6話 ヒロインの幸せ
産まれて初めて握った包丁は思っていたよりも重かった。今までは使用人たちが料理をしてくれていたし、黙って座っていても料理が運ばれてくるようなそんな環境だった。それが今はミレナと神父様と一緒に野菜を切っている。ふたりに教わりながら慣れないことをするのは楽しいけれど大変で、食事を用意してくれる方には感謝しなくてはいけないと改めて感じた。
「決めたわ、これから私のことはノアと呼んで!」
「ノアさま……ですか?」
「様も禁止、ミナから私の存在を取り戻すまで私は教会育ちのノアよ」
「分かりました。ノア……素敵なお名前です」
「可愛いわね、ノアちゃん。これからは私もノアちゃんって呼ぼうかしら!」
「ふふ、ありがとう」
食事の準備をしながら相談していたが、今すぐにでも取り戻したいエレノアとしての尊厳はそう簡単には取り返せるはずもなく、最終目標になりそうという結論に至った。こればかりはミナが自首でもしてくれない限り取り返すには難しすぎる。だからこそ世界に溶け込むためにもエレノアとして過ごす事は一旦諦めた方がいいだろう。ティリーも喜んでくれたノアという名前は自分でも結構気に入った。
それから神父様は女神様に教えて頂いた経緯のこともあり、教会を隠れ蓑にして暮らしていくことを了承してくれた。空いていた部屋をひとつ貸してくださって、こうしてキッチンの使い方も教えてくれている。一つ問題があるとしたらこのバラバラの大きさの野菜達かしら。
「ノアにはまだまだ練習が必要かな」
「お恥ずかしい限りです……」
神父様も昔から私のことを知っているように扱ってくれている。あまりにも下手くそな包丁にバラバラになった野菜たちの乱雑な姿を見ても笑ってそう言ってくれたけれど、これは中々大変かもしれないわね。本当に恥ずかしい話だけれど今の私にはひとりで生きていく能力もお金もない。自分の置かれた境遇もその元凶も分かりはしたものの、それに対して何かをするための必要な準備が何一つ出来ていない……と言うよりも出来ない状態。こんなんじゃダメね、対策を講じましょう。
ミレナはパナケア様からの天啓を得て私に協力してくれている、それはミナという存在がこの世に害をなすと考えてのこと。実際に被害を受けたミレナからすれば警戒対象であることは当然よね。それならミナに関することだけは頼ることにして、他のことは自分でなんとか出来るように準備するのがいいわ。そうしたら、なにより優先してやってほしいことが出来たわね。
「ノアは、これからどうされるのですか、わたくしに協力出来ることならお手伝いしますよ」
「それは頼もしいけれど、ミレナにもやるべき事はあるのでしょう?」
「それでも、わたくしに何か出来るのならお手伝いしたいんです」
真っ直ぐにそう告げてくれる。本当にありがたい話だからこそ、切り出してしまおうかしら。私が乱雑にしてしまった野菜たちをミレナが細かく切り直してくれてスープに入れている。
「じゃあ、ちょっと言いにくいのだけれど一つだけ頼んでもいいかしら」
「もちろんです、なんでも仰ってください」
「王子様と結婚してくれる?」
ガシャンッとお皿が割れる音がした、慌ててティリーに目を向けるとその音にびっくりした様子ではいたがちゃんと浮かんでいた。おいで、と言うように手を伸ばすとこちらに来てくれたので安心させるように抱えてあげる。ティリーじゃなくてよかった。音の出処は神父様で、持っていたお皿を落としてしまったみたい。
「大丈夫ですか、お怪我は?」
「あ、あぁ。大丈夫だよ、驚かせてしまってすまないね」
落ちたお皿の片付けを手伝ってミレナの異変に気付く、真っ先に反応しそうなものなのにもしかして。
「ミレナ?」
声を掛けるとようやく気が付いたようにこちらを見る、真っ赤な顔でぱくぱくと口を動かして今まで聞いたこともないような声量で声を上げた。
「あ……わ、私がユウリさまと結婚……!?」
神父様もミレナもそんなに動揺するものなのかしら、周りから見て居ればふたりはお似合いで結婚するものだとばかり思っていたのだけれど。実はまだそういう雰囲気はないとか……?
