挿話 音楽とウイスキー Jameson
お騒がせさんがようやく帰ってくれた。プレッシャーの元がなくなって、落ち着いた静けさが戻ってくる。手放しに歓迎したい状態だ。
「あー、ほっこりした、清々した。」
マーチンが首をコキコキいわせながらお鍋をキッチンに片付けている。
「いやぁ、それにしても騒々しかったねぇ。」
「半分以上キミが騒いでたけどな。」
さて、私も魔力と栄養を貯めていたので、うるさいのが消えたのを見計らって身体を回復させる。走ったり暴れたりはできないけど、これで両足で歩けるぞ。
数日ぶりに地面に足をつけて、立ち上がってみる。まだ、ちょっと腱がフニャフニャして踏ん張りがきかない。数歩よちよちと歩いてみて、別の椅子にすがりついて、また座り込んでしまう。
「おぉ、あんよが上手。キミのそれ、ホンマずるいな。血みどろの襤褸から3、4日ほどでもう、そんなんか。」
「あらマーチン、もっと私のお世話焼きたかった? 言ってくれれば、いつだって。」
「いや、もういっそ、空飛んで月まで行けるくらい回復してくれ。
それはそうと、音楽鳴らせるようになったらしいな。また面倒の種ではあるけど、試してみようか。」
*
マーチンは何やら明らかに見知った動きで、部屋の隅にあった銀色の箱のツマミをいじっている。
「今から元気がいい曲を聞くのは無理やな。んー、寝落ちを覚悟で昔のジャズを。
ポチッとな。」
号令一下、店内にどこからともなく音楽が流れ出す。
ニホンのお店ではどこでも音楽が流れていた、あれはどこに楽団がいるのかと思っていたけれど、これと同じ神様関係の力だったんだね、ほほぅ。
あれらに比べるとずいぶん落ち着いた、マーチンのセレクトらしい音楽はどういう楽器がどう鳴っているのか想像もつかない。でも、いい感じ。
イボンヌは聞きそびれて損をしたね。
「お、ビル・エヴァンスの〝ワルツ フォー デビイ〟。ええ曲や。……この店、音響ええな。さすが、神。
こうなってくると、合わせるのは日本酒ではないかな。特に上等のシングルモルトはないけど、ウイスキーが要るな!」
「あのぅ、マーチン、それは?」
「ヨランタさんも飲む?」
「もちろん。でも、そうじゃなくて…」
「今あるウイスキーは、ジャズの趣とはちょっとちゃうけど俺のお気に入り、アイリッシュの〝ジェイムソン〟。アイリッシュウイスキーはスコッチみたいなピート香がない代わり、いろんなハーブの香りがついてて、これはこれで独特の味わいなのね。」
「ほぅ、ほう! …いや、そうじゃなくて…」
「アルコールがかなりキツイんで、水割り、ソーダ割りの〝ハイボール〟、氷だけ入れる〝オンザロック〟の飲み方がある。
今の季節ならお湯割りでもいいけど、ジャズの名盤を聴きながら、にはちょっと合わへんかな。
おすすめは氷なしの水割り。みんなハイボールにしたがるけど、あれはなんでなんやろ、わからんわ。ビールやチューハイ好きは炭酸が落ち着くんやろうか。
ロックで飲むのは確かにカッコええけど、あれも酒強い自慢のいちびりが見えて、どうもな。」
「んじゃ、私はまずオンザロックでお願い。いちびりって言葉、初めて知ったけどまんま私のことじゃないの。どんどんいちびっていくわ。」
*
かっこよく表面がカットされた大ぶりのグラスに大きな氷が落とされ、琥珀色のお酒が注がれていく。
薄暗い照明は野菜の色が映える白から、こちらも落ち着いたアンバーに切り替えられて、また新しい別の曲が鳴り出した店内の景色にグラスのお酒が超映え。
これだけ準備ができてるってことは、今までも知らないところでこの男はウイスキーも楽しんでいたに違いない。なんと、つれない秘密主義者であることか。
マーチンは椅子を3つ並べて、水割りを片手にくつろぎ空間を演出してる。良く見ると、彼のグラスは大きくかけたのを金継ぎしてあって超渋い。惚れ直す。
その横顔を見ながら、眠気を誘う〝セイ・イット〟の調べを背景に、まずは香りを嗜む。こ、これは、強いぞ!しかしいちびり負けてたまるものか。
キュッ、と一口。くゎっ!
