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今日の突き出し代わりは意外な品、レーズンバター。合わせる酒は〝Takachiyo〟。以前にも飲んだ甘い日本酒〝たかちよ〟の別バージョンで、あのガツンとした甘さに比べると上品でシックな味わい。
ヨランタ、改め〝よし子〟は疲弊している。
変装することでトラウマを越えて、一度はマーチンといっしょになら外出できた。が、1人では相変わらず外に出ることができないでいる。
先日の、イザベッラを追うべしとのクエストも、慌ててサングラスを掛け直して夜の街に踏み出したが、何も見えずにもちろん失敗。前途多難。
今日はマーチンの身代わり(呪い)人形をこさえて出かけてみたが、未知のダンジョンの即死層を潜る気分がして、十分間の他出を十時間に感じるほど疲れ果ててしまう。帰り着くなり。マーチンが常に見えるキッチンの片隅に座り込んで、邪険にされつつ夕方まで眠り込んでしまったほどだ。
で、寝起き次第に甘いものを所望し、今はまさにその甘いものに舌鼓を打っている。
*
「冬の味だね、バター。」
「なんや、またロクでもない思い出が?」
「冬ごもりの備蓄にね。たくさん、たって多寡が知れてるけど、なるべくたくさん。で、冬至祭に食べる最後の出来立ては本当に美味なんだよ、これに負けないくらい。」
数少ない、実家時代の笑顔の記憶だ。でもそれから冬中、備蓄としてチミチミと食べ続けて、冬の終わりごろには、*とか○を注意深く取り除きながら、すっかり黒ずんで乾いて嫌な匂いの脂を……
忘れよう、それは。
「バターの使い方としては、しんどい風習やね。ま、何かしらしょうがなくてそうしてんのやろけど。で? レーズンバターの感想は?」
「私、お外にいい思い出がなくてココから離れたくないから出られなくなってるのかもしれない。あの頃の人生最良の味の上位互換が注文ひとつで無造作に出てくるのだもの。
マーチン、どう思う?」
「なるほど、危険を冒して外に出ることの報酬が感じられないというのね。じゅうぶん働いてた頃のお金があるし、長生きにバラ色の未来も感じてないから。そしてこの先ウン十年を、薄暗い天井の下でゴロゴロと…」
「いや、そんな深刻な、アレでは。…マーチンみたいに堂々と〝働きたくない〟って言ってみたいって思ってはいたけど、」
あれ? 私って、そんなに客観的にかわいそう? 今は羨まない人もいないリッチで自由な人生を歩めていると思ってたんだけど。そりゃあ、マーチンはじめ日本の人ほどじゃないけどさ!
レーズンバターをひと欠片、舌に乗せて溶けてゆく感触を味わって、干しブドウを噛み、お酒でお腹へ流し込む。甘露、甘露。
そうね、お金が続くならもう外に出る理由がないのは本当かもしれない。でも、ねぇ。続くかどうかもわからないし、そんなわけにもいかないじゃない?
ひとり悶々としていると、カラリと戸が開いた。
入ってきたのは、不思議な雰囲気の女性。
「おや、見ない顔だねぇ。」
我ながら小悪党のようなセリフになってしまったけど、マーチンは普通に「ぃらっしゃい、どうぞお好きな席へ。テーブル席でもええよ。」と興味なさそうに流す。
小金持ってそうな新規の客をどうしてそんな雑に扱うんだろう、ホントそういうところ商売っ気がダメすぎるよ。やっぱり接客の店員がいるほうがいいじゃないの、マーチン。
*
新顔の女性はお一人様で、多少ふっくらした上品な美人。黒髪はまっすぐ腰まで伸び、優雅な上流市民の服装はまるで似合っておらず、ひと目でそれどころではない階層なのがわかる。
この界隈と店にはふさわしくない優雅な物腰で、多少戸惑ったような、そういう気持ちを隠しているような様子で入口から店内を見回している。
表情に浮かべている人の良さそうな微笑みは、無表情の顔をこう作っているだけに違いない。笑みの裏に感情が伺えない。
顔は二十台後半くらいの若さをつくってるけど、私の見立てでは彼女は四十歳代。さり気なく首元をスカーフで隠し、長めの手袋で手首まで覆っているのでも明らか。しかもスキンケア魔法の残滓が見える。
しばらく前からカウンターの隅で大人しく飲んでいたルドウィクがチラリと目線を向け、慌ててそむけて帰り支度を始める。いま流れている谷山浩子の可愛らしくも難解な詩に何やらメモを残していた紙片が舞う。
