずかしい話、地元では〝ユメさんの酸っぱいシチューは絶品だ〟って言ってもらってて。でも、トマトの酸味を酢で代用するのは、こうやって比べると無理があったかな。」
「赤ワインじゃなくて?」
「ワインだと、普通にワイン煮込みになっちゃう。うーん、もっとコンソメもどきを濃く? 甘味ももっと必要だね。んー。
子供の頃は料理なんて全然しなかったからねぇ。不思議に、こっち来てから〝ユメさんの ‘ごった煮’ と ’有るもの炒め’ は絶品だ〟って言ってもらってるけど。塩と油をケチらないだけなのよね。」
懐かしのはずの味にも騒ぎ立てたり掻き込んだりせず、真剣に匙を運び、確かめ、記憶に刻み込むように味わう。
その横顔は、一番に良いものを食べさせたい人のことを想う母の表情。なるほど、理不尽な不運にあっても地に足をつけて、精一杯幸せに生きることができる人とは、かくも尊く見えるものか。
ここに日本のよすがを見つけても、帰ることを一瞬たりとも一顧だにしなかったこともよくわかる。
なぁ、いまだ地に足をつける気がないヨランタさんよ。あー、もう、がっついちゃって。
*
「おかわり! これはこれでちょうおいしい。そしてビール!」
「ひとの師匠やるなら昼酒は控えなはれ。」
「酔うほど飲まないってば。水じゃ物足りないと思わない?」
「…あ、ビール!シチューにこっちのエール混ぜたらどうだろう!?」
馬鹿な会話から何かをひらめいたようにゆめが反応する。
「あぁ、ルゥのとろみは小麦粉やしね、無濾過なこっちのんが合うかも。」
「えっ、とろみって小麦粉!!!?? 知らなかった !!!」
「今日いちばんのビックリマークありがとう。試行錯誤の苦労が知れるね。お役に立てたなら幸い。…ヨランタさんにはおかわりとゼロビール。」
「マーチンは、このユメさんにも妙に優しい。っていうか私に厳しい。なぜ!胸の大きさか!」
「ビール、出してあげたやんけ。要らんなら下げるよ」
「要る! そうじゃなくて、口調とか、眼差し、とか……」
「こっ恥ずかしいこと言うて自分で照れてたらしょうがないわ。俺まで恥ずかしくなってきた。
……ところでユメさん。
この店のものは、謎の神様パワーで外には持ち出せないことになってるのね。」
「? あ、そうなんだね。」
「でも、いまは缶詰だけは外への持ち出しが可能になってる。
…これを出したら、今までのユメさんの苦労を台無しにしかねへんから心苦しくはあるんやけど、こういうのをお土産に持って帰ってもらえる。」
ハインツのデミグラスソース缶。そして業務用ケチャップ缶。
ゆめの細い目が丸く見開き、口もぽかんと丸く開く。
「ついでに、カレー粉の缶もある。お醤油は、缶では一斗缶しかないけど持てるなら渡せる。ただし米と味噌は無い。自衛隊のレーションも今は缶やなくてパウチなんやって。ま、それはともかく、どうえ?」
「……そ、そんな、いただけません! ご厚意に、返せるものがない……。」
「んな、たいしたもんやないことは知ってるやろうに。あんまり仰山ご入用やったら代金もらうし、お国まで送れ言われたらそれこそ商売になるから、そうなったときの機微はヨランタさんに任せる。
その意味では、試供品みたいなもんや。」
「マーチン…!」
横で、感動に目を潤ませているのはヨランタ。その口元はべったりソースで汚れているので、マーチンは目を向けない。
ゆめは、力強い決意を秘めてにっこり笑い、立ち上がって握手の手を差し出す。
「商売はお任せください!きっと、国で流行らせて商売を成功させてみせます!」
「いや別に、俺は成功せんでもええんやけど。ま、ヨランタさんと仲良うしたってや。」




