(2)
良いお酒だ。ああ、良いお酒だ。
世の中には、こんなに良いものがある。そう考えればこの世の中も捨てたものではない。
でも、このお酒の世界はこの世界じゃない。そしてその世界への門は私の前には閉ざされてしまった。
「え、どうしたん?」
「別に、何も?」
と、言い返そうとして喉から上が仕事しないことに気付いた。私は呑みながらおぅおぅと咽び泣いていたんだ。
正直、自分でも何がそこまでショックなのかわからない。ニホンのものはマーチンが持ってきてくれる。ニホンで大儲けしたいと言っていたのも半分以上冗談だ。失ったものは何もない。なのに、悲しい。
「まあ、全然関係ない人からでも悪意を浴びせられるってキツイからね。顔も知らんでも、神様から徳のない感じで悪しざまに言われたらショックでしょ。俺でも、もし阿弥陀さんとか観音さんに罵られたら気持ちの深いところでショックやろし。
泣くだけ泣いて、酒のんで飯を食おう。」
そういうことだろうか? そうかもしれない。自分がわからない。でも、マーチンが言うのならそうなのだろう。確かに、人がたくさんの市場の真ん中で裸に剥かれて僧兵に追い回されたんだ。寒いなか。育ちの良いお嬢様なら裸の時点で再起不能だろう。
もしかして彼は私にそういう繊細さを求めてくれているのだろうか。だとしたら叶えてあげたい気持ちもある。お嬢様ムーヴの先生には心当たりがある。学んでみよう。ところでニホンの神様はアミダとカンノンというのか、覚えておこう。
それはそれとして、いいよね、お嬢様。私も、なんだかんだ、お嬢様って好き。とりあえず今日は我流のお嬢様でいることにする。しゃなり、めそめそ。それにしてもこのお酒、仙介?は、とてつもなくおいしい。キリリと澄み渡って、人間が感じられるあらゆる香しいという概念を刺激してくる。
でも、もうちょっといい響きの名前があるんじゃないか。田酒のときもそう思った。なんだかもっさり感がある。これをマーチンに言ったら怒られるだろうか? 怒られて済めばいいけど、軽蔑されては困る。彼の考えることはいまだちょっと予想がつかない。
「しかし、仙介って名前はどうかと思うよね。田酒、とか飛露喜とか、旨いのにちょっとその名前はどうか、ってのも珍しくはないけど。」
あ、なんだ、マーチンも同じように思ってたのか。
*
ありがとう、落ち着きました。おいしいものの威力って強い。
落ち込んでいた心が回復したわけじゃない。ダメになった患部を切り離すようにイヤな気持ちを無かったことにしただけ。ツラい人生も私くらいになれば、自由に部分的に心を閉ざすことができるんだ。今回はちょっと時間がかかってしまっただけ。
ここから満腹に持っていければ、もっと大丈夫になれるはず。
まだ泣き腫らした目がショボショボしているけれど、テンションを上げていこう。鯛のお刺身、おいしいよね。いただきます。
おほっ、コリッとしたいい歯ごたえ、口の温度で溶けて甘みを感じさせるいい脂、淡いようでしっかりしたいいお味。いいお醤油、いいお大根、いいわさび。いいお皿、いい空間、いい空気。
ああ、鯛。鮃も鰤もいいけれど、鮪も鰹もいいけれど、鯵も鰆だっておいしいけれども。鯛ってスペシャル感がある。王者の風格がある。食べちゃうけどさ。
あ、さらにいい匂いがする。これは、ごはんの匂い? マーチンは何を作ってるの? 全部食べちゃうよ。
「せやから、待てって。
前に言うたけど、ご飯ものでお酒を飲むことはマナー違反とされてる。でも、マナーなんかどうでもよくなるくらい日本酒に合うご飯ものがある。うん、もうすぐ炊けるぞ。」
見るからに年代物の土鍋の蓋が開き、湯気がふわりと沸き立つ。同時に、炊きたてご飯と香ばしいお醤油の香りが押し寄せる。たちまち、胃が痙攣し始めたかと思うほど激しく反応した。
冷酒とお刺身では、どんなにおいしくてもこうはならない。やはり人間には熱と穀物が必要だ。私に馴染み深いのは焼き立てパンの香りだけど、最近はご飯に宗旨替えも検討していたくらい、こちらも蠱惑的。
お鍋の中には、茶色いご飯と、その上に丸々の鯛が一尾。
「この鯛の身をほぐして、ご飯と混ぜ合わせる。これが、松山の鯛めし。」
これは、なかなか豪快だ。頭ごと?骨ごと?