喉が、胃壁が、焼けてただれる。原液の特濃の香りが喉から鼻に上がってきて、酒精はお腹から全身の血管ににじみ出て脳に突き刺さる。
マーチンが横目で私を見ている。ここで無様は晒せないぞ、いちびったならいちびりきらなきゃ。ふふーん、やるじゃない!
彼によれば、日本酒やビール、ワインなど〝醸造酒〟とは違う、焼酎やウイスキー、ブランデーは〝蒸留酒〟というジャンルになるので扱いはガラリと変わる、らしい。
具体的には、グッと薄めるか、ちびちび飲むか、ガッと飲んでバタリと寝るか。
「それから、キミが前に飲みたがってたコニャックはブドウ蒸留酒・ブランデーの一種やで。俺は庶民派やからコニャックの良し悪しなんかわからんし興味もないから、入荷せんけどね。」
そうなんだ。ニホンの世界とこの世界でそういう同じものがあるって不思議だけど、だいたい同じものが同じ言葉の名前で翻訳されてる、ってことなのかな。言われたら、改めてコニャックも飲みたくなってきた。次にニホンに行けた時の目標にしよう!
まどろむように、優雅にグラスを傾けていた男が呟くように口ずさみはじめる。音楽は新しい曲に移っていた。
〽Lはあなたの眼差しlook at me、Oは私が見つめるonly one…
さっきまでのは演奏のみのインストゥルメンタルだったが、これは素朴ながら歌が入る曲だ。ナット・キング・コールの〝L-O-V-E〟、オールディーズの金字塔。
今やおじやうどんの空気は流れ去り、ウイスキーの香気とジャズのリズムが空間を満たしている。
〽Love、それは君に捧げる全て。Love、2人のゲームじゃなく、恋人たちがつくりあげるもの…
*
「ほぉーん、英語の歌を自動翻訳が効いたここで聞いたら、こんなふうに聞こえるんね。英語のまま英語で意味がわかるわ。面白。
ヨランタさん、そんな突っ伏してどうしたん。」
「も、もうっ、もうっ! 死ぬっ、照れ死ぬ! こんな情熱的な口説き、ジグムントを十人束ねて十年かけても絶対出てこないわっ。熱い、顔が熱くて死ぬ!」
「あり物の歌やがな。え、こっちやったら特別な意味になんのん? かなんわぁ。」
「夜に2人きりで歌を捧げるなんて、それも草花とか星とかに例える求婚歌どころか、あんなに、あんな、キャー!」
机に伏せて悶えていたヨランタがか細くわめきながら床に転がり落ちて、右手で顔を隠しながらなおも悶えている。
「ンな、この世界って奈良時代の歌垣とかレベルで素朴な文化なん? 困ったな、今の曲をアイツラおる間に流してたらどんな事になってたんやら。」
「ハレンチハレンチ!…んー、2人きり、とか良いムード、とかなかったら普通かもしれないけど、あの35に見える28に聞かせたら絶対、警察が出動するわ。」
「神様がこの店で歌を流せって言わはったんやけどもなぁ。ヨランタさんはどう思うん」
「ふつつか者ですが……」
「食い気味で冗談はやめてね。キミはちょっと酔いすぎてるだけ。わかった!?」
「大丈夫だと思う!」
「なにが。
とにかく、さっきのジャズは求婚でも妻問いでもないからな。」
「マーチンは、私の何がそんなにダメなの!」
「んー、色々あるけど一番は、俺が24,5の娘さんに言い寄る年齢じゃないことかな。他所でいい男をお探し。」
「寿命くらい、なんとかしてみせるし! 私だって25歳に見えないでしょ、魔法でなんとかなるから!」
「ほんまに? いやしかし、それはどうかね。
ま、キミはお尋ね者でなくなるなら付き合いも広がるやろから焦って決めることないさ、誰か、なんかあるやろ。」
「ないと思うなぁ……私は最悪、使徒マーチン様の側室でもいいから。あの歌、また歌ってね!」




