トマトスライス と 花陽浴
「わらわが来たぞよ! …ぉよ?」
やれやれ、面倒なのが来たか。しかし、来てもらわないと困るところでもあった。
店の入口近くには『大主教猊下と狂狼閣下でお割りになられた皿』という題で、割れた伊万里の大皿を額縁に貼り付けた芸術作品が飾られている。
「素晴らしい作品やろ、金貨100枚でお買い上げになられてはどうかね。」
「なぬっ、これは、しかし、普通に弁償しろと怒ってくれても良かったのでは?」
「それで払ってくれる殊勝なヤツなら逃げたりせんやろ?」
「いや、逃げたのはノリで……。さすがのわらわもそんなにお小遣いはないぞよ。狂狼と折半で、金貨10枚で勘弁してもらえんでしょうか……あ、ちなみにイザベッラめは閣下呼びするほど偉くはないぞ。
じゃ、ないの。ヨランタ。いるでしょう、ヨランタ。出してきてくださらない?」
「なんや、まだ捕まえて拷問でも?」
「逆です、逆、逆。先日も申しましたでしょ、外国の使節団の話。店主殿のお料理は、使節どもにここでまで来させるとして。
彼女には神聖魔法の使い手代表、いわゆる聖者、〝聖女ヨランタ〟として列席していただきます。子爵位と同等の権威がある立場ですのよ、土民にこれほどの名誉はありませんわ★」
「それは、キミの立場と比べると?」
「塵芥同然。いや、わらわを太陽としたら、星屑のごとし。それでも、天の星には違いないでしょう? それで、ご本人は?」
「なんか、すねて裏に引っ込んでしもうてる。酒瓶抱えて。」
「ぅん? 喧嘩でもしたの?」
「知らん。何が何やら。」
「ちょっと、おじさん! おじさんが女の子を知らずに怒らしたときは無条件におじさんが悪い! 店主殿、ちょっとこっち来て座りなさい。この、のちの〝恋の守護聖人〟である、ファニー大主教猊下様様が恋の手ほどきを語り聞かせてあげましょう。」
「それは、ご利益の少なそうな守護聖人様やな、遠慮するわ。おぉーい、ヨランタさん、お客さんやで、出てきー!」
*
「それにしても店主殿、芸術もイケる口ですのね。」
ヨランタに呼びかけた件はさておき、大主教ちゃんは店内を見回してすこし感心したように語る。
「皿は、あんたが割ったもんやで。」
「じゃなくて、あれ。この間の破魔矢? 飾り方を変えたのね、アンズの花かしら、キレイ。こんな飾り方があるのですね。」
「あぁ、壁掛けの箙(矢筒)形の花入れに、咲き始めの梅の一枝と一緒に入れてみた。矢が本格的すぎて神棚には似合わんかったし、危ない。時期もちょうどええし、ちょっとさみしい気もするけど、わっさりさせても変やしな。
アンズの花?…とは、だいたい一緒か。でも、香りがええやろ。猊下ちゃん、ほら。」
「まぁ、珍しい花をプレゼントしてくださるの? あら、まぁ!まぁ!」
「あげへんよ、店の飾りなんやから! 香りだけ。…この国のヤツはどうなっとんねん、まったく。」
趣向を褒められて気分良くなったマーチンが花入れから梅の枝を取り出して、花の香りをかがせてあげようとしたところ猊下ちゃんはガシッと枝を掴んで、これまた自分のものにしようとしている。
意外なほど力が強い。マーチンが引っ込めようとしても、うふふ、うふふと様子ばかりは上品に笑いながら、絶対に引く気がないらしい。枝が折れないギリギリの力のバランスで拮抗してしまう。
さて、どうしたものか、ここで譲るのは負けた気がする。マーチンが逡巡している間に、ゆらり、呼ばれていた人物がようやく登場。猊下ちゃんの気が緩んだ隙に、花の回収に成功する。
「マぁ~ティン。よんら~?」
呼ばれてからしばらくたって奥から出てきたヨランタは、寝入り端を起こされた不機嫌さもあらわな酔いどれの赤ら顔で、両手でお人形のように空き瓶を抱えている。髪は寝起きで整えもせず、服装は上はもこもこパジャマ、下はズボンも履かない素足。
「この子…コレを聖女にスカウトすんの? 本気? 他に誰かおらへんの。」
目を覆って、案外に深刻な声色のマーチン。
「花……自信をなくしますわ。でも、花も欲しいし、この娘の技術も欲しい。わらわは欲しいものは手に入れたいのです。あと、こんなでも命の恩人ですから。わらわにできる報恩は偉くしてやることの他にないですもの。」
珍しく、ひどくだらしない酔い方をしているヨランタに水を飲ませ、「キミ、聖女になれるんやって。なりたい?」と聞くマーチン。
ふらふらしながらの聖者候補の返事は「せいじゃぉ? なにするのぉ?」
「どんな仕事する人なん?って。」
「むしろ、何が出来るのか聞こうと思って来たのですけれども。これはしょうがないですね。これ、娘。せめてわらわの膝で眠りなさい。」