「いや、骨とかは外すよ。頭からは食える肉部分は掘り出して、うむ、美しかろう。そして、おしゃもじでほぐしながら混ぜる。おーっ、お焦げもバッチリ! たまらんね。」
私もたまらん。鯛のお出汁の香りでお酒が飲める。あぁ、空きっ腹に刺激が強い。早く、早く!
「まだ、もうちょいお待ち。炊飯器のお米も炊けた。こっちでは、宇和島風の鯛めしを作る。」
「山風と、島風ね。わかったから急いでね。」
「時間はかからんよ。白ご飯を丼に盛って、お刺身の鯛、ちゃんと残してるな、よしよし。これを並べて、刻み海苔、ゴマ、わさび、そしてタレをとろりと掛ける。仕上げに生卵の黄身を乗せて。完成。遠慮なくグチャッと潰して掻き込むがいい。もとは漁師めしなんで、品は気にせんで良し!
俺としてはミョウガも薬味にしたかったけど時期外れすぎたから今日は無し。」
こんな美しいものが、品のない労働者めしだって? いったい、どうなってるんだニホン。うぅ、またしても閉ざした心の門から血がにじみ出てくる。これ以上眺めていては、死ぬ! マーチンの料理に殺される。食べよう!
でも、どちらから? 目の前には丼めしが2つ並んでいる。一見シンプルでずっしりした山風と、ピカピカだけどさっきまで刺身でいただいていた島風。迷う!
「あと、刺身で余ったアラを使ったアラ汁。魚の顔が怖かったら目ぇつむってお汁だけ飲んだらええ。」
怖いって言ってるんじゃないのよ、マーチンには私がお姫様にでも見えてるわけ? じゃあ、最初にこれから飲んでやる……お魚とキスする趣味はないから、ちょっと注意して。
「…ふぅーーーー。温かい…」
「ん、旨い。我ながらよう出来たな。」
あれ、マーチンも食べるんだ。
「もともと俺の賄い飯やで。キミも、計ったようにええ時に復活してきたもんや。やるナ。」
そ、そんな贅沢が許されていいのか、ニホン。そ、そんなに遠慮なく山風を掻き込んで…許さない、私も負けてられない!たくさん食べてやれ!
*
「夢のようだ……」
「松山風はそのまま出汁茶漬けにもできるから。おかわり分はそうしよう。」
「私は出汁茶漬けの何たるかは知らないけど、そうしよう。あ、マーチン、賄いでお酒のんでていいの?」
「いや、これにお酒なしはどうかと思う。灘のお酒に明石の鯛を伊予料理でいただく、瀬戸内海尽くし。いやぁー昼からのごっつぉ、よろしいなぁ。」
「恐れ入りました、灘のお酒。他には? あるんでしょう、お出しなさい。」
「阿呆。これは、大事に飲む系のお酒なの。
灘のお酒なら、今風のお酒は福寿とか、伝統系なら剣菱とか。大手なら他に白鶴、菊正宗、沢の鶴ほかいろいろ。俺の好みなら仙介と福寿やけど、ウチのホームは灘のライバルの伏見やからね。とびきり以外はちょっと点が辛めにつく。
しかしやっぱり仙介、旨いねぇー。」
「フォローができてないよね。まぁ、いいか。」
それって、やっぱり沈んだ私のためにいいのを用意してくれてたってことじゃん。ふふふ、語るに落ちたね、素直じゃないんだから。
そうだ、マーチンのニホンに渡る道は閉ざされたけど、この世にはまた別に、ユメさんが来た別のニホンにつながる道もどこかにあるはず。諦めて泣いてるどころじゃないぞ。
ニホンなら何でも良いわけじゃなくて、マーチンがいない日本に渡っても仕方ない。でもこの男は何だかんだ言いながら優しいからついてきてくれると思う。思うだけじゃなく、しっかり言質をとっていかないとね。うふふ。
つまり私がやるべきことは、引き続きマーチンを惚れさせる大作戦の続行だ。何も変わっちゃいない。がんばろう。
「何を笑てんのん。ま、元気が出たならええこっちゃ。出汁茶漬け、する?」
「する!」