それに向けては一言も発さず、ただじっと見るだけで不良楽士の逃走を阻止し、そのぴったり隣に着座する。
「さて、何を食べさせてくれるのかしらね?」
宝玉を転がしたような、玲瓏とした声が響く。
「んー、今日は特別変わったものはないけど、肉、魚、野菜、甘いもの、大体のご希望には添えるで。」
「えー? どうしようかな、今はどっちかというと脂塩っぱいものが食べたいわねぇ。店主さんのオススメは?」
女は曖昧な注文をするけど、私には気になったことがある。
「(ボソボソ)マーチン、マーチン。この人、もうすぐ死ぬ人の匂いがする。」
「(ボソボソ)なにっ。知らんがな。病気?なんかの運命?」
「(ボソボソ)運命なんて知らないよ。ただの不摂生だよ。」
「(ボソボソ)しょうもな。で? 治してあげんの?」
「いや、頼まれてお金を出してもらったらやるけど。彼女にも事情があるだろうから。客を他所から取り上げたらマズいよ。今は特に、聖堂に金貨積んでそうな女性に営業かける気はないね。」
「ほー。ま、知らんな。そういうことなら、今日はバターつながりでバター醤油炒めにする予定やったけど。豚しゃぶサラダとかが無難かなぁ。」
ひそひそ話だったけど、バッチリ聞かれていたらしく。女はギロリと目を大きく見開いて、私を見ているともマーチンを見ているとも判別しにくい視線をこちらに送ってくる。
「わらわに対する配慮は無用ですよ。そういうのは飽き飽きなんです、店主さんの最強の力作をこそお願いしますね。」
「予約か気まぐれがなかったら普通の材料しか用意してへんで。ま、せやったら普通のごちそうを用意したげよう。バターはちょっと上等もんやし。せめて、牛豚より鶏がヘルシーかな。でもご希望に沿うならムネよりモモか。罪深いねぇ。
じゃ、とりあえず突き出しはタラのぶつ切りとコーンのバター炒め小鉢。お酒は、岐阜の辛口・竹雀で引き締めよう。酒器は、どれがお好み?」
*
あの女、一人称が〝わらわ〟だったぞ。絶対面倒くさい人だ。何者だ、いったい。ルドウィクは音楽の世界に逃避してしまってるし、私だって関わり合いになりたくもない。でも、マーチンはノーリアクションで淡々と食事の準備を進める。さすが!
そして酒器選びタイム、いくつもの陶磁器を並べた籠を前にした〝わらわ〟さんは大きな目をパチクリさせてしばらくそれらを眺めて、磁器を3つ、4つ、ヒョイヒョイと取り出して、自然な様子で懐に収める。
え?
「コラお嬢ちゃん、何してけつかる。それは、今ここで使いたいのを選べってだけでプレゼントちゃうねん。懐に仕舞ったもん出しなさい!」
「お、お嬢ちゃん!? これは、わらわが持つにふさわしいものですわ。召し上げにしようかと思いましたが、殊勝な態度なので褒美を授けましょう。ルドウィク!」
「あの、猊下、お忍びだったのでは? いや、ダメですって。後から代理人を遣わして交渉しましょう、今はお戻しになって、」
「嫌じゃ。見よ、この精細な彩色。これこそ神技。神の代理人たるわらわが持たずしてどうする。」
「まこと、素晴らしいですね猊下。他にはどのようなものが?」
「ふむ。この金彩の輝き。こちら、硝子窓のある盃など誰が考えようか。さらにこれ、秘中の秘、曜変天目をなぜ無造作に並べているのか……」
「いやぁ、スゴイですね。マスター、お返しします、すみません。」
「あぁっ! おのれルドウィク!」
無邪気に、カウンターで戦利品を楽士に開陳していた〝わらわ〟ちゃんだが、そのままスムーズに楽士の裏切りに遭って酒器たちはマーチンに返却されてしまう。
それはもう構わない。問題は〝猊下〟と呼ばれるべき存在は、この世に多くはいないということ。しかも、聖堂所属の楽士をアゴで使える身分の人。
まさかルドウィク、そのバカ女が、あの?
「そう、王女殿下改め、我らが聖堂に君臨する、尊くも麗しき永遠の姫君、大主教猊下です。あ、マスター、せめて何か食べさせてあげて、ぐぇっ、」
首を絞められながら揺さぶられている男からの苦しげな注文に、マーチンは大きなため息をひとつ。
「選べっていって持っていこうとするヤツは初めてやで。ヨランタさんでさえ未遂やのに。…しょうがない、猊下ちゃんには一合グラスで。小鉢は、黒備前なら盗まんやろ。さっさと食って出ていけ。」