「ふたりはお似合いだと思っていたけれど」
そう言うと耐え切れないといった様子でうわ言を呟き始めたから、ミレナをそっと近くの椅子に座らせて料理を引き継ぐ。
「ノアちゃん、スープが焦げてしまうわ」
「あら、ありがとうティリー。……これは、回せばいいの?」
「そうそう、上手ね」
「なにか入れた方がいいのかしら?」
「さっきミレナちゃんが味付けはしていたから大丈夫よ、そのまま掻き回して少し火を通してあげてね」
お皿の破片を片し終えた神父様が新しいお皿を持ってきて変わってくれる、ティリーのおかげで少しまともに料理のお手伝いが出来たわ。大きな一歩ね。少しは落ち着いてくれたかしら、ミレナの様子を伺いながら隣へと座って声をかける。
「……無理はしなくていいのよ?ミレナの気持ちの方が大事なのだから」
「いえ、わたくしにやらせてください……」
本当にか細い声だった。反応からも分かる通りちゃんとユウリ様に恋していたのなら安心したわ、私のわがままで人生の大切なことを決めさせる訳にはいかないもの。
「あの……どうしてわたくしなのですか、ユウリさまにはもっとお似合いな方も沢山いらっしゃいます。わたくしは……」
身を引くつもりだったのだろう、ミレナの性格を考えれば分かること。それでも私はミレナがこの国を支えるのなら悪くないと思っている。それに。
「さっきも言ったけれど私はミレナとユウリ様ならお似合いだと思っているわ。それにね、ミレナには嫌な思いをさせてしまうけれど私が行動するために、ミナの気を引くのはあなたが適任なのよ。自分でも分かるでしょう?」
「あ……。なるほど、そういう事だったんですね。それならよく分かります、わたくしは立場上ユウリさまとお話することも多いですし、ミナさまの気に触ることが多いようですから」
「私が隠れて見ていた時は、いつもユウリちゃんがミレナちゃんと話したがっているように見えたのに気付いていないのね」
ティリーの言う通りミレナには言えないが、ユウリ様も満更でもなくミレナの事が好きなはず。だからこそミナは憤慨してミレナの事を敵視していた。私がミレナと行動していた事であの女にも警戒心というものが植え付けられたはずだから、今までほど危害を加えられることはない。その分安全に行動も出来るんじゃないかしら。
「ミレナが気を引いてくれてる間に私は色々な準備を進めるわ、まずはマナを使った仕事を探そうと思うの。せっかくだからノアとして魔法士登録でもしようかなって」
この国での魔物被害はそんなに大きなものではないが、戦える人というのは少なく重宝されている。戦闘系のマナを持つ人が少ないという事もひとつの問題点で、護衛や討伐、素材の確保など色々な仕事があるということは知識として知っていた。そういった一部のマナを持った人達が活躍出来るように存在しているのがギルドと呼ばれる施設で、大まかに戦士、魔法士、採取者の登録が出来る。その後は自由に依頼を選んで報酬を得られるシステムでダンジョンへの探索の許可などもこの施設で得ることが出来るんだったかしら。
「その間、わたくしがユウリさまと仲良くしていればミナさまの気が引けるという事ですね。もう、結婚なんて言ってからかわないでください!」
「からかってなんかないわよ、本当にそうなるといいと思っているもの」
「もう騙されませんよ」
ミレナにとっては王子様との結婚は大それた話なのね、全然信じてもらえなくなってしまったわ。それでも私は必ず二人を結婚させる気でいるから安心してちょうだいね、ミレナの幸せもまた私にとっての復讐なのだから。