かつての野生の用心深さはどこへやら、言われるままに大主教ちゃんの太ももに頭をあずけて、あっさり寝息を立て始めるヨランタ。
膝をついて上半身をもたれさせる不自然な姿勢ながら、穏やかな笑みを浮かべて、すやすやと心地よさそうだ。
*
「なんか、悪いね。何がそこまで気に食わんかったもんやら。
さて猊下ちゃん、いま帰れとも言われへんし、なにか食べてく?」
「そう来なくては! 蜜より甘く、クリームより滑らかで、香りよく刺激的なものを所望します!」
「そんなものは無い。ここは酒場。わかる? うーん、いやちょっと待て。猊下ちゃん、キミ、今日は何を食べた?」
「今日、いただいたもの? …回復してからの、いつものメニューですわ。朝は〝蜜を泳ぐ果実のパイ〟に、カップにお砂糖3分の1のお茶。お昼は、仔牛の蜂蜜ワイン煮と果物サラダ。ヨーグルトかけは真似させていただきましたわ。たっぷりお砂糖を混ぜて。それに、甘々ワイン。おやつは、…」
「わかった。わかったから、もうええ。キミに食わす料理はない。自殺の手伝いなんてできるかいな。」
「これでも命は惜しくなったから、病む前の半分ほどに留めてますのよ。自殺呼ばわりは心外ですわ。」
「病む前っていつの話や。十代の頃か。」
「二十代の頃ですわ。」
「今は?」
「三十から先は数えておりませんわ。」
「キミは一種の味覚障害や。…せやな、それなりに甘くてもヘルシーなものをあげよう。ちょうど、ええもんがあった。」
冷蔵庫から料理人が出してきた食材は、トマト。赤くてまん丸、はちきれそうな薄皮の野菜。だが、日本の我々が知る普通のトマトよりは小ぶりで、ミニトマトよりは大きいサイズ。
「それもまた珍しい……何ですの?」
「これは、トマト。ナスの仲間の野菜。ではあるけど、まるで似てへんよね。でもピーマンやパプリカもナスの仲間やし、ピーマンかて熟したら真っ赤になるし、それとはちょっとだけ似てるかもしらん。
で、このトマトはいわゆるフルーツトマト。特別に甘い、冬に育てて春先に収穫できる種類のトマト。」
「甘いんですの?」
「甘い。酸っぱみもあるけど、甘酸っぱいって感じでもなくて、まず甘くて後が酸っぱい感じ?まぁ、食べてみよし。結構な高級品やで。」
「料理、しないんですの?」
「しない。貴様は既に3日分の栄養を摂取している。生スライスで食べるのが限界。
普通のトマトなら、生スライスでも生タマネギのみじん切りとオリーブオイルとか鰹節と醤油マヨで出すところやけどな、このトマトはこれでもじゅうぶん。
…ま、酒場やからな、お酒は出してあげよう。これは春らしい甘口の〝花陽浴〟。埼玉の北の群馬との県境、いわゆる秘境でほそぼそ作ってる酒やけど、そうとは思えん洗練されたキレイな酒やで。」
大主教ちゃん専用の白い徳利と蛇の目のお猪口が、香り高く澄んだ液体に満たされた。
手袋に包まれた繊手がお猪口をつまみ上げ、赤い紅を引いた口元に運び、スカーフに覆われた白い喉がのけぞってわずかに露われ、ごくりと動いて酒が飲み干される。
濡れた口元が笑う形に妖しく形どられ、チラリ、舌の先が雫を舐め取る。落ち着いた空間の中で予想外の艶かしさにマーチンの喉もゴクリと動くなか、彼女の右手がお猪口を置いて、トマトの一片をつまみ上げて口へ運ぶ。
「繊細で上品な、良いお味ですね。」
「それ、味が薄いっていう表現やね。んー、重症やな。」
「んぅー、私も。」
膝の上で猫か何かのように食べ物の気配で目を覚ましたヨランタがむずかるので、そのまま左手で頭を撫でながら、右手でトマトを与える大主教シュテファニエ。本人にどうやらトマトはあまりお気に召さなかったようで、その手つきにためらいはない。
「あまーい! 目が覚める濃厚な甘さ! 超おいしい☆」
「えっ、本当に?」
「ほら見ろ、キミは蜜で舌が馬鹿になってる。花陽浴はもったいなかったな、ガブガブくんでじゅうぶんやった。偉い人と聞くと、つい上等もんを出してしまう俺もしょうもなかったな、反省。この味音痴め。
花陽浴については、またどこかでリベンジしよう。お花見のお供に、そのうち…」
「…わ、わらわを、よりにもよってわらわを味音痴とな! そ、それは店主殿とて許されませんよ!」
「うるさい。酒器の目利きも、ものの味もわからんで身分だけ偉いとは笑わせる。あ、花の良さはわかってたな。じゃあ、そのうち手ずからの庭の春の景色を見せてもらおう。それが良ければ偉い人と認めてあげる。」
「申したな! ならば、わらわの茶会にお招きしようではないか。吠え面かかせてくれる、逃げるでないぞ★」
「あまーい野菜?に、あまーいお酒。あー、人生、これでいいよね。」
「ヨランタさんも、もうちょっと、なんていうか、せめてお尻を隠せ。人であるのはそれからやで。」




